黄海の荒れ地を黙々と進む駮は、久しぶりにまた主と旅するうれしさで元気いっぱいのはずだったが、手綱を通して感じられる乗り手のあまりの不機嫌さのため、足取りはぎくしゃくと不自然で落ち着かなかった。
そして乗り手はついに手綱をいっぱいに引き絞って駮を止まらせると、くるりと向きを変えて背後に続くふたりを睨み付けた。そのふたりの背後にはさらに数名の人影があり、本当ならこんな場所ではもっとより集まって歩くはずだが、先頭に立つ男の怒りは妖魔よりたちが悪いらしく、なるべく距離を保とうとしているようだった。

頑丘はそれを忌々しげに見回してから手前のふたりに怒鳴った。
「いい加減に付いて来るのはやめろ」
そしておとなしそうな中年の男の方に向かって言った。
「おまえは季和の家生だろうが、こんなところにいていいのか」

鉦担はここまでの僅かな間も乗り慣れない騎獣からふり落とされないよう手綱を操るのに必死だったところへいきなり怒鳴られてあやうく落ちそうになったものの、なんとか鞍にしがみついて身を立て直すと、健気にも一団の先頭に踏みとどまっていた。
「どうせ死ぬまで働くなら、妖魔の中に置き去りにするような主人なんぞよりもと、あのお嬢さんにお仕えしたいとお願いしたんです」
まああの時の事を考えれば、さぞ忠義を尽くして仕えるだろうが……
「それなら最初の仕事として恭まで旦那のお供をするようにと言われました」
「つまり仕事は俺の子守か」
「はあ、というか、もし万が一途中で旦那に逃げられたら、雇わないと言われました」
その真剣な眼差しと何がなんでもついて行くという気迫に、頑丘はおもいきり舌打ちした。
「あの小姐がなんと言おうと、俺は恭へは行かん」
熱意はよく分かったが、この鉦担はおそらく四十を過ぎたこの歳になるまで騎獣になど乗ったことなどないらしく、恭までどころか駮がひと飛びすれば間違いなく置き去りだった。
せっかくの新しい仕事のじゃまをするのは気の毒だが、こちらだってじゃまされたくなかった。


しかしあの抜け目のない娘がこんな役立たずひとりだけを目付役にするはずもなかった。そして問題のもうひとりが横から口を挟んだ。
「おまえ、あのお方を小姐なんて気安く呼んでいいのか」
鉦担なら振り切れても、この男と後に続く仲間はそうは行かなかった。跳ぼうが走ろうがどこまでも着いて来るに違いなかった。
そして近迫は乗っている鹿蜀を鉦担の騎獣に近づけると身軽に降りて、鐙と手綱の長さを調整してやり、何度もずり落ちかけた鞍の紐が緩んでいないか丁寧に確かめた。そして手を動かしながら頑丘を見上げて言った。
「俺たちもあの嬢ちゃんにおまえの護衛をしろと雇われ付いてきただけさ。趨虞の旦那はいつのまにかいなくなったようだし、ひとりじゃ危ないところだからな、ここは」
「どこに剛氏に付き添われて旅する朱氏がいる。俺を黄海中の笑いものにする気か」

頑丘はカンカンだった。たった一月前には子供を連れて剛氏のまねごとをするのが恥ずかしくて布をかぶって門をくぐったのだが、今度はそれ以上に酷いことになった。
「いやいや、お前は新供王の大恩人だからな。あっちもきちんと礼ををする前に間違いがあってはならねえって事だろう。
だいたいあれだけ剛氏がいながら、鵬が朱氏のおかげで昇山したなんてこっちは全員面目丸つぶれだ」
なあ、と同意を求められた背後の一団は皆ぶんぶんと頭を振って頷いた。
「という事でおまえは今やちょっとした有名人だから、こっちとしてもそんな朱氏を王のところまで無事送り届けたとなれば、まあ多少は面目を施して次に黄旗が上がった時のいい宣伝になるって事さ」
「ばかばかしい、それより客を放り出してきたのか」
にやにやと嬉しそうな一団をもう一度睨み付けてながら、頑丘はそれでもなんとか彼らを追っ払う方法を考えた。
「客が妖魔に食われちまった仲間が帰りの駄賃になると喜んで引き受けてくれたし、客も新王のためならと文句も言わず許してくれたぜ」
頑丘は天を仰いであの忌々しい娘を押しつけた上、王に選んだ天帝をもう一度呪った。今やあの娘に誰も彼もがこうして言いなりだった。
「まあ、ぐだぐだ言わずおとなしく行っていい仕事を貰うんだな。黄海から腕っこきの朱氏がひとり減ればその分こっちの獲物が増えるって事になる。嬢ちゃんのおかげで俺たち全員失業したが、いやいや本当に嬢ちゃんはありがたいお方だ」
「冗談もほどほどにしろよ、俺は本気で怒っているんだ」

近迫はそれを聞くと今度は大笑いし始め、頑丘は怒るのも無駄かと諦めぐいと手綱を引き駮を少し早足で歩かせ始めた。本当ならもっと早く駈けたいのだが、旅の長さを思えば脚の傷がまた開くのが怖いし、途中を急いでもどのみち安闔日まで外へは出れなかった。それが分かってのんびり付いてくる連中が腹立たしかった。
なんで柳生まれの黄朱が、恭で宮勤めになるんだと頑丘は本気で嘆いていた。
珠晶は空位に備えて妖魔退治をみんなに教えろなんて言っていたが、あんなじゃじゃ馬が王位についたなら、妖魔もすぐに逃げ出すだろうし、次ぎに備えると言ってもそう簡単に失道するつもりもなさそうだった。
もしどうしても王に仕えるならまああの娘でいいなと思うし助けてやれるものなら助けてやりたいとも思う。しかし王宮でなら自分よりあの利広の方がまだ相応しそうだった。ところがあの男は蓬山に着くやいなやさっさと姿をくらましてしまった。なにより頑丘には壁に包まれた同じ場所で同じ顔ぶれの中で暮らすなんて考えただけで身震いするほど恐ろしかった。これはもう逃げるしかないと思い早々に引き上げて来たのだが。

しかしそんな頑丘の後ろを鉦担が必死の形相で騎獣にしがみつくように跨って続き、それを近迫がゆったりと守るように続いた。
「駮と一緒に恭までなら徒歩では無理だからと、こんな立派な騎獣までお買い上げになって用意して下さったんですからちゃんとお連れしないと」
頭ががくがくと揺れるため舌を噛みそうになりながら鉦担が後ろから半分叫ぶように言った。
「何がお買い上げだ。あいつは有り金を俺に払って今はすっからかん。だからそれをちょっと貸せと俺から取り上げて、それで騎獣を買ったり剛氏を雇ったんだぜ」
「ですからその金をお返しするためにも、一度恭へ行って頂かないと」
頑丘はそれ以上返事もせず、鬱陶しい一行をうしろに引き連れたまま進むしかなかった。


その時、おお、というどよめきが後続の一団から聞こえ、何事と前の三人が振り向くと誰もが天を仰いでいた。
頑丘も見上げると、彼らが進む方向ではなく、前の安闔日に入って来た方向、恭州国に向かって黄海の遙か上を一筋の白い雲の路が延びて行くのが見えた。

無言でそれを見やる一団には誰ひとりとして恭の民はおらず、仕える王も持たなかった。それでも全員あの白い雲の中を進んで行っているはずの少女と恭の未来を心から祈り見送り続けた。
そして彼らが見守る中、白い路はその先端が遠く地平線の彼方に見えなくなるまで尾を伸ばし続けた。

やがて瑞雲が薄れて来ると、近迫は大声で皆に告げた。
「さあ、嬢ちゃんはもう先に行ってあちらでこいつらが来るのをお待ちだ。きっと慣れない王宮で寂しがっているに違いない。こんな男でも届けてやればなんかの役には立つんだろう。剛氏の面目にかけてもちゃんと届けようぜ。こっちは遠回りだから先は長いぞ」
その声に離れて続いていた後続の剛氏もみな前に寄って集まり、まだ怪我の治りきらない朱氏とあぶなっかしい騎乗ぶりのその供を取り囲んで通い慣れた道なき道を進み始めた。

2007.1.10    絳英紫極さま「 図南祭」参加作品