――浩瀚

声が窓の向こうから、それを背に座る男にかけられた。

小さく潜めた遠慮がちな声にも関わらず、それまで滑らかに紙の上を滑っていた筆が止まり、傍らで書類を整えていた侍官もそれに気付くと上司の方を盗み見た。

それに眼を合わさないままに、浩瀚は筆を置くと同時にさも困ったように小さく溜息を…わざとらしく、しかしわざとらしく聞こえては困ると思いながら、ひとつつくと、周りで侍官と同じように彼の様子を伺う者たちに肯いた。

そして彼が頷き終わるのも待たず素早く下がる官服の背の波を見送り、最後の者が静かに扉を閉めたのを確かめるとおもむろに立ち上がり窓辺に行って顔を出した。

そこには紅い髪の少女が嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうにこちらを見て佇んでいた。

青い草の中にその髪を靡かせている少女を、頭二つ分ほど高い位置から立ったまま見下ろすという不敬は、この場合は許されるという約束が出来ていた。

「はい、どうなさいましたか」
浩瀚があえて王に対するには少し軽過ぎる口調で声をかけると、陽子は窓のすぐ側まで近づき見上げるようにして話し出した。

「分からないことがあるんだ」

最初の言葉はこれが一番多かった。そして複雑な事というより今更訊けないような些細な事などを、少し照れくさそうに訊ねるのだった。
そして浩瀚はそういったひとつひとつに丁寧に答えてゆくのだった。

時にはとりとめない小さな事だけではなく、直接その時の政に関わる話の場合もあった。

「今朝地官に言った話なんだけど…、どうして私の言った事がそんなに地官を驚かせたのか分からなくて」

どうやら少々融通の利かない官とのやりとりに納得出来ない事があったらしい。そんな事なら仕事のひとつとして、浩瀚がそちらにいる通常の政務の場で相談すればよいはずだし、場合によっては王の考えとしてそのまま押し切れば済むこと。しかし相手と自分の考え方の間にある目に見えない違いを感じた陽子は、相手に公然と反論する前に、自分の考えのどこが問題なのかを知りたいらしかった。

実のところ 陽子の嘆きの多くは、件の地官と同じく常世の育ちの彼には、いささか理解しがたいものだった。
しかしふたつの世界のせめぎ合いの中で生きようとする彼女のこの世界との架け橋になるには、ありきたりな知識だけは足りず、それは様々な立場や異なった考え方にも眼を向ける事の出来る彼だから務まる役だった。
そこで、その地官に内心同情しつつも、また小さな溝を埋める手伝いをした。
今までもそうした事は何度もあり、間を遮っていたものを取り払えば、意外とその相手と陽子の間に思いがけず理解しあえることもあり、それがやがて固く深い絆が育つ事きっかけとなった事もあった。そしてそんな時も浩瀚は結果を見守るだけだった。


やがてそうしたやりとりにも一区切りついて短い沈黙が落ちる。そうすると、ごくついでのように、ちょっと仕事以外の事なんだけど、と一応ことわりの言葉がかけられる事もあった。
そして頷いてそれを許した浩瀚に、王宮暮らしの窮屈さや、まわりとの考え方の違いから来る軋轢などをとりとめなく話し始めるのだった。本当に、ごくついでのように。
それは相手が女王でなければ、親しい者同士の立ち話でちょっと語られるような、そんな風で。
しかも少女のその少し愚痴めいたものの中に出てくる人物が、いずれも彼女の身近で彼女を愛しよかれと思っている者ばかりであれば、いつもただ我慢しているのだろう。
そしてそれらには、先ほどまでと違って浩瀚は軽い相づち以外何も言葉を挟まなかった。彼らとの間には多少の無理解があったとしても、他者の口出しなど必要のない信頼があると、陽子にも浩瀚にも分かっているからだった。
それでも、ちょっと口に出して発散したい、それは咎められない事だし、むやみな相手に言えないのも分かっていた。

浩瀚は、いくらこうして信頼され頼りにされても、その話に出てくる人々のように彼女と奥で私的な時間まで過ごすことなどない、という自分の立場も、そのおかげでこんな風に彼女の役に立つならそれもいいではないかと思おうとした。



それにしても王宮の広さを考えるなら、いくら王の特権で騎獣や使令に乗ってとはいえ、たったそれだけのためにここまで、といつも浩瀚は思うのだが。

「私の方がそちらへ伺いますので、いつでもお呼び下さい」、とも言うのだが。

しかしふるふると紅い髪を振って彼の主は照れたように言うのだった。
いくら王でも冢宰を呼びつけるような話じゃないから、と。そして少し照れくさそうに言い足した。
「ここの方が、なんて言うか、ここだったらつまんない事でも言えるみたいで」

言われて見回せば、いつになっても手入れの行き届かぬ庭に、背後には書ばかり目立つ堂内。
若い娘を寛がせ、呼び寄せるようなものはどう見ても何もないはずなのだが。

前の冢宰の後をそのまま引き継ぐのがいやで、そちらが片づくまでのとりあえずのつもりで使った空き部屋であった仮の堂が、その後の忙しさのためもあって結局そのまま今に至る。
どこもが王宮らしく豪華なしつらえの冢宰府のはずれのそこが、意外と自分にとって居心地良かったように、この王にもなのだろうか。

ここにいるから主上は来て下さるのかもしれない、そう思えば、そろそろ本来の執務室へお移り下さいと周りからいくら言われてもますます動く気になれないのだった。


そして思い出すのだった。初めてこの王に出会った時の事を。
即位式の時に浩瀚が滞在していた賓客用の宮で、お互いそれとは知らずに出会ったあの時の事を。
賓客用とはいえ、手入れの行き届いていない庭院に囲まれた建物だった、そしてやはりこんな風に窓の外の雑草や野の花の混じる中に凛と立つこの少女を窓辺で見送ったのだった。
二度とこのように言葉を交わす機会があるとは期待せず。

そういえば、ここはあの場所とどこか似ている。
目に付くのは幾本もの老木がその一画を囲むように立っているくらいだが、来年春になってもまた芽吹くことがあるのかと案じられるような老木で。それでも今こうして見れば、青々と茂った葉がここに立つ少女を守るかのように繁り、この殺風景な院庭に陰影を作って柔らかさを与えていた。
また春先のちょうど忙しい季節で庭など愛でる暇もなく、さすがの主上もお越しになることなどない時期には、淡い花びらを咲かせていたように思う。ひとつ行事が一段落する頃には、すでに枝にはひとひらも残ってはいないのだが。

そう言えばある時吹き寄せられていたその花びらを拾い上げた主上がひどく懐かしそうに見つめていらした事があった。蓬莱に同じような庭木でもあったのだろう。
ではせめてあの花が咲いている時に来て下さればいいのに、と思った。それならこの庭で茶の一杯でも飲んで頂けるかもしれないと。
しかし自分は果たしてこの窓を越えて外へ出る事が出来るだろうかとも考えた。毎日の仕事場でありながら、主上の居場所でもあるその庭は彼にはすでに特別な場所であった。


そして 陽子の方はたまに背伸びして、今何をしていたの、と窓敷居に手を掛けて中を覗き込んで見渡すことはあったが、決して中へは入って来なかった。
入れば王と冢宰の会話になるからだろうか。

「浩瀚の邪魔になるから、それにちょっと通りすがりに寄っただけだから」

いったいここがどこへの通りすがりになるのかは疑問だが、浩瀚はあえてそれには触れないことにしていた。

そして、浩瀚はと言えば、彼も窓の内側に留まっていた。
窓から身を乗り出している彼は、半分冢宰であり半分は普通の男でもあった。こんな彼と、ちょうどよい距離を保ったまま、今日も少女は小さな問いと小さな不満を漏らすのだった。



そして陽子はひとしきり言いたいことを言うと、経った時間の早さに気づき、邪魔したね、唐突にただそう言って浩瀚に別れの言葉を告げる間も与えず、駆けだすのだった。
髪を靡かせ駆けだした足の蹴る地面からは、それに合わせて影が起き上がり、赤い獣形をとると少女をその背に乗せて高く飛び立った。

この草叢から足が離れた瞬間、彼女は彼女を待つ世界へと心を戻し、その鮮やかな切り替えは彼女自身いつも不思議に感じるほどだった。
ここへ来るまで抱えていたうちの多くを、窓辺のひとときで軽くできたからなのだろう。


『たぶん、だから、彼は忙しいのに、嫌な顔一つしないで相手をしてくれて。王がしっかりその任を果たすようにするのも冢宰の仕事だから。
ただそれだけ、……冢宰として…、だから彼は窓を越えて来ないんだ』

陽子は最初の頃に、窓から出ようとした、あるいは招き入れようとした彼を押し留めたのが自分だった事をすっかり忘れていた。
そして決して振り向いて、窓辺にひとり残された国と彼女のために生きる男に手を振ったりしなかった。




振り向かぬ少女とそれを見えなくなった後も見送る男を、冢宰府の古木が見守っていた、そしてそれが、というのはまた後の話…

2006 「隠されし琴弾の聖域」さまへさし上げもの
2007.5.17 再録