慶国冢宰浩瀚は執務の合間に久しぶりの客を迎えた。
「夕暉か」
和州の乱での幼い軍師は、ついに今年見事な成績で大学の卒業にこぎ着けたのだった。
しかしなぜか大学から国官への推挙を受けようとはしなかった。そのためこの日だけを楽しみにしていた兄虎嘯の落胆は深く、それを慰めた陽子も自分に何か至らない事があるためではないかと悩んでいた。
浩瀚とて有能で信じるに足る官は一人でも欲しいところだが、なによりもこの二人のために、とりあえず会って話を聞くことにしたのである。
突然呼ばれた夕暉は、少し緊張した面もちで冢宰の執務室に現れた。面識はあってもここへ来るのはもちろん初めてだった。
祝いの言葉に型どおりの挨拶が済むと、浩瀚はずばり訊ねた。
「ただ、今年の任官の試験を受けないとか。その理由を聞かせて欲しいのだが」
鋭い視線で捉えられ、さすがの夕暉も緊張した。
「地方を見たいのです」
「地方を?」
「麦州にもいらした浩瀚様ならおわかりいただけるかと思うのですが、王宮と地方はあまりに遠くて。このまま国官として王宮に入ってしまうと、当分は書類仕事ばかりになって、一般の民と会うこともなくなり。まして地方の事など実状を見ることもなくなるのではと不安なのです」
それを聞く怜悧な顔には何の同意も見られなかったが、勇気を奮ってなんとか言葉を続けた。
「私は中央から見放され蹂躙され尽くした地方で育ちました。ですから王宮に縛られる前に、せっかく学んだ知識を持って、改めて地方を見て考えたいのです」
一息にそれだけ言って紅潮した若い顔に浩瀚は訊ねた。
「では旅でもすると言うのか?」
「はい」
「しかしただ旅人として歩き回っているだけで何か分かるだろうか?」
その言葉に視線が心持ち下を向いた。
「実は私もそれが役に立つのか自信が持てません。かといって、このまま任官していいのだろうかとも」
若者の最初の勢いはどこかへ消えて、自信なげな言葉も途切れたのを見て浩瀚は語った。
「王宮の官はたしかに地方に疎くなる。決して粗末にするつもりはなくても、毎日それを目にする地方の官とは違う。
おまえの気持ちはよく分かった」
そしておずおずと視線を上げた夕暉と目を合わせ、深く頷いた。
「地方に行きなさい。費用と便宜は私の方で考えよう」
あまりの話に夕暉は、どう答えていいのか分からずにいた。
「しかし、そんなご厚意に甘えてよいのでしょうか?」
「私の評判を聞いていないのか?私がそんな甘いだけの事をすると思うのか?」
王宮奥深くで働く兄や友からこの切れ者冢宰が甘いという言葉とは無縁と聞き及んでいる夕暉は喜びを抑えて少し身構え、浩瀚はいささか正直すぎるその様子に片方の細い眉を上げた。
「たしかに頼みたいことはある。見聞きした地方の様子などを手紙としてしたためてもらいたい」
「つまり浩瀚様に、報告をすればよろしいのですね」
「いや、主上にだ」
「は?」
「官からの地方についての報告書など、王宮にはあふれている。毎日毎日それを読むのに、主上も私もどれほどの時間を費やしているか。
そうではなく、欲しいのは若い友の目を通した日常の姿だ。そんな手紙が来れば、きっと主上はお喜びになると思うのだが」
ああ、と夕暉は目を見張った。自分でも整理のつかなかった彼の気持ちを理解した上に、それをすかさず陽子への配慮にも生かすその手際。いずれ官になってこの人の下で働く事が出来ればどんなにうれしいだろう。
そう感動する夕暉に、浩瀚はにっこりと微笑んだ。ちなみにこのにっこりを見ると、見慣れた陽子なら危険信号を察知するのだが、生憎夕暉はそれを知らない。
「それで、もう十分地方を見たと思ったら・・・」
「はい、すぐに改めて王宮での仕官を目指します」
きっぱりと言う夕暉を言われた方もきっぱりと押しとどめた。
「いや、その後についても、考えがある」
「は?」
先ほどのにっこりに続いて目を輝かし始めた浩瀚というのは、陽子にはさらに危険な状態と分かるのだが、夕暉はただ何を言われるのだろうとどきどきするだけだった。
「地方での見聞を生かすのは、やはり地方」
「は?」
「規模は違っても州はいわば王宮の雛形。これを知ると、王宮での実務を短時間でしかも広範囲に学ぶことになる。王宮だと一つの部署について慣れるだけでも何年もかかったりするからな。
だからまずは州で政を学べばよろしい。徹底的に!上から下まで」
書卓の上で細い指がぐっと握りしめられた。
「世話になる州侯にはこちらからそのあたりよく頼んでおいてやろう。そうだな、無理な頼みも聞いてもらうとなると、ここ瑛州や和州がよいのだが、なるべく首都から遠い州、今なら巧寄りの方が民の苦労も多い分仕事もやりがいがあるだろう」
「………」
「ま、そんな事は、まだまだ先の話。
まずは慶を全部見て回るだけでもこの先何年かかるやら。
ああ、それから先ほどは主上に手紙をと申したが、もちろん複雑な事や内情など私にも一筆書いていただけるなら、ありがたいのだが」
少し削げた顎を両の手の指を組んだ手に軽く載せて視線を上に彷徨わせ楽しげに話す相手に、夕暉はこくこくとうなずくしかなくなった。そしてそれでは王宮の官になれるのはいつのことになるのだろうと、こちらに来た時とは全く逆の心配を抱える事になった。
やがて話は済んだと浩瀚から退出を促す挨拶を受け、戸口まで下がって挨拶をしようとする夕暉に、浩瀚はさらにとどめを刺した。
「そう、それからこちらに戻ったら、しばらく桓魋に預けてやろう」
何で大学出て兵になるんだ、と声を出さず問う相手を察する様子はなかった。
「平和な時に民と向き合うのは文官だが、争いや災害などいざ事が起きた時、民と共に動くのは軍だ。主上のご意志を軍と民に行き渡らせるにはよい軍吏が必要だ。そのためにはやはり軍に身を置いて経験を積まねば。おまえと一緒なら桓魋もさぞ喜ぶだろう」
自分が喜ぶかどうかも誰か聞いてくれ、とまた心の中で悲鳴を上げながら退室した夕暉は冢宰府の門までなんとかたどり着くと、任官試験の申し込みにまだ間に合うかどうか大学へ戻って確認すべきかと考えていた。このままでは国官になる頃には遠甫と見分けがつかなくなりそうだった。
一方冢宰府の主は満足そのものだった。
「さて、これで地方の実情に強い有能な官、しかも軍吏も育ちそうだ。
主上も楽俊殿の国外からの便りに加えて、国内各地からの手紙をも受け取られたらお喜びになるだろう」
夕暉は知らなかった。とっくに雁の大学を卒業した楽俊が、そのまま慶に戻るはずが主上の「たいしかん」なるものの構想の助けになるとこの浩瀚に言いくるめられて、十二国中を次々と巡っていることを。
今は漣で農業の研修中で、もったいなくも廉王直々からも学んでいるのだが、そろそろ仮朝について学ぶため芳へ移ってはどうかと、つい先日浩瀚からの手紙を受け取ったところだった。
何も芳まで行かずとも母国の巧へ帰ればそこも仮朝だし、おいら農家から官吏になるために雁の大学へ行ったんだけどなあ、とこちらも心の中でつぶやく楽俊だった。
最強のテクノクラートは、千年王国のために目先の人手不足に耐えて、有能な官を育てようとしているようだった。が、いずれも若くて有能で王のお覚えめでたい官吏予備軍が自分と同じ三十男になるまで昇仙のをじゃましているように見えるのはなぜだろう。
初稿:Albatross小説掲示板 2004.04.07 加筆:2006.10.13