青年が夜空を見上げていた。
やがて満月を背景に小さな点が現れたと思う間もなく、大型の騎獣とその乗り手のシルエットになった。
――来た
ぐいぐいと彼方から近づくそれを今暫く待てば、崖の縁に立つ彼の足もとからいきなり四つの影がそれをめがけて飛び立ち、相手に方向転換する隙を与えずとり囲んだ。
――インターセプト成功
満足げに浩瀚jrは微笑んだ。
再三女王の私室に騎獣で乗り付けられる、しかもそれが他国の者で、最近では日が暮れてからもしばしばとなれば、このままそれを許し続けるのは慶の国の人間としては耐え難い事として防ごうとされたのだが、未だ成功したためしがなかった。
優れた乗り手の操る騎獣は、いつも慶の空騎兵の包囲網をするりとかいくぐり何ごともなく露台に舞い降りた。女王の私室近くにいくら禁軍といえど多数の兵で降りるわけにも行かず、追っ手はくやしげに周囲を巡って、悠々と堂内へと向かう男を見送るばかりであった。
女王を崇拝する者のひとり、あるいは友人として通う彼の、その来訪を楽しみとする女王の邪魔をしているなどとは知られてはならず、相手が妨害をかわすのを余裕で楽しんでいるため、陽子に彼らの事を何も言わないのが幸いでもありいっそう無念だった。
慶の男の面目と禁軍の名誉をかけて密かに特訓が行われ策が練られたが、来たのを見逃して手遅れになったり、ひらりと逃げられたり、あげくに囲み損ねた兵が妖鳥からぶざまに落ちかけたり、と失敗が続いた。他国のやんごとなき方なれば、傷つけたり捕らえたりするわけには行かないのが辛いところであった。
――お見事、青将軍
今日は最高の兵だけを少数に絞っての計画だった。回りにはこの空騎兵が失敗したときのための兵も潜ませてあるのだが、彼らからもほっとした声なき声が聞こえた。
取り囲まれた招かれざる客は、そのまま招客殿の方へと誘導されて行った。ここにいても任務を果たした空騎兵らが歓びの表情を押さえて慇懃に付き従う様子が見えるようだった。招客殿では警護の兵が朝まで一歩も出さないように、しっかりと回りを固め、朝になってからおもむろに女王に来訪を知らせる手筈になっていた。
しかし相手も然る者、一瞬の隙を突いて囲みを抜け出しあっという間に遙か彼方へと飛び去った。
まあ誇り高いあの方ならすぐには戻ってこないだろうと考え、無念の溜息をつく回りの兵に一応気を抜かぬよう声をかけると、青年は崖の上の見晴台を離れて奥の庭園の方へと向かった。
外への守りをひとまず終えると、次は内からの招かれざる客からも女王を守らねばならなかった。
庭の奥の大きな樹に佇む人影を認めて、まずはそちらへと向かった。
樹の影で月夜にも関わらず顔は見えないが、彼にはそれが誰かはわかった。
「こんばんは、夕暉殿」
「こんばんは、夜回りですか?お役目ご苦労様なこと」
挨拶を返しながら影から現れたのは若い男。
嘗て少女のようと言われた少年は、今では王宮でも指折りの白皙の美青年となっていた。
しかし挨拶は返しても、女王に近いこんなところに夜一人でいることに何の断りもなかった。
入り口を兵で固めた高い塀のなかでさらに呪を施されて隔離されたこの一帯に入るには女王の許可がいる。浩瀚jrと同じく、嘗て少年の頃それを許されたままになっているだけだが、しかし彼は決してさらに奥には近づかず、ただこうして庭を彷徨っている。そうして女王が一人で庭に現れるのをあてもなく待っているのである。
女王の庭園に住み着いた小鳥のように、あるいは美しい蜘蛛のように、巣をつくりそのそばで待っているが、決して巣からは離れない。
浩瀚jrはまわりをうかがって他に人の気配のないことを確かめると、別れを告げてそこから去った。
あの人がそう簡単にかかるとも思えぬ蜘蛛の巣に構うより、その目標とされている本人の様子を今一度確かめる時間である。
庭から宮に入り、女王が夜を過ごす堂のそばまで来た。
その時、聞き慣れた音に素早く薄暗い廊下を見通せば、その視線の先、正面一番奥の装飾を施した厚い大きな扉が今まさに閉まるところであった。
いつもなら彼が挨拶の声を掛け、その手で閉ざすことになっている扉。
しかし今宵は彼を待たず扉は閉まろうとしており、駈け寄ってその隙間に見たのは、暗い色の髪の後ろ姿。廊下からの灯りは弱いがその髪が昼間は青い艶を放っているのを彼は良く知っていた。
このような時間に女王の元に来るのは、六官の長であるこの男にはよくあること。しかし今まではいつも扉はそのままで、やがて一刻ほど過ぎれば両の手に書など持って退出するのが常だった。
その扉が内側から閉まるのは、女王に招かれ扉を閉ざす許しを受けたということ。閉ざした後で許しを得ようとする愚かな命知らずなどにはその扉は決して動かないのである。
しかし今夜その扉は彼の鼻先で閉ざされようとしている。
その時後ろ姿が少し振り向き背後を窺った。こちらと視線を合わせたかどうかは薄暗さのため見えないはずだが、浩瀚jrにはそうだと分かった。
彼は扉の前に立ったまま無言でそれと対峙し、やがて扉が完全に閉まったのを確認した。
そこが閉まった瞬間彼の仕事はひとつ終わる。
――ナイトウォッチ完了
いつものようにそう呟きながらも、今宵はまだ始まったばかり。
あの訪問客がいままでのようにやはりすぐ出てくるのか、あるいはそのまま留まるのか、いすれにせよ明日、陽子が微笑みながら朝を迎える事が出来るよう、それまで気を抜かず彼の勤めは続く。
青年は通路に立つ衛兵に眼を配り、声をかけ、再び外へ向かった。