午後も夕暮れに近い遅い時間、奏上しようと浩瀚が待つところへ、少し息を切らせて陽子が駆け込み、遅れを詫びた。
その息が整うのを待って、説明のため浩瀚が陽子の手元を覗き込んだ時、それに・・・気づいた。
時に冷たい印象を与える細い鼻梁は敏感で、すぐに異質な香りを捕らえた。
若い娘らしいその身体から発する香りと愛用の香を感じるのは、近くにいる事の多い彼にはさほど珍しいことではない。
しかし、今空気の揺らぎと共に感じたのは、それとは異なる香り。
―――これは・・・
思わず、いま一度書類を見直す体をとりその胸元に近づく。
そっと深く空気を吸い込んだまま、書類に伸ばしていた手を止めた・・・いや止まった。
いつもの陽子の香り、
それに微かに潜む・・・・どこかで知った香り。
そして、それを追い出すかのように己自身の馴染んだ香りが重なり溶ける。
一日中鋭く動き続けているその頭脳が一瞬痺れ、何かがこみ上げてきた。
思わず目をきつく閉じてそれに堪えたが、止まっていたはずの手は勝手に浮き上がり、書類を離れて陽子に向かった。
白い首筋に向かいたがるその手を意志を振り絞って括り上げた髪まで引き上げ、乱れていた緋色の筋をつまみそっと下ろした。
気づいた陽子は不思議そうにこちらを見上げた。
その視線から目を逸らして背を伸ばし、身を離して再び大きく息を吸った。
そこに感じるのは臣として仕える王のほのかな香りだけ。
その清らかな甘やかさに再び冢宰としての責任を思い出す。
いつものしずかな微笑みと共に陽子の視線に向き合い、御髪に小さなごみがついておりましたと言うと、ああ、そうかと言われた。
書卓の反対側に戻り、再び書類を取り上げようとして指にからみついた一本の髪に気づいた。
緋色でもなく彼の色でもないその髪はきらりと光り、はっと払った手から滑り落ちた。
そしてそのまま窓からの風に流され、再び陽子の袖にたどり着く。
そして
その袖に戯れる様を見るに耐えられず、追い払おうと伸ばした彼の手からまたするりと逃げて髪は飛び去った。
目でそれを追っていたが、立っている自分の腰のあたりから聞こえるいぶかしげな声にはたと我に返ると、翠の瞳がこちらを見上げていた。
「浩瀚、おまえさっきから何をしているんだ」
かあっと赤くなる頬に、問いかけた陽子の方こそ驚いた。
怜悧なその顔にとまどう色が昇るとは、これはいったい。
うちの冢宰、どうなったんだ。
夏の風はこんな鉄壁の男の心にも容赦をしない。
恋の夏が始まる。
初出 Albatross小説掲示板 2004/07/09頃