北国芳の短い夏が始まる一年で一番日の長いその日、仮王月渓はひとり露台で時を過ごしていた。
本当なら雲海越しに青々とした野山が見える季節だが、今年は前の年よりさらに寂しい色しか見えない。
雲海の色は他の国なら青く日の光に輝き透明だが、この国の雲海は重く黒ずみほとんど波立つ事もない。そのためそこを通して見る下界が一層陰鬱に思える。
それはそれを見下ろす月渓の心そのものを映しているようであった。
夕餉も済んだがまだまだ日が暮れそうにもなく、下界では今日は祭り。
王がいらっしゃればこの夏至の日は大切な祀りの日で王宮も最も多忙な一日になるはず。しかし仮朝では形ばかりの式典が営まれただけでそれも昼前には終わってしまった。
一方で王のいるいないに関わらず、今日はこの北の国では最も賑やかな民の祭の日でもあった。長い一日を夜遅くまで集まり思う存分騒ぐのである。
それが毎年いつまでも続くようにと祈りながらも、こんな時代にそれは無理だろうと、とうの昔に諦めていたが、祝うような収穫もご馳走もないはずなのに今もささやかながらそれは続いているようだった。このつかの間の民の楽しみが少しでも長く続くように、と月渓は改めて祈るのだった。
手に持った小さな玻璃の杯を揺らすと透明な酒が揺らいだ。
穀物を蒸留して作る強いこの酒は北国の冬を越すには欠かせないが、月渓は水で薄めたものを夏の光を透かして飲むのも好きだった。
その強い酒の精がしばし鬱々とした心を晴らしてくれるかとはもう期待しなくなっていた。ただ酒でいいからひとりで過ごす時間の相手が欲しかっただけ。
その時ふと声を聞いたように思った。
それは決してここでは聞くはずのない声。
とうとう寂しさのあまりに幻の酒の相手を迎えるようになったかと杯を掲げたが、その玻璃越しのゆがんだ像の中に動きがあった。
はっとして杯を下ろすと、露台への戸口に立つのは一人の黒髪の若者だった。
男の思わず立ち上がる足元がふらついたのは決して酒のためではなかった。
差し伸べる手に向かい駈け寄った若者は、それでも最期の瞬間どうすればいいのか困ったような表情で立ち止まった。
身長は父親と変わらぬくらいになり、浅黒い顔と髪の色は同じだが、幼い神経質そうな面影の代わりに精悍な面立ちの若者が立っていた。
「ただいま帰りました、父上」
「おまえ、なぜここに」
「やっとここへ帰る事が出来るようになったのですから、戻って当然ではないですか。それでもやはり遠いですね、慶からは」
まるでたった数日の旅の報告をするかのように話すのを、まだ自分の目が信じられないまま月渓は息子を見つめていた。
そしてあまりに久しぶりのため照れ隠しにそんな態度をとってしまった若者も、あれほど会いたかった姿を身近に見て話す間にやっと気持が落ち着くと、まずはきちんと姿勢を正して言った。
「景王より芳国に知らせを預かって参りました。蓬山に新しい峯果が実ったそうです。またすでに麒麟が誕生しているかもしれないとのことです」
「麒麟…」
「ええ、触で流された峯果を待つ必要はもう無くなったのです。ですから父上が麒麟を殺した事を咎めて僕を殺めようとする口実もなくなるはずです」
「それで帰ってきたのか」
「はい。それにもう自分の身は守れます」
力強く言い放った青年の顔を見つめ、月渓はその言葉をもう一度かみ締めた。
麒麟が生まれた。それは月渓らの将来にやっとひとつ目標となるものが出来たことになる。
そして息子の言ったとおり、それを彼の罪をひとつ許すという天の意と思う者もいるはずで、そうなれば長年彼を追撃していた政敵を押さえる事も出来る。
そのおかげでこうして再び息子とも会えた。
長い孤独な暮らしの間にひとりでもの想いに浸るくせがついていたため、そのままつい考え込んでいたが、ふと我に返って心配そうにこちらを見る視線に、もっと早く訊ねなければいけなかったことを思いだした。
「迎えを頼むとも言わなかったが、一人で帰ってきたのか?」
「知らせればまた警護の兵に危険を道のりを往復させることになりますが、私ひとりなら片道で済みます。ですから知らせず帰ることにしたのです。青鳥だって危険でしょう」
そういえば長い間鳥など受け取っていなかった。他国とのつき合いもなくなり、国内ですら妖魔が増えて小さな鳥は妖鳥でありながらしばしば襲われた。
「慶王が騎獣や警護の者を貸してくださり、友人も一緒に来てくれました。範に寄ったとき、疲れた騎獣ではこの先は無理だからと氾王が私にはご自分の騎獣を下さいました。
「範の王が」
「はい、その後は恭を通らせて頂いたのですが、皆と別れそこからは一人で一気に帰ってきました」
「ひとりで、あの海をか」
「はい」
さすがにその時の事を思い出したのか少し表情が強張ったがすぐにそれを隠すと、懐から紙を取り出した。
「それから氾王君から父上宛に親書をお預かりして参りました。供王からも」
月渓は震える手で、差し出された二通を受け取った。
「どちらの王からも、書簡を文箱に入れるなど相応しい体裁を取らないのは決してこちらを仮朝と軽んじたのではなく、私が妖魔を避けて少しでも身軽に飛べるようにとの配慮ゆえ、とお詫びを添えてお渡しするように言われました」
「そこまで考えて下さったのか。それにしても、あの海をよく一人で越えられた。たくさんの護衛を付けてもしばしば戻ってこないこともあるのに」
「こちらと連絡が取れなかったので、護衛とはいえ勝手に他国の兵を芳に入れることは遠慮しました。それに実は私は今では仙なのです」
「仙?」
「はい、まだ早すぎますが、ここまでたどり着くにも、これから父上の力になるにも仙でなければ無理だろうということで、景王が。不要になれば抜くからとおっしゃって」
月渓はまだ少年の面影の残る若い貌のまま仙になった息子を見つめた。
「何をなさっていたのですか?」
久々の再会に日頃無口な彼らしくもなく一気にしゃべり続けていたが、一瞬それが途切れた後訪れた沈黙に少し気まずくなって若者は尋ねた。
「ああ、今日は祭りなので王宮で働く者にも休みを与えたからする事もなくて。一人で酒でも飲もうとしていたところだ」
「たしかそれはかなり強い酒でしたね。慶ではあまり見ない酒でした」
「そうだな、寒いところの酒だからな。お前は酒は?まだそういう歳ではないかな?」
ふっと笑って若者は答えた。
「あちらで言われました。父上は息子が育つところを見ることが出来なかった。親としてはさぞ無念だろうと。
この上息子に最初の酒を飲ませる楽しみまで取り上げては預かった者として申し訳ない。だから酒は芳へ帰るまで我慢しろと」
月渓はその言葉の持つ思いやりに感じいってしばらく何も言えなかった。
「それは景王がおっしゃったのか?」
「いえ、慶の冢宰が」
「そうか、では冢宰はご自分の子息とは酒を楽しまれているのだな」
「さあ、どうでしょうか?たぶん未だだと思いますが」
若者は、おとなしそうな顔をして妙なところで意地っ張りな、今ではかけがえのない友人となった少年とその父親を思い浮かべて笑いながら言った。
あの親子が一緒に酒を飲むとなったら、女王を筆頭に金波宮の面々は何が何でものぞき見しようとやっきになるに違いない。しかし彼はもうそこには加わることは出来ないのだ。
その少し寂しげな笑いを不思議そうに見つめてから、月渓は新しい杯を二つ並べた。
そしてその二つの杯に透明な酒を注ぐと、片方を息子に手渡した。
少し緊張した面持ちでそれを受け取った息子と向かい合って杯を鳴らすと、その軽い金属的な響きが雲海のざわめきに混じった。
「大きくなった。ここまでしていただいて、慶の方に本当に何とお礼を言えばよいか。そして祥瓊殿にも。あの方はどうされている?」
初めての酒を口にした息子の表情を見ながら月渓は訊ねた。思っていた以上に喉を焼く酒にむせそうになったため、すぐには声が出せないでいた若者の視線が揺らいだ。
「一緒に途中まで、そして範でお別れしました」
「範まで来られたのか……」
「はい、そしてここから先は恭も芳もいずれも自分は立ち入る事は許されないからと言われて。ひとりで残られました」
父子は知らず揃って雲海の東の彼方を見やり、無言で同じ人の事を想っていた。
「いつか、安全に旅が出来るようになったら来ていただこう」
「はい、そうですね」
――その時私がお迎えできるかどうかはわからないが
ふたりは持った杯を東にかざして飲み干した。