騎獣の体をそっと柔らかな布でさすっていた桂桂は厩の入り口に差した影に振り向いた。
「冢宰」
つい伏礼しそうになるのを、静かに袖を挙げて止められた。
「この国では禁じられている事を、主上のお側にいるおまえがしてどうなる」
分かっているんだけどこの人にはついしてしまうんだ、と今度もまたあわてて立ち上がった少年の脇をかすめ、客はそこに横たわる獣を見下ろした。
陽子と台輔以外ではこの国で一番偉い人が、その地位と衣からは思いがけないほど敏捷な身のこなしで音も立てず素早く動くことに桂桂は気づいていた。
「これが戴の客人の騎獣か」
「はい、李斎様のです。飛燕って言うんです。世話をしてもいいと言ってもらえたので」
汚れてはいないはずだったが、深い傷以外にも毛の抜けたところも多く、相変わらず痩せてあばら骨も肩の骨も目立つそれは、桂桂の目から見ても哀れなほどにみすぼらしい姿だった。
「よく世話をしてある」
「ありがとうございます。でも」
ほめられて桂桂は少し得意になったが、再び悪化した傷に世話の仕方が悪いのではないかと心配していた。
「夏官のひとがここへ連れてきた時はもう大丈夫だったはずなんだけど、そのあと傷がまた膿み始めて。どうしても治らないんです」
それに頷くと、男は裾が藁で汚れるのにもかまわず屈み込み、細い指を獣の体にそっと走らせた。
そして一番治りの悪い傷に当てられた布に手をかけた時は、騎獣が暴れるのではと桂桂ははらはらしたが、飛燕は気づいていないはずはないのに身動きせずおとなしくされるままに横たわっていた。
「この傷で海を渡って来たのか。黄海より妖魔が多いと聞くのに」
静かな声が獣に向かってかけられた。
「おまけに、閽人を左内府で一刻もわめかせるほど恐れ多くも禁門で狼藉をする元気があったとは」
甲高いその声を思い出したのか、言葉とともに喉の奥から漏れた低い笑い声に、桂桂には騎獣が少し恐縮したように見えた。
そして触れられて暴れるどころか、初めての相手の手に少しすり寄る様子を見せた飛燕の姿に、安心すると同時にやっぱり自分の世話の仕方が良くなかったのかとしょんぼりしてつい訴えずにはいられなかった。
「それに餌もほとんど食べてくれなくて。李斎様は飛燕はどうだろうと、いつもご自分の身より心配されているのに。こんな姿を見せたらがっかりさせてしまう」
「騎獣はもともと野生を捕らえたものゆえ治癒力は強い。ふつうならこれだけ大事に世話をされれば治るはず。しかしこれほど弱って傷も深くてはもっと薬も必要だな」
すっかりしょげ返っている子供に気づき騎獣から手を離すと、浩瀚は治療に使っている薬草の名を問い、桂桂は三種類の名を挙げた。
「でもちっとも効かないみたいだから、主上にお願いしてあちらの厩の詳しい人に見て貰うように頼んであるはずなんですが、なかなか来てくれなくて」
浩瀚はそれの意味する事に少し眉をひそめたが、とりあえず今はそれは胸にしまい、懐から取り出した紙に何か書き付け桂桂に差し出した。
「ここに書いたものを冢宰府の厩から貰って来るように。煎じるための小さい炉も忘れず借りて。それから烏麦も分けて貰い粥を作ってやりなさい。人間の病人と同じように最初は顔が映るほど薄く。米より煮るのに時間がかかるが、早く精がつく。元気になれば生で飼い葉に混ぜてやればよい」
そして走り書きとは思えぬ見事な筆跡でありながら、子供にも読めるようきっちりと崩さず書かれた薬草の名を見ている桂桂に、優しく付け加えた。
「早く治してやらねば、そのうち主上はこの獣にも宝重の珠を使うと言い出されるに違いない。天官に加えてこの上冬官にまで騒がれては私も堪らぬ、早く治してやってくれないか」
「はいっ」
桂桂は元気よく返事をすると、紙を握りしめて駆けだした。
しばらく経って、厩の入り口に現れたのは、桂桂ではなく桓魋だった。
ぶらぶらと奥に進むと、ほとんどが空の仕切りの一番奥で傷ついた獣の隣で無防備に眠っているのは嘗ての上司だった。
戴から来たという天馬は、桓魋なら戦に出る身で飼おうとは思わない騎獣だった。しかしこれほど痛ましい姿でありながらも、一国の将軍に仕えるだけあってすばやく首を起こしてこちらを見た様子では、そう易々と知らぬ者を近づけるとも思えなかった。
そして寝ている男の方もこれが人間のそばならこれほど太平楽に昼寝をするはずもなかった。
獣が小さく羽ばたき、黒い首を伸ばして軽くつつくと、浩瀚はいやそうに片眼だけを開けて将軍を見上げた。
「桂桂を探しているなら遣いに出した」
「顔を見れなくて残念ですが、今は浩瀚様をお捜ししていたんですよ」
「私がこことよく分かったな」
「最初に冢宰府の厩へ行って、それから主上の厩へ行って、もしやとこちらへ来たのです」
「いつ私が馬になった」
琥珀色の目で冷たくにらまれて怯むようでは、禁軍将軍は勤まっても麦州師帥は勤まらなかった。
「探していたのは馬ではなく、元麦侯ですよ」
「どういう意味だ」
「柴望様がぼやかれていました。他州〈よそ〉の州宰は州侯のご機嫌を損ねても、とびきりの酒といい女を揃えておけば首は飛ばない、と。
ところがうちの侯は、すねると厩へ籠もる。
どうして他州のように後宮で酒でも飲んでくれないのだと」
浩瀚は体面や職務上の必要がある時以外、杯に紅の味や香の匂いの移った酒などごめんだった。
「だから柴望様は、騎獣の世話だけではなく、州侯のお世話も出来る厩番を見つけるのに苦労しておられたし、うろうろ歩き回られてもふて寝されてもお召し物が汚れないように、酒ではなく新しい藁をふんだんに用意していつも厩をきれいにしておくようにされていました」
そして湿った藁で汚れた浩瀚の官服を当てつけがましくじろじろと見た。
「ここにはそんな配慮はされていないようですから、その格好のままで御前にゆかないようになさって下さいよ」
「お召しか」
「禁軍将軍を遣いに出せる人なんてあんまりいませんよ」
腰まわりについた塵を手で払いながら渋々立ち上がった浩瀚にさらに言った。
「主上がおっしゃってました。浩瀚は疲れているようだ。私が他国の事にかまけているのでその分負担をかけているはず。
それに李斎殿のところでも、何も口を挟まない。いつも口添えして助けてくれている浩瀚が黙っているというのは、やはりすべきでないよけいな事をしているのではと不安になる、と」
浩瀚は、身仕舞いの手を止めた。
あのまだ若い主上にこちらの気を悟られるとは、それほど隙だらけになっていたのか。
「知らない他国の話に口を出すような事もないから黙っていただけ」
この上桓魋にまで勘ぐられてはと素っ気なく言った。
「ほう、そうですかね。私の勘ではではそういう時の浩瀚様は、心の中で何か抱えておられる時。
姿をくらましたとなれば、行く先は厩に違いないと思ったんですがね」
「太師から騎獣の傷が治らず桂桂が困っていると聞いたから、薬草の手配をしてやっただけだ」
「まあ浩瀚様ほど騎獣の怪我や疾病にお詳しい方もいらっしゃらないのは知ってますが。いくらなんでも冢宰になっても、しかもこんな時に」
そう言うと、早く内殿に行って下さいよ、とだけ念を押してさっさと出て行った。
浩瀚があと少しでも厩でひとりになれるようにとの配慮だと気づいたが、早く主上の元にと思いながらもついそのまま振り向いて傷ついた騎獣を見下ろした。
この招かれざる客についての一報が冢宰府に届いた時、その国の名から古い記憶が蘇った。
この朝と同じほどに彼が若かったあの頃、そのころの彼の人生では稀な穏やかな一夏をあの国で過ごしたのだった。
冬は厳しいはずだが、夏はその盛りにもここの下界のように暑さに茹だることもないさわやかな気候。
そしてその思い出はそんな夏に相応しいひとりの少年に繋がった。
恐らく彼の人生で初めて何も見返りを求める事なく与えるという事をした人間だった。何より彼はたとえ短い時間とはいえ、身分は違っても、友に違いなかった。
その友情から得たものは後に彼の命を幾度となく救い、やがて新しい人生を掴む手助けにもなった。
そして今もなおこの国で彼の中に、たとえば範からの賓客に久しぶりに伏礼した時、そんな動きの中に確かに阿選は生きていた。
――ああ、だめだよ、まず重心を移して、それから視線で線を引くようにして立ち上がるんだ
そして陽子に、彼女の読めそうにない字や言葉を指差すのは、譜面の上を滑る阿選の手の動きと声だった。
――こういうのを見るのは初めてかい?じゃあ教えてあげる
そして阿選の傍らには常に「彼」がいた。
新しい泰王の名を聞いた時はまさか、と思ったがやはりあの青年のようだった。
思わず阿選、おまえは騎獣を見る目はなかったが、人を見る目は私よりずっとあったのだと思った。
その彼についてはきっと新王の身近で力を発揮しているに違いないと期待を込めて願ったが、あの後の彼は他国の事にまで関心を持つ余裕を持たなかった。
思いもかけないことでまたふたりの人生と交わる事になり、阿選についてもどうしているだろう、この女将軍からその後を知ることも出来るだろうと思いつつ、何十年も呼ぶ事のなかった名を口に上らせ陽子に報告した。
「……新王の名は乍驍宗」
意識を取り戻した李斎から、期待したとおり阿選の消息も知ることになったが、その内容は彼が心に描いていたものとはあまりにかけ離れていた。
あの名があれほど冷たく人の口から発せられるのを聴いているのは辛かった。阿選は決して、たとえそれが戯班に売られたばかりのちいさな童でも、人をあのように呼び捨てる事はなかったのに。
浩瀚は首を伸ばしてきた騎獣の痛々しい背をなでてやった。
「阿選、おまえが騎獣をこれほどまでに傷つけるような…、何があった」
そしてさらにつぶやいた。「驍宗、彼に何をした」
騎獣の首に顔を伏せ、閉じた彼の瞼の中で、こちらを振り向いた友は初めてあった時のまま十代の若く美しい伶官〈王宮の楽人〉で、容貌はおぼろだったが、確かに明るく笑って、蒼い無骨な騎獣の首をやさしく抱きしめていた。
そして響きの良い声が、すぐ耳元でささやいた。
――こんな舞は舞わずにすめば……ね、小狼
そしてその声があの詩を唱うのが聞こえた。
唱はまた彼を遠くの世界に飛ばし、気が付けば夏の慶から一転して一面の雪景色にいた。
そして吹きだまりに横たわる黒ずんだ塊にしか見えないものを前に、見覚えのない土地でただならぬ姿に対しているというのに、なぜか前の時のような恐れは抱かず、ごく自然にその傍らに跪いた。
布を片眼に当て、もう一方も固まった血糊のためかふさがってほとんど明かないその顔を、浩瀚はそっと手を添えて持ち上げ自分の膝に載せた。
「誰だ」
かすれた声は柔らかくも甘くもなかったが、彼には懐かしい声だった。
「紅娘です」
長い間自分でも耳にした事のない高い声が、膝の上に仰向かせた額に張り付いた髪をそっと後ろになでつけてやりながら答えた。
「……おまえか」
「はい」
そしてどの傷口からかもわからぬこびりついた血を、自分の袖の内側から引き出した柔らかな布でぬぐってやった。
さらに屈み込めば、長い髪が新たな鮮血のように横たわる身体のどす黒い血の上に散った。
日々目にする陽子の髪のように光に透け輝く紅ではなく、染め粉による禍々しいほどに紅い髪。
「どうしていた」
相手は見えぬ目を補おうとするのか、かすかに動く手でこちらを捕らえようとしたが、力尽きて地面に落とした。
「遠くに居りました」
力の入らぬ上半身も膝に引き上げ、胸元に抱え込んで答えた。
「会いたかった」
「私も」
そして冷たい雪の上に投げ出された手をとって、そっとその胸に置いてやった。
嘗ては優雅に彼方を指さして舞った手は、今は爪の中まで黒く汚れきっていた。
「じゃあ、久しぶりに唱って」
かすれて軋む声が、その震える手を再び持ち上げて、こちらの胸元に当ててせがんだ。
着ていたはずの官服からいつの間にか代わっていた刺繍を施した丹い襖は、すべすべとしていて力の入らぬ手をすぐにも滑り落とそうとした。
浩瀚はそれに気づき、その手を受け止め自分の胸に当てると、優しく囁いた。
「はい」
唱った歌は嘗て阿選の父の宴で唱った歌。
贅を尽くした都でも屈指の豪邸の、その光り輝く舞台で、何も知らぬ少女の恋への夢とあこがれを唱う愛らしいあでやかな姿。
それを見守り、力一杯拍手をして叫好するその館の若い家公。
なぜ彼はあのまま、あの止まった時の中に留まらなかったのだろう。
飢えも痛みもないはずの、誰も傷つけることない光溢れるあの世界に。
膝にずっしりと感じられる体躯からは、寵児ともてはやされ王が愛した姿はとうに失われ。
先ほど包み込んで引き寄せたままの手は節は太く硬い皮膚で覆われ、弦をつま弾いたしなやかな指とは思えなかった。そして柔らかな声で優しい言葉を紡いだ細い首に代わって、目の下で太い喉が荒い呼吸を繰り返していた。
いくらでも唱ってやる。おまえのためならいつまでも。
夢に請われるまま浩瀚は少女の声で唱い続けた。
「黄昏…」というのは、ほとんど唯一浩瀚が出ている作品なのですが、内政的にはそれなりに台詞も出番もあるのに、なぜか戴がらみになると、李斎の部屋に同席しても台詞もありません。延王などに遠慮して、あるいは陽子がそちらに時間を取られるのでその分国内の仕事が増えて余裕がないと見るのが普通でしょうが。
もし浩瀚にこういう過去があったなら、戴については知っている事があるから何も言えなかったとなるかもしれません。
そもそもこの時の浩瀚はただでさえ忙しいのに延主従はまだしも、こんなところに現れるとは思いもしないやはり彼の過去を知る氾主従までを迎える事となり、その上、気心の知れた者は国と陽子のために散り散りに配置したので、私的にくつろぐ場所も時間もないのです。
そのため厩で昼寝でもしたくなったのでしょうが、その厩も麦州城のようなわけにはゆかないようです。
アップしたのがたまたま朱旌時代の話ばかりですが、このシリーズでの浩瀚の基本的な性格は一生代わらず子供の時に染みこんだ朱氏としてのもので、騎獣に寄り添ってというよりしがみついてしか眠る事も出来なかった子供時代を過ごした彼はマザコンならぬ、騎獣コンのようです。
なおちょっと蛇足な部分については(ほんとうに蛇足)、お気づきのかたもあるかと思いますが…13℃のcoさまの孤独な阿選に、ちょっと恩人にお見舞いに行ったら?と綺麗どころをひとり派遣せずにはいられなくなって。(見舞いに行かされた方は、やっと冢宰の時代になったのに、また拙に髪を染めて唱えと…とぶーたれておりましたし、こんなのに膝枕して貰ってもうれしくなんかないや、とあちらも迷惑がっておりましたが)
ここのはどれも入部資格なしものですが、こちらでもっとすばらしい阿選でお口直しを最初の阿選絵は宝重庫に頂いておりますが、入部志願作品が滞っている間にこんなところで呪いがプチ炸裂。