ー銀葉・冬の旅 その後ー
赤楽元年 慶東国麦州境
麦州と隣の州とを遮る山の中の道は、街道からは遠く外れて余所者は通ることもないところだったが、そこを今傭兵らしき数騎が駈け抜けた。選んだ道筋もだが、急いでいるようでありながら翔べるはずの騎獣で地を駈けているのがなにやら曰くありげなその一行は、突然ひとりの合図で停まった。
合図したのは他に囲まれるように中心にいた一騎で、他と同じような甲冑姿であった。
ばさりととった被り物の下は痩せぎすな白皙の若い男で、鋭い眼差しは鷹にも喩えられたが今はその眼で辺りを窺い、何も逃さないと言われた鋭い耳であたりを探っていた。彼が何を待っているのか同じように辺りを見回し探ろうとする他の者が何も気付けないでいるうちに、男の厳しい表情が少し緩み、彼等に先に行くようにと告げた。
新王が立ったばかりで街を離れればまだまだ妖魔も出るというのに、こんな寂しいところに侯を置いて行くのかと不安がる兵は、元からそういう取り決めだっただろうと促され、彼が下りた騎獣を引いてしぶしぶ進み始めたが、それは先ほどまでの駆けっぷりを忘れたような足取りで、こちらが見えなくなるまで後を振り返り振り返り去っていった。
やがてその足音も遠のくと、あたりには鋭い高い声で鳴き交わす鳥の声だけが耳に付いたが、すぐに脇道からがらがらと堅い音をたてて荷馬車が出てきた。
「心配しましたぜ」
手綱を取る若い男が声をかけた。
「ごくろう、待たせたな」
一瞬停まった馬車の幌の中に後から素早く乗り込むと、中には数名の男女が乗っていた。
「他の馬車は少し先に行かせましたが、ゆっくり進むように言ってありますのですぐに追いつきまさあ」
揺れに備えて据え付けられた樽に座り込むと、すぐに馬車がぎしぎしと車体をきしませて方向を変えるのが分かった。これから脇道を抜けて別の街道へ向かうのだった。
「さあ、そんな事より早く着替えを」
舞台での着替えを手伝うのに慣れた何本もの手が浩瀚に伸びた。
その手に促されるままに甲冑を脱ぎ捨て、その下の高位の罪人が着る白い絹の単衣から袖を抜きながらも、座長である男の方を向いてさっそく気になっていた事を訊ねた。
「和州の方の動きは?」
「やりたい放題は相変わらずと言うことで。俺たちは二日前にこちらに移ったんですが、今は別の座が代わって様子を探ってます。頂いた足の速い騎獣で明日にはそっちから報告が来るはずですのでもうちっとお待ち下せえ」
「そうか、送ってくれていた報告のおかげで随分助かったし、桓魋もいいねぐらを教えて貰ったと喜んでいた」
「いや、それより先の冬に景王を見つけられなくて、どの座からも不甲斐なかったとお詫びを言ってくれと頼まれているんですわ」
「王なのか女王なのかも、それどころか本当にいるのかどうかも解らない人間を探すなどもともと不可能。台輔のご様子からもしやどこかで難儀されているのではと、一応頼んでおいただけ。それよりあの時も今度もそのために興行の予定や行き先でさぞ無理させたのだろう。すまぬ」
軽く下げられた頭に恐縮する座長を差し置いて、脱がせた浩瀚の衣服を藁で包んで隠すのに忙しい女が横から口を挟んだ。
「何をおっしゃる。あたしたちはおまえさまの頼みなら何でも優先なんだから、そんなお気遣いなど勿体ない」
「そうさ、じいさんが死ぬまで言い続けたからな。俺が捨てた親を他人で座員でもない子供が身体を張って食わせてくれ、最期はちゃんと人並みに葬ってくれた。うちの一家が続く限りあんたへの恩を忘れるなと」
すでに死んだ親を懐かしみながらの座長に続いて、その妻も縄を架けられた時についた浩瀚の手首の痛々しい痣と擦り傷に薬草の軟膏をすり込みながら言い添えた。
「まったく、若い者が年寄りを助けるなんて、そんな黄朱にあるまじき事をするから、州侯さまなんぞにされて、こんなご苦労をされるんだ。他人の事なんかほっときゃ気楽な朱旌家業だったのに。でもいつまでも戯子でいるお人じゃなかったんだね」
そして手首に塗り終わると、今度は縄で締められていた肩の具合を調べ始めた。仙でなくなると痣まで付きやすく治りにくかった。
「うちのひいばあちゃんはこのお人の髪をこんな風に梳いて結ったのを死ぬまで自慢していたそうさ。綺麗な髪だったって」
服を片づけ終わった先ほどの女は今度は浩瀚の元結いをパチンと切り、髪をほぐすと固めた油をとるために梳き始めた。その手は同じ事をしたその曾祖母より優しかったが念のため浩瀚は振り向くと、娘の髪型に結ったりするなよと軽く睨んだ。
あの冬、先に去った座員は、そののち残った座員の話から自分の親兄弟や座の仲間が彼に助けられたと知った。
いくつもの座に別れてはいても、縁ある者はいずれもそれぞれ子供に親代々の恩を返す機会を逃さないようにと誓わせた。
浩瀚の方からは滅多に頼み事もしなかったが、十二国を巡って麦州に寄った彼らは、途中見聞した各国の最新の情勢を詳しく伝え、そこから得た情報を参考に、麦州は港を持つ地の利を生かして長年多大の利益を上げた。そしてそれは王宮から州を守り州民を助け、さらにその一部は朱旌の子供や老人の保護にも回された。
そのまま和州の動きを話し込んで、手伝いの手に成されるままに着替えていた浩瀚は、顎に手を添えて何かされそうになったのに気付いた。
「ちょっと顔も変えておこうね」
「必要ないだろう」
未だに化粧の匂いの嫌いな彼は近づけられた筆に染みこんだ匂から顔を背けた。
王宮や州城は上から下まで顔料や香料を惜しげなく使って美しさを競う女ばかりで、そんなところで長年暮らしてきてはいても、それは変わらなかった。
彼が嫌ったのは化粧の匂いだけではなかった。
朱旌としての生活で化粧や衣装、そして身振り素振りの力を知り尽くした彼の琥珀色の眼は、どんなに技巧を凝らした装いも、媚びを含んだ微笑みも、相手から容赦なく剥ぎ取り、その本性を剥き出しにして値踏みする事が出来た。
それは彼を政の世界で生き残らせる力にもなったが、一方で人としてのささやかな歓びやごく普通の生活から彼を遠ざける結果にもなった。
「髭でもつけておけばいい」
「だめだめ、こんな時はまずわざとらしい髭面から調べられるに決まってます。舞台化粧するわけじゃなし、こんななまっちろい顔では仲間には見えやしない。ちょっくら手を入れるだけですから、任せておきなって」
強引に筆を振り回す女は子供のころから親と一緒にいつも浩瀚に挨拶に来ていた。その父親にそっくりな頑固さに浩瀚はしぶしぶ顔を差し出した。
やっと話しが一段落した頃、馬車が止められた。
幌の隙間から覗くと、役人が兵と立っていた。
「おっとお役人だ、さあ、みんな出番だ」
座長の声に、馬車の中の全員が立ち上がり、浩瀚も下りようと裾を見てぎょっとした。
「おいっ、何を着せた」
「ああ、うちはこんなちょっと色っぽい年増がいなくてな、これでやりたかった演目が出来そうだな」
「娘っこの髪型なんかにはしていないよ」
先ほど髪を解いた女が澄まして言い、化粧をした女と互いの腕を誉め合った。
「ほらほら、そんな怖い顔をしないで、お役人さんには愛想良くしておくんなさいな」
皆は楽しそうに浩瀚をせき立てた。
「逃亡中の罪人を捜しておる、匿ってはいないだろうな。全員下りて子供以外は並べ」
横柄な役人にうんざりしながら浩瀚は道ばたに一座に混じって立った。
ひとりひとりをじろじろ改めていた役人は寒そうに肩掛けに顔を半分埋め、ほつれた髪で目元も半分隠れた女の肩掛けを、念のためぐいと引っ張り下ろした。女は被り物の端を喉元に当てた手で押さえたまま、引っ張られて白い首筋が剥き出しになった襟元を反対の手でゆっくりかき合わせた。その手つきと乱暴を咎めるようにちらりとこちらに流した琥珀色の少し険ののある目に妙な色香を感じた役人は片方の眉を少し上げてにやりと笑って声をかけかけたが、別の役人がすぐそばの男の座員に気付いてそれを前に引き出すとしぶしぶ離れて行き、引き出された男を胡散くさそうに見た。
いつもなら洒脱な遊び人風の役が得意のその男は、今日は渋い色の衣を妙にきっちりと着込み姿勢良く立っていた。ご丁寧に髪の色も浩瀚と同じに染めていた。
さんざんその男を問いつめたが、どうも州侯には見えないとわかると、役人はぞんざいに手を振って座を行かせた。
「うまくいったな」
ぞろぞろと馬車に戻って役人一行から離れたのを確かめると、皆ほっとしたようだった。
「ああ、どうだった俺の麦侯ぶりは」
「本物より男前じゃないか」
どっと笑い声が上がった。
「男前はいいが役人にはすぐに見破られてしまったじゃないか。本当にいつまで経っても下手くそな戯子だよ、お前は」
男は上機嫌でその批評を受け入れた。
「よし、来年の演し物は麦侯逃亡の演目でやろう。おれが主役だ。そのままの名前はまずいから、莫侯でいいかな」
「じゃあ、あたいに女装した場面をやらしておくれ」
「それならこの色っぽいところをしっかり修行させてもらうんだな」
一同は浮かない顔の浩瀚を囲んでまた笑った。
兵をやり過ごした安堵感から賑やかにはしゃぐ一行には、あの冬を共に過ごした者はすでになく、その子の世代ももういない。
彼らと共にあの時間が消えると思っていたが、それはすでに浩瀚という個人を越えた彼らの共通の記憶となりひとつの伝説になっていた。
飢えの中で行く当てもなく迎えた寒い冬、老いた朱旌の一行を黄海からやってきた少年がその身を挺して守り導く。それは犬狼真君が外の世界にお遣わしになったその化身ではないかと思わせる少年で。
そして春を迎えた一座は美しい騎獣に引かれて彼を先頭に旅立ち、花盛りの街道をあでやかに演じて回るのだった。
やがてその少年は天の雲の上に昇り……
むろん彼の立場をおもんばかり直系の者にしかその詳細は伝えられず、決して外の世界へ漏れることもなかったが、彼が死んだ後なら本当に演し物にされかねなかった。
それは人の夢を演じて見せることで生きる彼等が、自分たちだけのために心の中で演じ続けている夢だった。
そして自分たち以外に決して従えられることも従う事もない自由の民の、それは唯一の王を中心として成り立つ世界とのつながりだった。
馬車は再び身体ひとつとなった浩瀚を一座と共に冬枯れの街道を運んでいった。
彼が今持つのは、彼に対する揺らぐことのない敬愛と信頼、そしてそれゆえに委ねられた多くの命と名誉。
嘗ての仲間のようにこの冬それを守りきる自信は浩瀚にはなく、それはあの時と同じだった。
それでも彼と同志は春を信じる事にした。明るい春の太陽が彼等の上に輝く事を。
銀葉と冬の旅からここまでの話には、各話にシューベルトの歌曲集「冬の旅」からのタイトルを付けていました。
「老辻楽師」「村で」「おやすみ」「宿屋」「回想」「幻覚」「菩提樹」「霜おく髪」「郵便馬車」、そして「春の夢」などなど。
24曲分のタイトルがどれも面白いほどはまったのですが、サイトに出すにあたっての編集で内容も話数も変わり、とりあえず外しました。
子供の頃から大好きだった曲で(ギャグと冬の旅の好きな子供…どういう好みの子だ、今も同じ??)、こんな作品がさらりと書けたのもそれに乗ってかと。
なおここにちらりと出てきた、その後の麦州侯と朱旌の関わりは、メインで書いてみると、これまたなかなか楽しくて。また麦州が長年王宮に隠れてせっせと密貿易に励んでいたという設定は、うちでは既成概念となっています。
このシリーズはもちろんまだまだどっちゃりとあり(げっそり)、こんなペースではいつになったら彼は州侯や冢宰になれるんだ、ですが。
いずれにせよここまでのところ小狼は芸人らしい芸人をしないままで、まるで朱旌の仕事って…と誤解を生みそうなので、もう少し明るい本来の朱旌らしい生活のお話しのものを出してみたいなと思ったり。
ふらふらと再開の時はまたよろしくお願い致します。