陽子は言った。
「彼女の事を古い書類で探して見たんだけど、はっきり予王の側近だったって事は書かれていないみたいなんだ」
「彼女ほど高位となりますと細かく職務の内容を示すような役職名は持ちませぬので、取り立てて肩書きもなかったのでしょう。私がどんな仕事をしようと冢宰という肩書きしか持たないのと同じかと」
「私のために働いても働かなくても冢宰か」
陽子は彼女のために働くどころではなかった浩瀚の前任者を思い出して苦笑いした。
「話を聞くと死んだ今も予王に仕えているようだけど、麒麟のように一緒に葬ってあげる事も出来ない」
そう言いかけて、慌てたように浩瀚を見た。
「ごめん、奥さんだったんだから、浩瀚と一緒のお墓に入るんだよね」
「こちらではそうとも限りません。特に仙の場合は。そして彼女は私の妻というより、やはり予王の臣として生きて死んだと思います」
淡々としたその言い方には、相手をよく知り理解した者の説得力があった。しかしそう解ってはいても、今頃になって聞いてしまったこの話しに何か自分として出来ないかという思いは陽子から去らなかった。
それは沙参のその報われない半生を悼むと同時に、彼女にこの浩瀚をはじめとする今自分を支えてくれる人々を重ねてしまったからかもしれない。彼らにどれほど感謝していても、自分がいなくなった後、そしてそれに至るまでの末期には彼らには報いるどころではない事態が待っていると思えば、せめて先の王の分だけでも代わって何かせずにはいられなかった。
「死後に勲章とか官位を与えるなんてこちらではしないのだろうか。肩書きだけでも正式に麦州侯にするとか…でもなりたかったのは州侯じゃなかったんだよね」
「麦州では王に遠すぎると不満を申したかもしれません」
まるで麒麟だな、と呆れる陽子に、では瑛州侯なら勤まったかもと笑いながら言った。
「そうですね、彼女は当時は秋官でしたので当然ですが大司寇を目指していたようです。しかし最後は主上の力になれるよう冢宰になると申しておりました」
「うーん、瑛州侯が二人というのもだけど、書類の上とはいえ冢宰を二人にするなんて出来るんだろうか。浩瀚の忙しさを思うと、生きて彼女が一緒に冢宰をしてくれたらよかったのにと思うくらいだけど」
くつくつと浩瀚が笑った。
「私はそれだけはごめんですね。朝議もなにも私達ふたりの言い争いで終わりそうです。なにより私は負けるのは嫌いですし、彼女も同じでした」
「そんなに強い女性だったのか」
優秀な官でございました、と
さらりと浩瀚は訂正した。
また陽子は考え込んでいたが、浩瀚の言葉に顔を上げた。
「すでに予王のお側に戻れた今では彼女が官位を欲しがるとも思えません。しかしそこまでおっしゃって頂けるなら、花はどうでしょうか」
「花?」
「蓬莱では花を様々な事に使うと以前主上よりお聞きしておりますが」
「うん、お祝いでもお見舞いでも」
「予王の廟はたいへん寂しいところだったと彼女が申しておりました。花や香を手向ける人もいないと。
彼女が予王から賜った名は野の花の名でした。笑っている彼女の髪の色と姿から思いつかれたとか。
そんな花ですので王の廟には相応しくはございませんが。少し離れた周囲にでも植えれば、王にも彼女にも慰めになるかと思うのですが。手入れもいらない花ですので、うまく育てば毎年墓所の隅だけでも彩ることが出来るかもしれません」
目を輝かせてその話を聞いていた陽子は、その言葉の終わるのを待ちかねるように口を挟んだ。
「それ、いい、それにしよう。今度の休みに植えてくる」
「主上が、ご自分で、ですか?」
「うん、野の花では店に苗を売っているかどうか分からないけど、売っていないなら山に行って掘って来る。重朔に手伝わせてもいいかなあ。でもどんな花か知らないので調べなくては」
頭の中でいろいろ考え始めた陽子を、浩瀚は見ていた。
「苗も花もこちらにございます」
「え?王宮に生えているの?」
「王宮内でも王のお目に留まらぬような手入れのされぬところにならあるかもしれません。しかし私の部屋の近くにもございます」
陽子は浩瀚を訝しく見つめ訊ねた。
「もしかして、それは浩瀚が植えたの?」
「はい」
ごく当たり前の事のように静かに答えた。
陽子の希望で冢宰府の庭院に案内した浩瀚は、その一角を示した。
数本の大木の足下に、青い花の群生があった。
「最初の年は一株だけでしたが、毎年増やしているうち、自然と増えたものもありずいぶん拡がりました」
目を細めてそれを見晴らす彼を見上げ、陽子はそのまま辺りを見回していたが、ふと近くの窓に気付いた。
「あそこは、浩瀚がいつも仕事をしている部屋じゃなかった?」
「はい、冢宰の執務室として頂戴しているお部屋でございます」
「いつもあそこからこちらが見えるんだね」
くすりと浩瀚は笑った。
「そうではなく、この花が私を見張っているのでございます」
「え?」
「私がちゃんと主上のために働いているか、主上のこの朝が栄えるようあの花は見張っているのです」
微笑みを浮かべたまま浩瀚は静かに陽子を見下ろして言った。
「先程主上は冢宰が二人であればよいのにと申されました。もしかしたら主上の朝に冢宰はやはりふたりいるのかもしれません」
そよそよと風がどこからか吹いてきた。それに合わせて細い茎をもった野の花は青い花を揺らした。無数のふっくらとした花は薄い花びらに風を受けて、しなやかに楽しげに身を揺らしていた。
それを目を細めて愛でながらも、浩瀚は言った。
「それにしても、よくこれほど似合わぬ字を予王はおつけになったものだと見る度思います」
「綺麗な花だと思うけど?綺麗な人だったんだろ?」
「美しい女でしたが、牡丹かなにかに近かったかと。野ではなく王宮の庭にこそ相応しゅうございました」
仮初めとはいえ自分の妻だった女を、その結びつきが男女を越えた本当に特別なものであったとはいえ、こだわりなくのろけとも思わせず美しい女と王に言い切れる者などこの冢宰くらいだろう。
それでもその態度に少し複雑な気持ちのまま陽子は花を見つめる彫りの深い横顔を覗き込み、彼が沙参に言ったという言葉を思い出した。
――予王が次王に残したのは台輔だけではない
会ったこともない短命な前王、陽子が聞いてきたのは愚かで弱い王で、慶の民を苦しめ官吏の横暴を許したということくらいだった。一番彼女をよく知るはずの景麒は予王の事は頑なに口にしようとはしなかった。
しかし、改めてこうして知ったその姿は全く違った。もし以前の陽子が会えたなら、彼女なら解ってくれた事が話せた事がいっぱいあっただろう。
会うことは適わなかった。でも彼女は景麒を、そしてあの少年を陽子に残してくれた。
予王の廟へ行こう、花を植えに、そして彼女にお礼を言いに。
青い花の群に背を向けて立ち去りながら、ふと背後の浩瀚に言った。
「ところで、お前を州侯に取り立てた王ってどの王だったの?
たぶんその王が州侯にしていなければ、和州の乱も出来なかったんじゃないかと思うんだけど」
一歩下がって歩いていた男の足音が止まったのに気付き、陽子も止まって振り向いた。
静かに微笑む男は言った。
「そう、私も以前の王が残したもののひとつです。予王よりさらに前の王が。
その命によって、麦州に留まり、いよいよという時を待っていたのでございます」
少し目を見開いて陽子は言った。
「聞かせて、その話も」
「長い長い話でございます、若い頃の話です。若いころと申しますと蓬莱でお育ちの主上なら親子は似ているとお考えで同じ年頃のあの子を連想されるでしょうが、そもそも私は王宮で大切に育てられたりしておりません」
「育ちの悪い浩瀚なんて想像もつかない」
顔を潜めて考え込む陽子に、男は笑った。
「いろんな事がございました。でも今の私だけをご覧下さればそれで十分かと」
ちょっと不満だったが、陽子は彼を尊重して何もそれ以上強いなかった。
いつのまにかこちらで時を重ねたとはいえ、まだまだ彼らに較べれば短い彼女にも、仙が思いもかけない時間の中で生きてきていることを、そしてそれには時を同じくしていない者には分かり難いものがあると気づき始めていた。
まだ聞いてはいけない。しかしいつか、聞かせてもらう事もあるだろう。
そう考え、彼の許しを得て摘み取った一輪を握り締めたまま浩瀚を従えて歩いた。
これは別の作品の一部で、陽子が初めて沙参について知った時の話です。当初赤楽十六年あたりの設定でしたが、その後筋が変わったので、もっと後の時期で、浩陽(いつになるのか、なしかもしれない)未満です。