甘いものでもと伸ばした陽子の指先に触れたのは、五色の小さな菓子だった。
「あられ…」
ひなあられに似たそれを見て、暦がこちらとは違うので日付は正確には分からないが、たしか今は雛祭りのころのはずと思い出した。
桃色の小さな粒をぽりぽりと食べながら居合わせた祥瓊と鈴を見ているうちに、ちょっと思いついた陽子は折良くやって来た女官に何ごとか囁くと楽しそうに待ちかまえた。
そして休憩中の祥瓊らに眼を戻せば、着ているのは簡素なお仕着せだったがそれでも重ねた衣の色の組み合わせは王宮に相応しく、幅の広い袖口も柔らかに垂れ下がり美しかった。
忙しさに疲れていた陽子はお茶になっても話す元気もなく、先程からそんな彼女らが楽しげに話したりぱたぱたと袖を振って笑う様子をぼんやり見る事で寛ぐしかなかったのだった。
やれやれ若い女の子を見て楽しむなんて。毎日官吏と働いてばかりいるおかげで、すっかりおじさんになってしまったわ。
陽子はげんなりとした。
やがて、やや慌てたようにまず桓魋が入ってきた。後には夕暉も続いていたが、なぜか二人とも年に数回あるかないかの儀式用の武官の出で立ちで、背中には大きな弓を背負い、腰にはきらびやかな装飾を施した剣を佩いていた。
しかし儀式用とはいえ武具を持った姿が堂内に現れた事に祥瓊たちは思わず腰を浮かした。将軍ともなれば儀式用といえど持つのはいずれもれっきとした冬器である。
「何ごと?」
鈴が厳しい声で桓魋を問いつめたが、囓った跡のついた饅頭を握りしめてではあまり迫力がなかった。そもそもいくら王宮でも、平日のここでは彼等のきらびやかな武具はかなり浮いていてとても謀反や狼藉するようには見えなかった。
「ああ、大丈夫。私が来て貰ったんだ。それにしても禁軍は演習中なのに、一番乗りとはすごい。いざという時にはあてに出来るね」
「何かは存じませんが、とにかく騎獣に乗ってもいいから来いとの仰せでしたので、許されるぎりぎりまで騎獣を使い参上いたしました」
半信半疑で来てはみたものの、やはり何やら場違いな身なりにさすがの桓魋も当惑していた。
そして鈴も桓魋を睨むのをやめて休憩も終わりかと茶器を集めかけたが、陽子に止められた。
「そのままでいいよ。それにもうちょっと増えるから、彼らのお茶もすぐに来る」
そこで鈴と祥瓊が重装備で走ってきた二人にとりあえず茶を注いでいると、追加の茶が運ばれてくるのと前後して次々と人が増えた。
いったい何をお考えか、といつもの台詞を言いながら景麒が豪華な金の縁取りも眩い鮮やかな青の衣で現れた。その後に浩瀚がやたら重そうな上着を重ねて、頭には冢宰の冠までかぶって続き、遠甫の盛装などこれまた滅多に見れるものではないが、こちらもやはり細かな細工を施したいぶし銀の衣を着用していた。
「盛装で黒以外の派手なのを着て来いとの仰せでしたが、賓客でもお越しなのでしょうか?」
勇ましい出で立ちのままで茶菓子を頬張っている桓魋達を横目で見ながら浩瀚が訊ねた。
「いや、いざという時にどのくらいの時間で皆が準備をして集合できるかを試したんだ。何か大事な用の途中でなかったらいいけど」
こんな馬鹿な事でも通用するなんて、王が失道したら国がめちゃくちゃになるのも無理ないなと思いつつ、表向きは真面目くさって陽子は言った。
「もとより我らに王からのお召しより大事な用などございませんので、それは構わないのですが」
浩瀚は置き去りにしてきた六官の長らの事は何も言わなかった。
特にその中でさる件で激しい叱責をうけるはずだった冬官長は、冢宰がそれについて言いかけたところを呼び出されたので、浩瀚のその最初のひとことに合わせて止めた呼吸を戻す時を逸した。そしていったい何をと他の長が言い合っている中でついに酸欠で失神した。
禁軍も運悪く将軍の号令下で演習中で、重い武器を一斉に振りかざしたところで将軍が飛び出して行ってしまい、やがて絶望的な気分になっても左将軍の命が絶対な彼等は痺れてくる手足に耐えて誰も下ろそうとはしなかった。
そんなことも知らず、陽子は集まった顔ぶれを椅子を動かして座らせたり立たせたりした。
「一番真ん中に景麒が座って、その両脇は浩瀚は遠甫。鈴と祥瓊はその前に座ってて。桓魋と夕暉は少し下がって両脇に別れて立ってね。うん、良い感じ」
しかし娘ふたりが文句を言い始めた。
「どうしてみんな盛装なのに、私達はいつもの仕事着なの?」
祥瓊は着飾った背後の男どもを不満そうに睨みつけた。
気にするなと言いかけた陽子ははたと気付いて、娘ふたりをこちらに呼んだ。そしてとんとんと椅子を叩いて自分の両脇に座らせると、そっと囁いた。
「ね、なかなかいい見物だと思わない?」
言われてふたりが見ると、これは、まあ、なかなかいいじゃない。
両脇に立つりりしい武人、その間には慶きっての知性派二人がどっしりとした衣で座り、皆で中央の金の髪の仁と美の象徴を守っているようであった。
かなりな骨董品から新鮮なのまで年代はいろいろだったが、いずれも美味しい―いえ―美しい男ばかり、それが盛装して威儀を正しているのは女冥利に尽きる見物だった。儀式の時は忙しくてじっくりなんて見ていられないし、陽子ですら正面からや近くではあまり見ることはなかった。
これに較べたら、お雛様なんていらないわ。
にこにこ顔の娘三人に向かい合って見つめられ、男達はだんだん寄り集まって固まってしまった。
――禁軍より手強そうだ……
――なんなんだ……
理由を聞きたかったが、妙に満足げな女王の様子に、皆から代表して訊ねて欲しいと目で訴えられた景麒も何も言わなかった。
陽子も皆が何なのかと知りたがっているのは分かっていたが、何も言わず楽しんだ。
――蓬莱の習慣だなんて言ったら、あちらを恋しがっているって心配をかける。ただ……ちょっと懐かしいし、女の子らしい気分を時々は忘れないようにしたかっただけ。
そしていつもより柔らかく微笑むその表情に、何かが聞こえたかのように男達も観念して姿勢を正してみせた。
どうやらこれが蓬莱の行事らしいとだけは気付いた娘ふたりが女官仲間に話し、そういう事はあっというまに広まるもの。
以来毎年常世の三月三日は、王宮中の男は盛装をすることになり、しかも女性から頼まれれば、すぐにポーズを取るという事になった。
そのためいくら着飾っても素通りされる可哀想な男もいれば、用のあるところへいつになっても辿り着けないほど一歩歩くごとに呼び止められる者もいて、その日仕事がはかどらないほどいい男という証拠となった。
結果として朝議も遅刻者が続出し、遅刻しなかった者はといえばその士気の低下は著しく仕事をする気も無くしてしまい、それはそれでどうしようもなかった。
あげくに見栄で遅刻する者まで現れる有様となった。
堪りかねた浩瀚はある年からその日の朝議は適当な口実のもとで休みとすることにした。なにしろ王宮で働く者の半分は誰も彼もが日頃の仕事ぶりを忘れたようにあちこちで男共にポーズを取らせるのに忙しく、そもそも台輔も冢宰も朝堂まで辿り着けないという状況ではどうしようもなかった。
身分にかかわらずという一種の無礼講のため、いかに伏礼を廃した国とはいえ普通なら声をかけることすら出来ない相手を皆が見逃すはずはなかったのだった。
「台輔〜」
「きゃー、こっち向かれたわーー」
「笑って〜」
いつもなら決してあり得ないそんな黄色い声にも、俯く事も許されずしかめ面で耐えるしかないのは、王命に逆らえない麒麟のつらいところであった。
そしてあまりに多くの女性に取り囲まれ逃げ出そうとした時も、使令ですらその日ばかりは助けにならなかった。なにしろ気が付けば使令も主の命を無視して姿を現しポーズをとっていた。彼らも男だったと景麒はため息をつき、そのやるせない表情が素敵とまた歓声が上がった。
しかもだんだんエスカレートしていろいろ注意書きが出るほどになった。
曰く、見るのはいいが触れてはいけない、むろん着衣をどうこうしてはいけない、公共の場のみの行事でお持ち帰りは不可、等々
そして男達の救いは陽子がこの日ばかりは美しく着飾り、王宮のあちこちに現れ、哀れな男達も間近でその艶姿を拝ませて貰える事くらいだった。ただそれが実は彼等のためではなく、最初の年に陽子までがあちこちで水禺刀を翳してポーズをとらされたため、翌年からは娘らしい服装をしていただけとまでは誰も知らなかった。
とうとう浩瀚は陽子に尋ねた。
「これは女性のための行事のようですが、男性のためのものもあるのでしょうか?」
まずは無難にやや遠回しに話を進めようとした。
「うん、五月五日がそうだよ」
(その瞬間彼の頭に浮かんだ妄想は……冢宰だって男さ)
「で、そちらですと、もしや女性がポーズを取るのでございますか?」(わくわく)
「私は男兄弟がいなかったからよく知らないけど。お父さんが子供の時の飾りならあったよ。たしかそれを飾るんだ」
「で、どんなもので?」
一生懸命記憶を辿っていた陽子は、やっと思い出したらしくぱっと顔を輝かせた。
「布一枚だけお腹に巻いた男の子が熊を踏んづけてガッツポーズを取っている飾りものだった」
「はー?」
「男の子のお祭りだから、それを男の子がごちそうを食べながら見るんだ」
がっくりというより、言葉も出ない浩瀚だった。
―――蓬莱って、蓬莱って……
「興味を持ってくれたんだったら、今度やってみてくれる?浩瀚と桓魋ならぴったりだ」
―――で、男がそれを見るんですか?
「ごめん、間違えた」
―――間違いですよね
「布一枚はお腹に巻き付けるんじゃない、お腹にのせて上と両脇を紐でこんな風に……」
「それだけですか?」
「うん、後から見たらきっと恥ずかしいと思うから後は向かないでね」
―――熊姿とどっちが恥ずかしいものだろうか
「主上」
「何?」
「やはり祭りは女性のだけで十分かと」
「そう?残念だな」
という訳で、やはり金波宮では女性のためのお祭りだけが続けられた。
たまに、男の祭りもないのかという者もいたが、恐ろしい真実を囁かれるとさすがに何も言わなくなった。
こうして誤解とそれを都合良く放置する胎果の女王のもとで、また蓬莱への誤った知識がひとつ皆の頭に埋め込まれた。
いずれにせよ蓬莱っていいところなのね、と少なくとも慶の半分は思っているようである。
2005 桃の節句 albatross小説掲示板初出