風の音が蓬山を満たしていた。
黄海から迷い込んだその風は、高く聳え連なる奇岩の岩肌を這って再び黄海へ抜け出す途を求め、一晩中人妖のように耳障りに細く高く切れ切れに泣いて彷徨っていた。
恐らく他の地でなら珍しくもない程度の風ではあったが、日頃穏やかな気候に慣れたここに住む者にはひどく耳障りで、女仙達の多くが理由もなく心が騒ぎ、そのうちの誰かはもう知る人など残っていないはずの故郷を思い出す、そんな夜だった。
いつものように景麒の牀榻そばの床にうずくまって少し微睡んでいた芥瑚は、褥の上の気配に気付きすぐに前脚で立ち上がった。
最近この主によって下されたばかりの狒々に似た使令も動こうとしたのを感じたが、そちらは軽い身振りで止めた。ここ蓬山にいる限りは当然だが辺りの気配に今は何も危険なものはない、そう判断しての事だった。
そして後脚はまだ半分折ったまま、そっと牀榻に躙り寄ると、褥の縁からそこに座る姿を心配そうに見上げて声をかけた。
「風が、怖いのですか?」
開放的な建物ばかりのこの蓬山でもさすがにここには四方に壁もあり、玻璃のない窓にも呪が施され、何かが吹き込んで来る心配もない。それでもその様子にそう声をかけずにはいられなかった。
風が蓬山に連れ込んだ霧によって月の光が堂室を白い朧な光で満たし、半身を起こした景麒の金の髪をまるで光背のように照り映えさせていた。まだ幼さの残るその横顔の美しさを目にして、いつもの事ながら芥瑚は胸にこみ上げる愛おしさに目を細めた。
「怖くなんかない」
こちらを見ようともせずただ窓の方を見つめてそっけなく答えたが、その全身がこわばっているのを見て取った芥瑚は立ち上がって身を乗り出し、胸に包み込んだ。
最近こうして抱きしめようとすると、ついと離れてしまいがちな愛しい主は、嬉しい事に今夜は黙って白い羽根の中に抱き寄せられてくれた。
「そうですか、ではどうかおやすみなさいませ」
そういいつつ、しかしその身をすぐには放すのがいやで、あえて横たえようとはせず、そのまま抱きしめていた。
「…心配なんだ」
やはりこちらを見ようともせず、しかしさらに少し力を抜いてこちらに身を預けると、景麒は少し眉を寄せて外を見たまま言った。
「何が?これしきの風でこの宮は壊れたり致しませんが」
「卵果が…」
「卵果?」
「漣の卵果が、大丈夫かなと思って」
芥瑚はさっと捨身木のある方向に目を走らせた。
蓬山の一番奥にあるため、まして屋内のここ紫蓮宮からは見えるはずもないそこには漣の女怪がこの風の中座り込んでいるはずだった。
この世界に十二より多くは存在しない同じ種でありながら、ここ蓬山にいても女怪たちは不思議なほど互いに行き来はなく話をする事もなかった。
芥瑚にとってはこの手の中の景麒がすべてであり、余所の麒麟にもまして女怪などに興味はなかった。
それはあちらも同様で、生まれ落ちたその瞬間からあの漣の麒麟はただひたすらに捨身木の根元にしゃがみ込んで枝に実るたったひとつの実を見つめ続けていた。そしてごく稀に景麒が散歩の途中に近くを通る事があっても何の注意も払わず、この山にはすでに蓬山公がおひとりおわす事にも気付いていないようだった。
だから芥瑚も景麒に言われるまで、いくら風が吹いてもあの卵果の事を案じる事などなかった。
捨身木の背後は黄海に向かって聳える切り立った断崖となって落ち込んでいるため、今夜のようなこうした風はやっと見つけた出口だとそこへ駆け寄ると、実る卵果をその勢いに巻き込み叩き付けるようにして駆け抜けて行くのだった。
彼女もこの愛し子の卵果を見守っている十月の間には、はらはらしたことがあった。よほどの事、たとえば触でもなければ大丈夫と分かってはいても、ひたすらそれを見つめるだけの彼女には、ちょっと果が揺らぐ事すら不安に身もだえするほどの大事だった。
それを思い出し、この腕の中の愛しい存在を安心させようと、大丈夫でございます、とまたつぶやく女怪に、なぜ目覚めたか、なぜ不安な気持ちになったか本当のことは決して言うまいと、景麒は考えた。
漣の卵果のことなど案じて目覚めたわけではなく、問いつめられるのが嫌で言ったとっさの方便だった。
生まれたときから馴染んでいる感触に甘えて本当の気持ちを訴えたくなるのを押さえ、暖かで柔らかな羽根で覆われた腕から抜け出すと景麒は再び横たわり、すぐに伸びてきた手が軽く薄い衾をその身に掛けるのに礼も言わず、すぐさましっかりと目を閉じた。
彼が安らかに寝付いたと納得しない限り、決してこの女怪は彼を覗き込む事をやめようとはしないと分かっているからだった。
最近いっそう強く感じるようになったこの絶え間ない心の餓えは、いくらこの優しい腕でも決して満たされないと分かっていた。
彼をいつか何処からか呼ぶはずの王気が未だ感じ取れないためのそれは、今夜は荒れた大気の呼び起こす力によって眠りすら妨げるほどに強く増幅されて彼をいらだたせ、さらには無力感に苛まさせた。
一日も早く王を見つけようと心の耳を澄ませても、黄海に落ちていた長い蔓のように、たぐり寄せてみてもどこにも繋がらずぷつんと切れており、いつか自分もあのようにそこで枯れて朽ち果てるのを待っているだけになるのではという気がした。このまま眠れば、あの漣の卵果から生まれた麒麟がいつか彼より先に自分の王と共にここを去って行く夢すら見そうだった。
景麒は閉じた瞼に力を込め、今度こそ本当に眠ろうとした。何もかもを閉じた目で閉め出したかった。
その時、声が聞こえた。
ちょうどその時一際大きな音を立てて風が通り抜けたその音だと思おうとしたが、それよりもっと弱々しく微かな声だった。
――ゆっくり休んで…おやすみ……景麒
女怪でも女仙でもなく、しかも彼を景麒と呼んだその声は、たったそれだけで彼を安らかな深い眠りに沈めた。