慶が迎えたのは秦の太子英清君利達であった。
短命な王が続き、新王即位後五年にも満たない国にとってはその治世の長さを考えただけで仰ぎ見るような気すらする国からの賓客は、美しい翡翠(かわせみ)色の髪こそ南の大国の貴公子に相応しく華やかであったが、光沢を抑えた深い色合いの衣と落ち着いた物腰を纏った青年であった。

最初の堅苦しい式典のあとに続く宴席や宮中の案内など、女王の側で語らうその姿を宮殿中が見つめた。

利達はほどほどに長身ではあるが、いつも陽子より心持ち後ろに立ち、しかもさりげなく屈んでいたので自然と陽子を背後から包み込むような形になった。そのため陽子は話す時、少し上目遣いに軽く首をひねることになり、 華やかな装束も相まっていつになく愛らしい風情を醸していた。
翡翠(ひすい)色の女王の瞳に吸い寄せられるかのように寄り添う翡翠(かわせみ)色の頭は、陽子の言葉に頷き、微笑み、そして陽子から常にない楽しげな声を引き出した。


太子の帰国を翌日に控えて西園に散策に出た一行は四阿で足を止めたが、ここでは最後に親しく歓談をという陽子の意向により、他の同行の人々は遠慮する事になっていた。

陽子の手をとり数段ある四阿の階段を上がりかけた利達は振り返ると、二人を見送る人の先頭に立つ浩瀚を誘った。

「男と二人きりでは慶の皆様もご心配でしょう。景台輔が今はいらっしゃいませんので、冢宰がお目付役の父君か兄君の代わりをお勤めになってはいかがでしょうか」
冗談めかして言いつつまたほほえみをかわす二人を見ながら、浩瀚は後に続き卓の端に席を取った。

用意されていた茶を飲みながら、陽子はいつになくくつろいで、静かな相づちに促されるままに他愛のない事を話していた。

「宗王はご家族がたくさんいらっしゃいますね。
私はこちらでは友人には恵まれましたが、家族はどうしようもなくて」

「うちはまた特別かと。王宮なら普通は家族もそれぞれ宮を賜るのですが、秦では麒麟も王もみんな後宮でかたまって暮らしております。食事の時も揃って一緒なのでとても賑やかですよ」

「それはうらやましい」

「うらやましいと言われても、六百年母親の小言を聞くのもこれまた辛いもので」
他国の王宮の家族団らんを思い浮かべて少し表情の翳りかけていた陽子がぷっと吹き出した。

「おかげで、弟は一年の大半はどこかを彷徨い、妹は病人だ難民だと飛び出して、人の世話にあちこちを走り回っています」
利達は申し訳ありませんと謝る陽子に笑いながら続けた。

「利達さまはあまり外へは出られないのですか?」

「私は父のまあ自宅用の雑用係といったところで。
せめて自分で直接官府などへ出向いた方が早いことも多いのですが、人を介してなるべく皆のじゃまをしないようにしています。
ただでさえうちの官はのんびりしているので、王の息子なんかにうろうろされたりしてはやる気をなくしますからね?」
そして同意を求めるように浩瀚の方をいたずらっぽく見つめた。

「いえいえ、のんびりに見えるとすれば、あれほどの大国を支える官なればこそ。
上も下もしゃにむにばたばたするばかりのこちらからはうらやましい限りでございます」

「いえいえ、慶の冢宰殿の有能ぶりはあちらまで聞こえております。
秦の官ももうちょっとしっかりしてくれていたら、私も弟や延王君のように出歩けるのですが。
とまあそのような有様で、私は六百年も後宮の親元でくすぶっている甲斐性のない息子なんです」

浩瀚は屈託なく自分を甲斐性なしと言ってのける、見た目は自分とさほどかわらぬ若い姿をさりげなく見つめた。

「こちらの後宮は家族で賑わうどころか、開けることもなくて。家のない人を住まわせてどうかと言って叱られたこともあります」

陽子は思い出して苦笑した。

「たしか雁では、王に一番近い高官が後宮に場所を賜っていましたね。
秋官長だったと思います。外出の多い王の代行が多いからでしょう」

「それはいい、必要な人が近くにいつもいてくれれば心強いし便利ですね。
王宮は広くて、わからない書類などがあって教えてもらいたくても、この浩瀚のところへ行くのなんか大変なんです」

「冢宰庁は遠いですからねえ」

利達は先程から表情を変えず、しかし二人から目を離すことのない浩瀚の方を面白そうに見やった。

「そうなんです、特に夜遅くひとりで行くことも多いので、ちょっと不安な時も」

男二人は、今度は目を合わさずとも今のは聞こえなかったふりをするのが両者ともに益ありとすばやく判断した。

陽子はそんな周りの様子にはとんと気の付かないまま、にっこり笑って言った。

「そうだ、祥瓊に住んでもらおうかな。
あ、祥瓊というのは、今は女史を務めておりますが元は芳の公主なのです。ですから後宮育ちで。読み書きから身の回りまで、なんでも教えて手伝ってもらっている上、一番の友人でもあるのです。
どうだろう、浩瀚?」

どうしてこの方の考え方はいつもこういう風になるんだ……

「さようでございますね、ただ、後宮というのは本来王の寵を受けた者がいる場所。
まだ落ち着かない慶で、祥瓊が宮を賜るのはいかに同性とはいえ臣としては良ろしくないことかと」

すかさず利達が口を挟んだ。
「冢宰がおっしゃるように、やはり後宮は寵をうけた伴侶と住むのがふさわしいところですね」

伴侶なんて事は言っていない、と言質を取られぬよう日頃言い回しに慎重な浩瀚は歯噛みした。



男同士の無言の牽制の後、少し力を抜いて座り直すと、利達は再びゆっくり言葉を続けた。
「それにしても若い朝は、することが山積みで王も臣も大変でしょう。
でも、六百年経った国を支えるのもまた違った疲れがあるのです」

首を傾げて目で問う陽子を静かに見つめた。

「国の問題はきりがありません。似たような事の果てしない繰り返しです。
母の小言と同じで、同じ繰り返しはやり過ごすのも手慣れて簡単ですが、やがて聞き流すのすらだんだん辛くなります。しかもその合間に、何か本当に大事な問題が挟まります。やっと解決したと思っても、また次が。こうして六百年経ったのですが」

少し物憂い陰が整った男らしい容貌を曇らせ、陽子はそれに引き込まれるのを感じた。

「 そういえば最近聞き流せなかった母の小言は、おまえちょっとどこかへ行って来いと言うものでした」

「え?」

「いつもは風来坊の弟の外出をこぼしているので珍しいことなのですが。
私の疲れに気づいたのかもしれません。 後宮で毎日寄り添う者にしか気づかれない疲れかもしれません」

ちょっと陽子に笑いかけた。
「幸いな事にちょうどこちらへご挨拶の予定があり、若い国の空気に触れさせて頂く事ができました。おかげで疲れがずいぶんとれたようです」

「いえ、こちらこそ本当にいいお話を毎日聞かせていただけて」

まだ新しい国と王座を保つことすらままならない陽子には想像も理解できない話に、返事の言葉も思いつけないのをまどろこしく思うしかなかった。

「六百年などというのは私にはとても想像がつきませんし、こちらに来てからのこの数年分だけでももし同じようなことがもう一回繰り返すかと思うと……」

言いかけた陽子は、ふと浩瀚を振り返った。繰り返すとしても今度は彼がいる。
その陽子の視線を受けた浩瀚との間に交わされたものは少なくとも今は決して男女のものなどではないとは分かったが、それでもその一瞬の疎外感に利達の心で何かが動いた。


ではそろそろ、と立ち上がりながら、利達は陽子の側に寄りさりげなく言葉を続けた。

「他国の元公主が後宮に住まわせて頂けるなら、他国の太子はいかがでしょうか。
私はこちらの文字が読めますし、字も書けます。
妹がおりますので、女性の着るものにも結構詳しくてそのお世話も出来るかと」

「は?」
陽子は思わず口をあけたままになった。

「ついでに、六百年分の国と官と民とのつきあい方について経験が少々」

落ち着いた風貌の目だけをくるりと回して、またすましている相手に、ただからかわれているだけだと思おうにも、どう相づちを打てばいいのかもわからず、浩瀚に助けを求めようにも、さりげなく被さる利達の袖に視線を遮られてどうしようもないまま四阿を出た。

外で待つ人々に迎えられ、混乱したままの陽子に続き歩き始めた利達は、背後から剣呑な視線を感じていた。


親からいくら言われても、どれほど自分が先のない世界に落ち込んでいたのか、ここへ来てこの緋色の乙女に会うまで自分では認めようとしなかった。
彼女に会ったとたん自分に注ぎ込まれた目に見えない光の力に、癒され、魅せられ、あげくに日頃の慎重さを忘れ浮ついた事を口走ってしまった事がこそばゆく、これでは迂闊な事ばかりをと弟をしかれないなと苦笑した。

一方でその光と自分の間を遮ろうとする影も、なぜかこれまた魅力だった。
あまり刺激してもと思いつつ、利達は国ではこのような相手に久しく会っていないのでむしろそれが快感だった。

女王も国も周りの官もすべてが若さと希望、そして野望に満ちていた。
土地は大半がまだ荒れ果て、手を求め、耕し緑になるのを待っていた。

初稿:2004.04.26 Albatross小説掲示板