玄英宮鬼談

「朱衡さんは、後宮にお部屋をお持ちとうかがいましたが。」

歓迎の挨拶もそこそこに仕事に戻った(というより帷湍に引き立てられて行った)延王と延麒に代わって陽子の話し相手を勤めていた朱衡は、それを聞くといったい何を、とその臈長けた白い面を傾けた。この隣国の若い女王の次なる興味を前もって予測するのは、彼にとってもなかなか難しいことであると同時に楽しみもでもあった。

ふたりのそばには露台に沿って大きく張り出した、厚くしかし透明な玻璃を全面に入れた窓があり、それは金銀ほどには目だたなくとも、その価値の分かる者にはそれだけでもこの雁の豊かさを感じさせるものであった。

初めてこの玄英宮に来た時、雲海を珍しがり喜んだ この女王のために尚隆がわざわざその後作らせたと知る者は少なく、陽子自身その希少さについて同様気付いていなかった。
真冬にまた来ることでもあれば、慶の気候に慣れた身ではいかに雲海の上とはいえ露台に出るのも辛いだろうとのいたわりであり、この女王を密かに憎からず想っている尚隆の再会を待ちわびる気持の現れでもあった。
しかしせっかくの再訪も、融通の利かぬ輩のために邪魔をされ、今この贅沢な窓の側で女王の相手をしているのは王の臣であった。



「はい、頂戴しておりましたが。なにか?」

「うちの後宮も使うことになるかもしれないのです。
ただ私のところからは近いのですが、他との出入りは遠回りになるようなので、そういったあたりどうされていたのかと思いまして。」

「なるほど。そもそも後宮というのは外との往き来を防ぐのが本来の目的ですので、どうしてもそういう事にはなるでしょうね。」

で、いったい誰を後宮に入れるのかと朱衡は問いたいのを堪えて答えた。
よもやうちの愚王のねぐらになるのではなかろうが。

「出入りについては、主上のお部屋を通ることでかなり近道が出来ました。」

後宮に部屋を賜り、王の私室から出入りすることで、どれだけ周囲の目を引いたかについては言わなかった。

「ただ、ご存じのように、我が国では主上がそこにおいでのことが大変少のうございますので、拙が通路代わりにしてもかまわなかったのですが、陽子様のお部屋ではそうはゆかないのでは?」

「ああ、そうですね。私は気にしないのですが、本人がいやがるかもしれませんね。」

だからその本人はだれなのか、と訊きたい言葉を茶と一緒に飲み込んで続く言葉を待った。この女王のことだからお気に入りの女官か何かに違いないとは思うのだが。

「でも彼がいやがったらこの話はなしですから。」

彼?朱衡は慶の王宮の人々とはほとんど面識がないため、わずかばかりの顔と名前しか思い浮かべる事が出来なかった。秦では仁重殿の主が後宮に住むというが、慶に限っては今はまだ百官すべてに留まらず国の誰もが許さぬはず、また切れ者と噂のその百官の長はどうであろう。そういえば最近この女王が楽俊に会いに来た様子はあっただろうか。

「ですから、何かお困りになるような事が今までになかったか、実際にお住まいになったことのある方にうかがいたかったのです。他にそのような方を存じませんので。」

自分は住んでいたのではなく、そこで仕事をしていただけなのだと言いたいのにこれまた堪えて答えた。

「困ったこと、と言われても特にございませんが。ただ…そう、妙な住人はおりました。」

住人?と、陽子は顔で問いかけた。
それに頷くと朱衡はゆっくりと話し始めた。


窓越しに見える周囲は早々と夕闇に沈み始めていた。慶より北の雁では 冬ともなれば日の光が射すのはほんの短い時であり、ここで茶など飲むうちにいつのまにか室内も暗くなり始めていたが、玻璃越しの冬の夕暮れの光にはどこか心をゆっくり溶けさせるものがあり、誰ぞに灯りを持たせようかと思いつつ、静かにその柔らかな光に包まれて 語らっていたのだった。

そんな風にしてこの若い女王といると、自分も若い王のもとで国を立て直すため一心に働いた日々があったことを思い出し、話したくなったのかもしれない。

「私が後宮に部屋を賜ったのはこの朝がまだ若い頃でございました。
他の官吏に知られてはならぬ仕事をするためでございますので、仕事中は人払いをしておりましたし、出入りする者もほとんどおりませんでした。
通常の勤めを表で終えた後にそこへ戻ってする事も多く、遅い時刻になるのは珍しいことではございませんでした。

おそらく後宮ならさぞ雅なところと思し召しでしょうが、あのころの玄英宮は、民の食料のために文字通り柱や壁まではがして売れるだけ売ってしまいましたので、まして使う人もない後宮は本当に寂しい殺風景なところでございました。かろうじて屋根と外壁があるだけとご想像下さいませ。

私はその中に書卓と牀几など書き物に必要なものだけを揃えておりました。飾り物ひとつなく、まして一歩部屋を出れば走廊の上にまで雑草がはびこり、柱には蔦が巻き付くありさまでした。ですから 夢中で仕事をしている間はともかく、ふと手が止まったときなど決して居心地のよいところとは申せませんでした。」



たしかに蓬莱からこちらに来て、一番違いを感じたのは夜のその暗さだったかもしれない、と陽子はそう遠くない経験を思い返した。それまでの生活では完全な闇というのは経験すること もなく、夜というのがこれほどに深く暗いものとは思いも寄らなかった。そして 巧を放浪中の野山での闇もむろん恐ろしかったが、金波宮に住むようになってからも弱い燈の光しかない王宮の闇は深く、窓越しの雲海のかすかなきらめきに安堵したこともあった。
まして荒廃しきった王宮の使われていない後宮で夜一人で仕事というのは、正丁にとってもさぞ不気味なことだったに違いない。

豪壮な今の玄英宮でいつも穏やかに微笑むこの人が、底の見えない闇の中で小さなあかりにその白い面を浮かび上がらせて一心に書き物をしている姿が目に浮かんだが、それは陽子の知らぬこの国の産みの苦しみの時代の姿を垣間見せた。


「じゃあ、ずいぶん寂しくて恐ろしい思いをされたんですね。」

「いえ、そう言うわけでもないのです。」

「大丈夫だったのですか?」

「大丈夫というか…先ほど申したその住人が一緒にいてくれたので寂しくなかったのでございます。」

「というと?」

戸惑ったように目を見開いて問いかける陽子に、朱衡はこんな話をしてもいいのだろうかという顔を見せたが、話を続けた。




仕事を始めてまだ間もない頃でした。夢中で書き物をしておりましたが、ふとあかりの油がなくなりかけているのに気づきました。弱々しい小さな光は闇に吸い込まれそうでした。
そこで立ち上がって予備の油を取り出そうとしたのですが、見あたりません。
誰ぞ呼んでも間に合わないと思いましたので、まだ宵のうちでしたが今日はここまでと思いました。そして急いで書類を揃えかけたのでございますが、片づく前にあかりが消えてしまいました。

あたりは暗闇、本当の暗闇でした。
自分の立つ向きもわからぬ闇の中で途方にくれました。さて、どうやって外へ出ようか、と。

――そのとき、

……急に…少し明るくなったのでございます。
振り返ると、あかりのそばで何か、影のようなものが揺らいだように思えました。
恐る恐る覗いてみると、油が油壺一杯にまで入っておりました。暗く人気のないところですので、さすがに何かおかしいと思い気味悪くもございましたが、それ以上に油を入れてくれたことがありがたく、思わずあかりのうしろの闇に向かって礼を申しました。むろんそれに応える気配もなく、それに当然ほっとしたのですが。


またある夜更け、残った仕事を気にしながらも官邸へ戻るところでした。さすがに私もいささか疲れが溜まっておりました。

いつものように暗い中を歩いておりましたら、あちらから何やら物音がいたしました。
どうも何か衣を引きずるような、それもかなり重い衣を。
しかし、どう考えてもそのような音を出すものが誰も居るはずがないところでございます。

はて、どうしようかとまたまた途方にくれ果てました。
後宮で剣を帯く事は許されませんし、そもそも身を守る必要がないからそこを使っているわけですから。武器になりそうなものなどあたりにも見あたりません。

やがて物音がいよいよ近づいて参りましたが、手にしております小さな手燈籠はそのような暗さの中では持っている私の身を照らすばかりで、かろうじて足もとがおぼろげにわかるだけ。何が近づいているのかなど皆目わかりません。あるいはすでに目の前まで来ていて、何も見えていなかっただけなのかもしれません。

引きずる音がもうそばまで来た、と思ったとき、突然目の前で何かが空気を揺らしました。――――暗闇が一瞬揺らいだのでございます。
見えたのはただそれだけでございましたが、ふっと…その引きずる音が消えました。

気がつくと、まわりはただ暗い廊屋で、やはり持ったあかりで見える範囲には何もおりませんでした。どうも、あの空気の揺らぎが私をなにやら怪しいものから守ってくれたようでございました。
そこでまた暗闇に向かい礼を言ったのでございます。そうしましたら、たしかに…どこからかの風がこちらの頬を掠めたように思いました、ほんの一瞬。
ただそれだけでございましたが、何かほっといたし、うれしくもなりました。
お恥ずかしい事ですが、やはり暗い後宮を少々恐ろしがっていたようです。

その後もそのような事がいくつかございました。
こうしてわたくしは邪魔をしかける官からも、あやかしからも守られて後宮で仕事を続けました。


ある時、珍しく主上が夜更けに来られました。

あまりに突然でしたので、また新しいあやかしかと思ったくらいでした。
というのは、主上が来られたその少し前から、おそらくは後宮にお入りになったとたんではないかと思うのですが、まわりを包んでいた物音が止まり、静まりかえったのでございます。
そのような物音に包まれていたとはその時まで全く気づきませんでした。それは音というより静かな波動、そんなものがまわりに満ちていたのです。

そして王が私のおりました房室にお入りになると、不思議とあたりの闇が薄くなり、どんな灯りをお使いかと思わずお手元を覗き込んだほどでございました。

それでもやはり外に慣れた目にはまだまだそこは暗かったようで、 主上は夜の後宮がこれほど暗く寂しいことに初めて気づかれたようでした。たしかに昼間見るそこは、ただ荒れ果てて殺風景なだけでございますので、ずいぶん感じが違ったことでしょう。
そこで内殿のどこかに改めて部屋を用意すると言われたのですが、お断りしてそのままそこに留まりました。

物好きな、と主上は思われたようでしたが、私はこの不思議な守り手と一緒にいたかったのかもしれません。当時の王宮内で、私にはここが一番くつろいで安心できるところになっておりました。



年々、国は復興して参りました。
王宮に勤める者も増えて参りました。

それにつれて、後宮の闇は薄くなってきたように思いました。そして怪しいものに出くわすことも減って参りました。
やがて主上の治世が節目を迎え祝賀の行事などあった頃、ふと気がつくと今度こそ私は後宮でひとりぼっちになっておりました。

その祝賀の後、台輔とお話ししておりましたら、麒麟に見える王気がそのころそれまでになく強くなっていたそうです。その後多少の波はあったようですが、幸いなことにあれほどに勝手な事をなさりながら未だに王気が著しく弱まった事はないようでございます。

そのためでしょうか、その後二度とあのような経験はしておりません。



景王の前でこのような事を申すのは憚られますが、いつか我が主上の王気が翳るときもありましょう。
その時に楽しみと言えるものなどがあるとすれば、唯一あの不思議な守り手に、しそびれた礼と別れの挨拶が出来るのでは、ということかと存じます。

そしてそれはいつのことかと待っているうち、五百年も経ってしまったのでございます。

長い話を語り終えて、朱衡は手に持ったままになっていた茶を含んだ。

そこへ女官が、王の仕事が終わったので、宴の方へと知らせに来た。

台輔の話では今宵は蓬莱ではくりすますとやらで、宴会をして夜っぴいて飲んで騒ぐとか。それならと夕餉もいつもとは場所を変えてそれなりの趣向にしてあるので、せいぜい楽しみにされるように 、と先程到着した時に言われていた。

「今日の宴の場所はたしか、後宮の墻壁のすぐ外でしたよね。」

振り返って陽子が言うと、朱衡は困ったように微笑んだ。

「とんでもないお話をしたと主上に叱られてしまいますね。
大丈夫でございます。今日はこの王宮に今を盛りの王が二人もいらっしゃいます。
何ものも近寄ることなど出来ません。」

朱衡はそう言って、宴に相応しくいつもより着飾った陽子の手をとった。




差し出されたその優美な手に助けられて立ち上がりながら陽子は思った。

いつか…金波宮でも、誰かと一緒に仕事をしている時、その相手がふと堂内に立つ何か、誰か、に気づいたような顔をする事があるのだろうか……

いや、いつかそのような日が来るのは確かなのだ。それを止めることは自分には出来ない……ただ、その日を先に送るだけ。


まあ、と気を取り直して、まずは目先の問題を片づけることにした。
いずれにしても桂桂を後宮に住まわせるのはやはり諦めた方が良さそうだ。登極して間がない自分の王気では何が出てくるか分かったものではない。もうしばらく遠甫に預かってもらうしかないな、と考えた。





自分の物思いに気を取られていた陽子は、先導する朱衡が戸口でつと振り返り、陽子の頭越しに露台の玻璃窓を見つめていたのに気付かなかった。

その目に一瞬見えたのは、すでに床も欄干も崩れた露台に細かく幾千にも割れて散らばったその玻璃の欠片が、冴え冴えと照らす月の光を受けてちらちらと瞬き輝き、死の静寂に包まれ荒れ果てた王宮を飾っている場面であった。

その輝きはそのまま隔てるもののなくなった天空へと繋がり、そこに拡がる数限りない星々に溶け込んでいた。

こんな日に覗いて下さる方はいらっしゃるのかと思いつつ、メリークリスマスとご挨拶を申し上げます。 そしてクリスマスなのでイレギュラーな一品を。

普通ならこういう日はもうちょっとラブラブなものかと思うのですが。
英米ではクリスマスに怪談話を楽しむという伝統があるようです。
「クリスマスキャロル」なんて名作もありますが、有名無名作家のゴーストストーリーが雑誌に載ったりアンソロジーが出たり。私はこういう古いホラーやゴシックものがとても好きでした。

というわけで、慶国は十二国のうちでヨーロッパに当てはめればイギリスだと言い張っている私からはクリスマス・ゴースト・ストーリーを一編。

この作品はもとはさる方への暑中見舞い(旧題「玄英宮城談」)、ですから露台で夕涼みのお話しでした。
怪談というのもおこがましいほどのとろいお品ですが、これでもちょうど夜中の十二時頃から書き始めたら、途中でなんかすごーく寂しくなってきて、TVでオリンピックのサッカー予選をつけて、オーレーとか言いながらキーを叩いていました。

主人公が朱衡で場所が後宮なんだから、もっと色っぽくも考えたのですが、こういう話のお約束として、そうなると朝下官が見に行ったら、精気を吸い取られた朱衡が死んでいましたになり、それは差し上げものとしてはちょっとマズイんじゃないかという事で、(人に怪談押し付けるのも充分まずいんですが)淡々と、となりました。

ところでタイトルに見覚えがと思われるかと思いますが、そう、これは「十二国奇談」シリーズの二作目で、この後に月渓がへんな妖魔にあう三作目を書いたら長くなりまくったのが、あちらなのです。
warehouse keeper TAMA
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