黄海にて

―小狼の以前の朱氏時代のエピソード―

追われても痺れた足ではもうこれ以上立つことすら無理で、ずるずると身体が沈むのをどうする事も出来なかった。

本当に運に見放された旅だった。

前回の狩りの結果で強気になった宰領〈おやかた〉は、今回は猟場を代えた。このあたりは黄海でもとりわけ強い妖獣が多いあたりで、捕らえて帰れば当分遊んで暮らせるほどの獲物がうようよしていた。弟子も役に立つ年頃になり、腕の立つ仲間も誘って今年は宰領にとって一世一代の狩りの出来る年と思ったのも当然だった。気になるのは一番年下で見習いの小狼くらいだったが、彼も以前とは違い少なくとも邪魔にはならないはずだった。

こうして自信満々で門をくぐった一行だったが、よい妖獣が多いと言うことは一帯に大物の妖魔も多く、それらはこの朱氏の一団を容赦なく襲った。
それでもたしかに前半は夢のような毎日だった。その結果、旅の足手まといになるほどの獲物を抱え、ちょっと預けるには黄朱の村にも遠すぎ、さてどうしようかというのが贅沢な悩みとなった。それが原因のひとつだったのかもしれないが、その後のほんの些細なつまづきから一転して狩る側から狩られる側になった彼らは、次々と妖魔に倒された。

身の軽さと勘の良さだけをたよりになんとかここまで生き残ってきた小狼も、結局たったひとり残った兄弟子がすぐ近くで裂かれるのを闇の中で聞くことになり、あまりにたくさん聞きすぎた悲鳴はすでに小狼の耳を素通りするようになっていた。
そして妖魔がかみ砕く骨の音で距離を見計らって逃げようとしたところを何かに足を刺され、そこから痺れの拡がる身体で手当たり次第に隠れ場所を求めて潜り込み這うようにしてやみくもに逃げ回った。
しかし騎獣も食物も頼れる者もなくてはこの先どうにもならず、こうして逃げてもただ死ぬまでの恐怖に怯える時間を長びかせるだけとは分かってはいたが、怯えきった頭と身体は動きを止めることすら出来なくなっていた。
夜の闇が薄れやっと朧気に辺りの輪郭だけが見えるようになったころには痺れが腰まで拡がり、ついに地面に這いつくばったところを再び新手の妖魔に襲われたのだった。


ぐっと目を閉じその時を待ったが、突然、羽ばたきが聞こえて背後から妖魔の気配が消えた。だが安堵する間もなく妖魔が消えた理由はすぐに分かった。
振り返ればその眼前には見馴れぬ黒い塊が立ちふさがり、より強いものに先の妖魔が追われたのだと分かった。
黒いそいつは何やら低い音を立て、音と思ったが驚いたことにどうやら人の言葉で話しているようであった。


―――餌か―――

そういうと周りに生えている黒い触手で少年の傷口にちょいちょいと触れたが、気にくわないという様子でぷいと離れた。

―――なんだ腐りかけている―――

それを喜んで良いのかどうかも決められない間に、去りかけていた妖魔はまたこちらに向き直った。

―――まあ、近くにうまそうなのもいないし、食えない事もなさそうだ―――

触手がずるりと少年の首に巻き付いたのを感じた時、妖魔に襲われるというのは生きたまま食われることだと今頃実感していた。まだこうして意識のあるままその一部を喰われるのかと。

そのとき声がかかった。

「今度は何をしている」

ゆっくり力なく首を回すと、人のようであった。

―――また飯の邪魔をしにきたのか―――

「そいつはやめろ、毒が回って死にかけているではないか。腹をこわすぞ。
それにしても相変わらずの食い意地だが、とうとう他の妖魔の獲物の死にかけたのを横取りするほどさもしい奴に成り果てたか」

妖魔はむっとした様子で、意地になって少年の首に巻き付けたままの触手に力を込め、小狼があえぐのも構わず文句を言った。

―――横取りしたわけではない、私に適わないと逃げたやつらの置き土産だ。ここで腐らせてももったいない―――

「喰ってもまずいと思うが」

―――ああ、そう思ったが、上半分はまだ充分喰えそうだ―――

塊の一画がばっくりと開いて向かって来るのを、首を絞められたままの少年は空気を求める力もなくなり、うつろな目で見つめるしかなかった。

若い男は舌打ちして近づくと、素手で妖魔を無頓着に捕まえ黒い身体を引き戻し、それでもまだ悔しそうにゆらゆらして少年を離さぬ触手を押しやると少年から引き離した。

そしてその信じられない光景に霞み始めた目を見張った小狼を振り返り、ひとり死にゆく少年への哀れみを一瞬その表情に浮かべたようにも見えたが、こちらへはそれ以上近寄ることなく背を向けそのまま行き過ぎようとした。
黄海で生きるというのは、獲るか失うかその二つしかないのである。小狼は失った側となった。ここで助けてくれるのは仲間だけであり、その仲間を失った時彼の命運は尽きていた。

若者が背を向け去ってゆくと、少し離れたところで様子を窺っていた先程の黒い妖魔がするりと再び滑り込んで来て、いきなり少年の二の腕にぱくりと噛みついた。

少年の発した短い叫び声に振り向いた若者が怒鳴りつけて再び妖魔を追い払うのを、どうせ噛みつくなら痺れた足の方にしてくれればいいのにと思いつつ、小狼は腕を掴んで歯を食いしばって見ていたが、そのまま再び気を失おうとしていた。

―――他の奴に取られないようにわたしの餌だという徴を付けておいただけだ。もし元気になったら丸ごと喰ってやる―――

黒い妖魔は捨てぜりふを吐くと、若者の怒鳴り声に追われるように木陰の中に滑り込んで逃げていった。

「大丈夫か。全く食い物のことしか頭にないしょうがない奴だ」

若者はこちらに戻ると苦々しげに一咬みされて肉の欠けた腕を手にとって眺めた。

「ふむ、本当に徴をつけて行ったな。まあ徴だから、あいつにすればかなり手加減した傷で助かったな」

そして少年をちらりと見たが、なぜか笑った。笑うというより苦笑いに近かったがそれでも笑いの浮かんだその顔は整った目鼻立ちで、最初の印象よりかなり若くて自分よりいくつか年上に過ぎないという事に初めて気付いた。髪の色も小狼と同じような黒っぽい色合いだった。

「運の良いやつもいたものだ。この傷が付いている間は他の妖魔は嫌がって喰いたがらぬ。これが直らぬうちにさっさと黄海を抜け出すことだな」

今までに彼が運が良いなどと言ったのは、いずれも彼を誑かそうとする相手に決まっていた。生まれてこの方運の良さにも幸せにも縁の遠い少年は、痛みに歯を食いしばったまま年上の少年を睨みつけた。
小狼のそんな目つきを気にした様子もなく相手は立ち上がり、騎獣に下げた荷物から竹筒を持ち帰ると、その中身を刺された方の足の傷口に垂らし、腕の咬み傷にはそれより少しの水を注いだ布を巻き付けた。

「まったく困ったことばかりするやつの子守りのあげく尻ぬぐいまでさせられるとは」

意味の分からない事を呟くと、無造作に小狼を抱え上げ、呼び寄せた騎獣に乗せたが、近くで見ればそれはどう見ても妖魔にしか見えず、しかし身体に力が入らないため逃げる事も出来ないまま背に揺られた。

若者は少し離れたひらけたところまで来ると、真ん中に小狼を下ろして寝かせた。

「ここでしばらく待てば拾って貰えるだろう。安全なところまで着いたら、腕の傷にもっとこの水をつけるがよい。あまり早くその傷が治るのもまずいから」

これだけの傷なら早く治る心配なんかいるもんかと思ったが、それだけ言うと不思議な若者は小狼を置き去りにして去っていった。
拾って貰えると言われても、ここがどこかも分からず、この広い黄海で人などいつどこを通るかも分からないのにと思った。それにこんな場所では妖魔に襲われても逃げ込む場所もない。
いっそ餓えと乾きで苦しむ前にあの黒い妖魔が戻ってきて喰ってくれればいいがと待っていたが、その気配はなく、他の妖魔もなぜか現れなかった。しばらくすると茂み越しに足音がした。

現れたのは、騎獣に乗り妖獣を二頭連れた男だった。

横たわっている少年に気付くと、胡散臭そうに藪に入って遠回りしたが、少し先で振り返ると騎獣を下りてこちらへ来た。

黙ってじろじろと見下ろしていたが、小狼が握り締めたままの竹筒に気付くと眼を細めてそれを取り上げた。

「どうした」
「妖魔にやられた」
「まあ、こんなところで寝そべっているやつはたいていそうだが。誰が手当てした」
「変わった姿の若いにいさんだよ。ここまで連れてこられて拾って貰えと言われて放り出された」

そして珠を下げたその姿を説明しかけると、竹筒を持ったままの男は口汚く罵り始めた。そこに聞こえる朱氏なら誰もが敬う御名に小狼も驚いたが、ひとしきり罵り終わると再びその竹筒を小狼に押し付け、むっつりとしたまま少年を抱え上げて、騎獣に載せた。

「足に力が入らないだろうが、とにかく落ちないように跨っていろ。落ちたらその時はどこからの預かり物だろうが捨てて行くからな」

先程の治療の効果はなかったのかあったのか、噛まれた腕に力は入らず、しかし痺れはなんとか腰で止まっていた。しかししがみついて身体を支える腕が毒ではなく疲れで痺れてきたのでこちらもいつまで保つかと思った。

「村に置いていってやりたいが、遠すぎる。とにかくこのまましっかり捕まっていろ。ああ、俺の名は頑丘だ」

そう名乗った男は、それっきり口もきかなかったが、それでも時々騎獣からずり落ちかける小狼を押し上げてくれ、あとはひたすら無言で先を急いだ。

速くは進めず、ぎりぎりにはなったがなんとか門にたどり着き外へ出る事が出来た。
いつもの事だが、黄海に慣れた身に外は寒く痺れた身体は冷え切った。

「さて、これから俺はこの騎獣を恭へ届けるんだが、お前をどうしたものか」

頑丘は小狼を死んだ獲物のように肩に担いで運ぶと、飯屋の椅子にどさりと落とし、食事と酒に新しい布も頼んだ。
「おい、お前の仲間はまだ生きているじゃないか」
回りの客から揶揄する声がかかったが無視した。

「とんだお荷物だが、押し付けられる義理のある奴がそこにはもうひとりいるから、そいつの顔で身の振り方を決めるまでの間、どこかの里家にでも押し込んでおいてやろうか」
新しい布を貰うと竹筒の水を多目に浸して小狼の腕に巻きながら言った。
「里家はいやだ。このままここへ置いていってくれ。また次の宰領を見つける」

「しかし次この門が開くのは一年先だ。それまで何をして食いつなぐ。仲間も死んで無一文の朱氏の餓鬼を雇う者などいない。下手をすればどこかでとんでもない仕事で一生働かされるぞ」

「お前が俺を弟子にしてくれないか?」
「俺は弟子は持たない主義だ」
「じゃあ誰かを紹介してくれ。お前の目を信じる」

頑丘は辺りを見渡した。まあ今日一日ならここには黄海から出てきたばかりの朱氏がいくらでもいるし、仲間を失った者も少なくないはずだ。
そこで疲れた身体で渋々あちこちの店を覗く羽目になった。
しかし真君に押し付けられたとなると、むやみな相手にも預けられず、相手の方も少年のやせこけた身体と気むずかしげな表情には気をそそられないようだった。

結局その翌日になっても話しはまとまらず、もうそれ以上頼める朱氏も見あたらなかった。
頑丘は身の振り方も決まらず不安なはずなのに、それでも弱みを見せようとせず片足を引きずりながらも眼ばかりぎらぎらさせてついてくる孤児に告げるしかなかった。

「とにかく俺と一緒に来るしかないようだな。それまでに誰も引き取り手が見つからなければ黄海の村までは連れて行ってやる。それが嫌ならここで勝手にしろ」
「分かった」

しぶしぶ少年が答えると、頑丘は恭へ行くために荷物をまとめた。

俺はなんだってこんなやっかいなガキばかり拾うはめになるんだ。とにかく珠晶の時と違ってこいつは何か大物になるというわけでもないようで単に真君にやっかい払いされただけらしいから、さっさと追っ払うに限ると考えた。

「銀葉」より少し前の小狼くんの朱氏見習い時代です。

久しぶりに登場の妖魔ちゃんです(「鷹隼宮姫談」)。
こちらも小さいころの話でやんちゃ盛り。ベビーシッター(?)を手こずらせる食欲旺盛は相変わらずのようです。ちなみにこの時間列にはあのシリーズは含んでいないのですが、まあスペシャルゲストという事で。
それからこのあと恭に行くのですが、今回はそちらはカットしました。
少しネタ晴らしをすると、「銀葉」で小狼が字が読めたのは珠晶のおかげで、再会を待ちわびていた当時の彼の朱氏としての宰領はこの頑丘です。

またこの真君との縁から、その後小狼と呼ばれるようになったのです。(恭国編がカットされたので、とりあえずこの時点でもすでに小狼と書いていますが)

さて、小狼はその頑丘のところへ無事戻れるのでしょうか?と、次回からは旅芸人と小狼のその後に話を戻します。