その小さな里の小さな里家は他とは少し違っていて、眼の不自由な子ばかりが集められていた。

子供が集まっているにもかかわらず、毎日がひっそりとしたそこに珍しい訪問客があった。

事実上の王の事実上の妃であるというその方は、お美しいだけではなく、見たところまだごく年若いもかかわらず超然としたものを漂わせ、王の寵愛を一身に集めていらっしゃるという噂もなるほどと思わせるものがあった。



「なぜ私がそんなところへ行くんだ」
その前日の芳極国鷹隼宮の奥深くの一室でのその妃と王の会話であった。

「親もない上自由に動けない子ばかりでは、特に冬場はさぞ寂しい生活に違いない。少し励ましに行ってやってくれぬか。慣れぬ仕事とは分かってはいるが、そんな相手ならお前も気を遣わずともよいであろう」

仮王月渓はいつものように穏やかに語り、愛妾を相手に寛いでいるように見せてはいたが、その心は一時も安まることはなく、しかしまわりを安心させるためにもその不安を見せることが出来ないのが辛いところであった。

その年の冬はこの北国としては信じられないほどに雪が少なく、燃料にも事欠く民にはありがたいことだったが、春になって雪解けの水で潤うはずの池や湖がどうなるのかは、毎年干ばつに悩む月渓らとしては喜べる事ではなかった。
そしてその冬も終わりに近づき、早くも王宮では春に備えての仕事が山積みで、慰問にまで手の回らぬ月渓に代わって寵姫がお昼寝の時間を割いて、王の名代として出かけるように言われたのだった。

妖魔は王宮の飾り物になるのは引き受けたが、外の世界でまで含むとは聞いていないぞと言いかけたが、この男が前の王とその妃について漏らした言葉を思い出した。

――王が民の暮らしをもっとご覧になっていれば、そして民の中に入って励まして下さるそんな妃であったなら…



そこで数名の供を連れてしぶしぶ出かけた。

今までは外出は月渓に付き添うだけだったが、今回は初めてのひとりでの公務だった。
そもそも子供は遠慮がないので苦手だった。

――ああそうだ。色くらいなら、それも明るい色なら朧気に見える子もいるだろう、白地になるべく華やかな色の模様のものを着て行け

決して新しい衣装も飾りも欲しがらず、自分から華美に装うとはしないないため、王宮の皆から慎ましやかな性格と信じられている寵姫は、今回はそんな王命によって、いつもより鮮やかな色の衣装を着込んで出かけた。幸い王宮には新たに作らぬともその程度の要望ならいくらでも応じられるだけの衣装はあった。

本当なら辺りを埋め尽くしているはずの雪のように白く輝く緞子にやがて来る春を先取りするかのように花を散らした衣装は、泥の混じった雪と侘びしい里家を背景にしても少女の美しさを際だたせていた。しかしその日彼女を迎えた子供は、いずれもお客が何を着てようが気にした様子もなく何をするでもなく、無言でただぼんやりと集められたところに立っていた。
普通ならこんな歳ごろの子供は大人の制止も振り切って、彼女の袖にぶら下がって話を聞いて貰おうとしたり、手を引っ張って見せたいもののところへ連れて行こうとしたりするのだが。
なぜかどこへ行っても子供は一目でこの愛想のない寵姫に懐き、本人が迷惑そうにしていようと頓着しないのだった。



「さ、ご挨拶なさい」
子供の世話をしている者からそう促されても、ぼそぼそという声が聞こえるだけで、いつも元気な子供に閉口している妖魔も、こうして無言で遠巻きにされるのもまたさらに居心地が悪かったものの、一通りの挨拶を済ませると、こちらもただつっ立っているだけだった。

そしてこの場を盛り上げようなどという気はさらさらない妖魔と子供に加えて、この寵姫の無愛想にはすっかり慣れっこになっている王宮から付いてきた官も何もしようとはせず、その間の悪い沈黙に里家の世話役の女性だけが気をもむことになった。

「さあ、みんな、どんな事が好きかでも、したいことでも、何でもいいからお話しをしては?」

「腹一杯飯が食いたい」
何とか雰囲気を変えようとした質問に、少年のひとりが愛想なく答えた。

――私もだ

妖魔は心の中で同意した。

――
おまえがちびで痩せこけてまずそうで、おまけにおまえたちが元気にしているという報告を楽しみにしている王がいて幸いだったな

しかし最近は寵姫役も板についてきたので、それをそのまま口に出すのは止めた方がいいだろうと沈黙を続けた。
それを気を悪くさせたと誤解した世話役は慌てて子供をたしなめた。
国から支給されるものが少ないという批判と取られることを恐れたのであった。
国に対して王に対して何か無礼があればと恐れる気持が、前の王の時代にとことん染みついていた。

「あ、あのもっと他に、何か楽しそうな事でしたいことはない?ほらおっしゃい」

「俺、一回でいいから思いっきり走りたいよ」

別の子供が答え、それは王にも国にもどうしようもない事だけに、先ほどのより無難な答えだと世話役はほっとした。

しかし妖魔はおとなしく生気なく見える子供を改めて見た。
走るどころか子らは毎日生活しているこの場でも最低限しか動こうとしなかった。
狭苦しい室内でつまらぬやりとりをするのもそろそろいやになってきていた妖魔は訊ねた。

「この子らを連れて散歩に行ってもよろしいですか」

美しすぎるせいか無表情に見える妃は無駄な事も(社交上必要な事もほとんど)言わなかったが、その声は思いの外穏やかで優しく聞こえ、言われた事に世話役は少し驚いたが、手を引いてやればついてまいりますと答えた。


妖魔は桜色の爪まで手入れの行き届いた月渓にしか差し伸べたことのない手を、子らの方に差し出した。
そして清潔さに少し問題のある手で恐る恐るそれに縋った幾人かの子供を両脇に従えて、塀の外の放置された耕地へ向かって歩きながらたずねた。

「走ることがないなら、騎獣や馬に乗ることはあるのか?」

「騎獣なんて触った事もないよ。それに騾馬でもなんでも落ちたり蹴飛ばされたら危ないから近づくなって言われている」
ひとりの子供がつまらなそうに答えた。
「俺、豚に餌やる時に踏まれたけどあれも痛かった」
反対側の手に縋った子供が答えた。

――実に楽しい会話だ

妖魔は月渓に言ってやりたい文句を考えながら、里家の方を振り向いた。
供にはそこで待つように言ったので、女官は大人との会話に飢えていた管理人が話し込むのに相手をしていた。そして警護の兵までが、交わされる会話に気を取られてこちらを見張るのが疎かになっていた。

――この子供や私が妖魔に襲われたらどうするんだ

そう思いつつも、まあその心配はなさそうなので、ちょっと騎獣を連れてくるからと妖魔は子供の手を離した。
見えない代わりに耳の鋭い子供たちは騎獣の声を聞き逃すまいと耳をそばだてたが、それらしきものは何も聞こえず、ただかさかさという音だけが聞こえ、間もなく少し離れたところから呼ばれた。

「この騎獣は安全だから決して落ちたりしない。しっかり鬣に捕まれば大丈夫」

少し単調だが優しい声に励まされ、近づいてきた気配におそるおそるひとりの少年が手を伸ばしてしばらくさすっていたが、思い切ってそれに跨った。
どんな種類かまでは分からないが、ふさふさとした毛は柔らかく暖かく、その広い背の乗り心地の良さに加えていつもより高いところに座ったというだけでも気持がよく、そのうれしそうな声に他の子供も次々としがみつくようによじ登ってきた。
その騎獣は座るとそこが沈み込み、ぴったりと子供の身体を包んで落ちないようになった。騎獣ってそんなものなんだろうかと子供たちは思った。やっぱり騎獣ってすごいや、背骨のごつごつした騾馬とは違うな。

子を載せた獣は滑るように走り出した。
同乗しているらしい王宮のお客は、誰の隣に座っているのかは分からなかったが、子供たちが不安がらないように時々声をかけてきた。

頬にあたる風で自分が進む速さを知った子供たちはその速度に歓声を上げた。そして地を駈ける騎獣の脚から跨っている背に伝わる揺れで、自分の脚が大地を蹴っているのだと想像していた。

見て、見て、僕はこんなに早く走れるんだ。

やがて騎獣はふわりと浮き上がり、揺れもなくなった背の上で、駈けていた時とは比べものにならない早さで空気が過ぎるのを感じていた。
子供たちはもう言葉もなくその速度を膚で感じることに夢中になっていた。


こんな風に、こんな早さで走れたら。
全員が心でそう願った。

そしてさらに飛びつづけているとどんどん気持が高揚して、走るだけでなくもっと、もっと何でも出来るような気までしてきた。つい先程まで自分たちは何も出来ないと考えている子供たちだったのだが。

――見えないから良いこともあるよ  
ひとりが言った。

「「そんなもん、ないよ」」
他の全員が反対した。

――あるある、他の人は夜になると灯りがないと家の中も歩けない
でも俺たちは夜でも昼でも同じだもん

どっと笑い声が上がった。
「じゃあ、今が夜だと思ってもいいよね」
一番小さな子供が言った。

「夜空を飛んだら何が見えるの」
訊ねられた王宮からの客はしばらく考えて教えた。
「月が出ていれば見える」

「いつも出ているのはないの?」
「星が見える。きらきらと輝いてそれが空一杯に拡がっていて、今頃の季節はとりわけ綺麗だ」

見えるものに美しさを感じるなど、妖魔の以前の生活にはなかった。
ただ星があるというだけだった。
夜、妖魔が餌を採りに王宮から忍び出る時、それを見送る月渓が必ず天空を見渡すのを見て、最初は意味が分からずただ珍しげに、やがて自分も飛びながらそれを味わうようになったのだった。


弱い冬の午後の陽差しの中を翔びながらも、子供たちは見えぬはずの目で、大きな月とそれを取り囲む小さな星が、自分たちの上にも下にも拡がるのを見た。
彼等が思いつく限りの大きさである小さな両手をいっぱいに広げたのと同じ大きさの月と、ものの形を手探りする敏感な指の先に感じる一番小さなものと同じ大きさの星が。

今、子供は大きな騎獣に跨って夜空の中を翔んでいた。


歓声はいちだんと大きくなった。
どこまでもどこまでも続く星空の中を子供たちは全速力で駈けていた。






やがて、寵姫と子供の姿が見えないのに気付いて真っ青になった供の者や里家の管理人が探し回っているところへ、頬を赤くした子供たちが戻ってきた。

その変わりように皆は唖然とした。

子供たちに両手を引きずられるようにして歩く寵姫は、着ていたものは一応元通りに見えたが、髪は髷が崩れてそこにぞんざいに飾りが刺されており、女官は慌てて駈け寄った。

しかし大きく変わっていたのはその両手にぶら下がる子供たちで、先程までとはうってかわり、目はきらきらと輝き、冷たい風にあたって赤くなった頬はかさかさになっていたが、全員がしゃべり続け、まるで見えるかのように呼びかける声を頼りに元気に世話役のところへ駈けて来て、転ばないかと彼女をはらはらさせた。

あっけに取られながらも、その子供らしくはしゃぐ姿に管理人は喜び、両手に抱え込んで口々に話す子供たちの話に耳を傾けた。
――ぼくたち力一杯走ったんだ
一時に全員が競うように話したため、よく解らない所もあった。そのため座ると形が変わる騎獣がいると言われても、見えないからしょうがないと思い、夜空の下を走ったと聞かされても、たぶん自分が聞き間違えたのだろうと考えた。

一方で一度解いて梳き直さないとこの髪はどうにもならないと見た女官は、相変わらずのほほんとしたままの女主人を優しくたしなめると、そろそろと言って騎獣に乗るよう促した。
名残を惜しみながらそれを見送った子供たちは、一行の去った方向を、まるで見えるかのように見失うことも方向を間違うこともなく手を振った。
あの騎獣の気配なら眼で見えなくても感じるからわかるんだよね、と言い合いながら。



「さて、子供たちはどうしていた?」
夕餉の席で月渓は里家の様子を訊ねた。

「元気いっぱいで、よくしゃべった。良い子たちだ」
いつもなら子供に話しかけられると逃げ腰の妖魔を見ている月渓には意外な返事だった。

「それはそれは。さぞ寂しい様子ではないかと案じていたのだが、そうか、それならよかった」

少し嬉しい誤算だったが、良い様子ならそれに越したことはないと月渓は納得することにした。
どのみちこの重い口からこれ以上の事を聞き出すのは無理と分かっていたので、付き添わせた官からのちほど報告を受けるつもりだった。さきほど前を通った時に彼がこちらを見た様子から、なにやら申し述べたい事がいろいろありそうだった。

「ご苦労だった」
「ああ」

これだけで一日の公務の報告を終えると、仮王の愛妾は皿の上の摘もうとするところころと逃げ回る栗の蒸し物に、ぐさりと握り直した箸を突き立て捕らえると、今度栗でも拾ったら、あの里家に置いてきてやってもいいなと考えた。

「微睡みの彼方」さまへ献上品