冢宰府に少年が現れた。
例年の事なので、人払いされており執務室にいるのは浩瀚だけだった。
「旌券の更新をお願いいたします」
そういうとまだ古びてもいない木の札を差し出した。
浩瀚は黙ってそれを受け取ると、机の上に用意されていた新しい木の札を手元に引き寄せ、筆をとって表に名前を書いた。
しばらくそれが乾くのを待つ間、筆の音さえ絶えた堂内は沈黙に包まれた。
少年は何も見ていないような表情で前をまっすぐ見たまま直立し、浩瀚はそれを座ったまま見つめていた。
最近は王のそばで見かける事も減ったため会うのは久しぶりだった。
ふっくらした顔と身体がいつの間にか利発そうな顔立ちとすらりとした体つきに変わり、身長も女王に追いつきそうだった。
札の表面が少し乾いたので、その面を汚さぬよう手に持つと裏書きをした。冢宰印を押すにはさらにそれが乾くのを待たなくてはならず、その間は茶を飲むという慣例が出来ていた。
部屋の隅に用意された茶卓に浩瀚が座ると、少年は二人分の茶をいれ、しばらく二人は黙ってそれを飲んだ。
「今日はどこからだと思う」
浩瀚が聞くと、少年が答えた。
「左の角の窓だと思います」
「よく分かったな」
「女官に頼んで、光る珠飾りを主上の髪紐に付けてもらったのです。先ほど少しあちらで光ったように思うのですが」
「なるほど、それは良い思いつきだ」
「毎年ですから」
二人は思わず一緒にふっとため息をついた。
更新の必要もない旌券を毎年、それも冢宰の裏書きで書き換えるというのは、陽子の思いつきだった。
最初の年、まだ幼い手が握りしめて持ってきた木の札を受け取り、新しい札を書いて渡した。その後そのまま女王のところへ子供を返したのだが、これが陽子には不満だったようで、遠回しに茶の一杯も一緒に飲んではどうかと言われた。
そのためその後は札が乾くのを待つ間、こうして向かい合って茶を飲むようになった。
問題はその間の時間の過ごし方である。
「今日はなるべく長くかかりそうな仕事をあちらへ送っておいたのだが、それでも抜け出して来られたか」
「台輔が今二人分仕事をされているはずです。毎年この時間をじゃますることは、台輔も他の官も諦められたようです」
左の窓の縁から一瞬紅い色が覗くのを視線で捕らえて確認しながら、少年は答えた。
「そんなに気になるなら、覗かずに一緒に来られたらいいのに」
「私達を二人だけで会わせるのが目的なのですから、それは無理かと」
二人は一緒にまたため息を付いた。
「使令は……いないようですね」
「ああ、そのようだ」
使令のそばにいることの長いこの二人は使令の気配も多少は察するようになっていた。
最初の年は少年の警護という名目で使令を遁甲させていたので、気づいた浩瀚はやめて欲しいと頼んだ。
しかしその結果、王自らが毎年のぞき見に来るという事になってしまった。
「主上が喜ばれるよう、もう少し楽しそうにしてはどうか。声が聞こえないのだから顔だけでも」
浩瀚が言うと、少年は澄まして言った。
「主上がおっしゃるには、私の年くらいから蓬莱ではてぃーんえーじゃーと言って、大変気むずかしく親と折り合いが悪くなるそうです。ですから父親と話をするときは仏頂面が普通だそうです」
浩瀚は「父親」という今まで口に出すのを避けていた言葉が出たことに反応して一瞬眉を上げたが、少年は特にそれを意識した様子もないので聞き流すことにした。
「で、そのてぃーんえーじゃーの父親は息子と会うときはどんな風が普通なのだ」
「子供を理解しようと一生懸命になって話しかけたり、あるいは小遣いなどを与えて歓心を得ようとする場合もあるそうです」
思わずにやにやするのを抑えられずに少年は言い、浩瀚は諦めてため息を付いた。
「では、お前がそこで仏頂面をして、私がここで愛想笑いでもすれば主上は満足されるのか」
「そうかもしれません」
冢宰は天を仰いだ。
それにしてもなぜ雨季前の治水や農地の事で忙しいこの時期に、毎年毎年のぞき見されながら時間を取られなくてはならないのだ。せめて他の時期ではだめかと主上に聞いたことがあるのだが、だめだと言われた。
おそらくなにか蓬莱でそれにちなんだ習慣でもある日なのだろう。父と子が一緒にお茶を飲む決まりの日などこちらでは聞いたこともない。
とりとめなく考えていると、窓の外でドスッと音がして、さきほどまでちらちら覗いていた紅い髪が消えた。
「また足を踏み外されたようですね」
「庭師に適当な踏み台をいくつか置き忘れるように言っておいたのだが。どうしても壁に張り付かれるようだな」
陽子が次の適当な足場を見つけるまではしばらく覗かれる心配がないので、二人はほっとくつろいだ。
「勉強の方はいかがしている」
無難な話題をと声をかけた。
「順調に進んでおります。そろそろ次の推挙の準備にかかります」
「早いな。友人は多いのか」
「まあ適当に。ただ同級生はみな年上です」
「そうか、年上ばかりの上に以前と違い女子学生も増えたから少学への競争は激しかろう」
「それは負けないつもりです、それに女子学生はちょうど私にあう年ごろですので楽しいです」
少年はにっこりした。
「あう年ごろというと?」
「そう、十六くらいでしょうか」
「ほう、そうか」
お茶を入れ替える用でもないかと覗いた官は扉の内側の気温に慌てて扉を閉めた。
「しかし、少学へ進んだらさらに年上ばかりになってしまうから残念だな」
「そうですね。学校では……いなくなるかもしれませんね」
「しかし、寮でも同じだろう」
「寮、ですか?」
「夕暉も蘭桂もみな少学から寮だったな」
堂内の気温はさらに下がりかけたが、もう少し近い窓に珠の光が反射したのを二人は見逃さなかった。
やや不機嫌になった二人は黙って冷えてしまったお茶をすすった。
てぃーんえーじゃーというのを相手にすると、こちらまで精神年齢が下がってばかな事にムキになるものなのかと浩瀚は情けなくなった。
珠の光は適当な足場が見つからないのかちらちらと動きまわっていた。
浩瀚はそちらを目だけ動かしてちらりと見て言った。
「あのあたりには珍しい花の苗を植えたばかりなので、庭師は踏み台を避けて置いたはずなのだが」
「今日は台輔が使令を配されていますので、あまり危ない事はないはずですが」
以前陽子は木に登って室内を覗こうとして、その枝が折れた事があったのだ。
暗い室内からでは、木に登ったところから丸見えだったし、落ちたのはかなり派手な見物だった。しかし気が付かないふりをしないといけないので様子を見に行くわけにも行かず、二人でお怪我はなかったかと気をもむしかなかった。
それ以来この日は台輔との間で、外の陽子のそばにだけ使令を付けるという裏取引が出来ていた。
やっといい足場が見つかったらしく、近くの窓から紅い髪に続いて緑の瞳の輝きがちらりと覗いた。
二人はすばやくにっこりと微笑んで互いに菓子をすすめあった。
慶の全官吏を統べてきた攻撃力最高のにっこりと、物心ついた頃から王宮で育った少年の防御力なら無敵なにっこりで堂内はついに夏も近いというのに氷点下にまで下がった。
この両方のにっこりが効果を持たないたった一人のひとを満足させるために、二人は顔が強張るまでにっこりし続けた。
「さて、そろそろ墨も乾いただろう」
そう言うとほっとしたように二人は立ち上がり、浩瀚は書卓で冢宰の印を押した。
少年はそれを受け取ると礼をして、では来年と言い出ていった。
紅い髪が窓縁から下りようとして手が滑って玻璃に爪を立てたらしく、ひどい音がした。
浩瀚はそれも聞こえない振りをして窓に背を向けたまま、机の上に残された木の札を手に取り、同じような札が十ばかり入った小箱にそれをきちんと収めた。
すべての時間を女王と国に捧げている慶国の冢宰は、私人としては一年でただ一つの行事をこうして今年も無事終えた。