「こんな時間にいかがなされましたかな?」
遠甫はにこやかな表情で予約のない訪問者を迎えた。
「このような遅くに申し訳ございません。もうお休みになられるところでしたでしょうか」
「いえ、まだ夕餉が終わったばかりでございますよ。私よりも台輔こそ、行幸から戻られたばかりでお疲れでございましょう」
椅子を勧めながら問う遠甫に、景麒は言葉少なく「いえ‥‥」と答えたのみだった。
用事があるからわざわざ尋ねてきただろうに、言葉を捜すようにそのまま黙っている景麒を置いて、遠甫は房室の隅の小卓に歩み寄って自ら茶を淹れた。
「ちょうど食後の茶を飲もうとしていたところでしてな、お付き合いくだされ」
「これは‥‥」
茶杯と共に差し出された小皿の上の、茶菓としては風変わりな白い粒を見て、景麒が驚いたように目を上げた。
「ご覧の通り、雪華粒ですな」
「何故これを?」
「先ほど主上がお持ちになりました。土産だそうです」
「主上が‥‥。それで太師は黙ってこれをお受け取りに?」
遠甫は穏やかに微笑んで頷いた。
「はい。せっかくの主上からの下されものですから、ありがたく頂戴しました」
「それでよろしいのですか?」
あまりにも曖昧すぎる景麒の問いだったが、遠甫はその意味を取り違えた様子もなく、しかし答えではないことを語った。
「台輔はご存知でしょうが、これは主上が行幸の際に、一人の老婆が畑で収穫したばかりのものを直接主上に差し出したのだとか」
「ええ。私もその場にはおりましたので‥‥」
言葉を濁したまま何と続けてよいか迷うように口を噤んだ景麒の前でゆっくりと茶を啜ってから、遠甫は今度は自分から問いを発した。
「台輔は雪華粒をどういう作物だとお考えですか?」
「雪華粒は‥‥」
言い淀んだ景麒は一呼吸置いてから、意を決したように続けた。
「私は雪華粒は加熱しないでも食べることのできる穀物だと承知しております。比較的短期で実を付け、冬以外一年中どの季節でも収穫が可能です。水分が少なく軽いので携行にも適し、一時的なものですが満腹感も得られます。米ほどの栄養も換金価値もありませんが、手も時間もかからないのが利点とされていると」
一息に言うと景麒は言葉を切ったが、遠甫はさらに続きを促した。
「それだけではございませんでしょう」
景麒は表情の乏しい整った顔を僅かに強張らせたが、諦めて続きを語った。
「はい。このため、王朝が傾くと民がこぞって雪華粒を作り始めると言われています。春先に稲を育て始めても、秋の収穫を期待することができないと民が判断すると、成長が速く、万一の時には持って逃げることのできる雪華粒が増えるのだ、と」
「それで老婆の畑に雪華粒があるのを見て渋い顔をなさったのですね」
「私は別に渋い顔など‥‥」
憮然とした面持ちで言いかけた景麒に、遠甫は柔らかく告げた。
「主上が私にこれをお持ち下さったのは、私が主上に初めてお会いした里の畑にも雪華粒が植えられていたからだそうです。懐かしかろう、というわけですな」
「はぁ‥‥」
「そう言いながら、主上はさりげなくこの作物のことをお聞きになられましたぞ。何か麒麟の身体に障るような不快ないわれでもあるのだろうか、と」
「私は不快になど‥‥」
同じことを繰り返した景麒に遠甫はくすりと笑った。
「『いくら聞いても景麒は何でもないとしか言わない。でもあれは絶対に不愉快だって顔だ。額の皺がいつもより2本ほど増えていた』と仰っておられましたが」
「‥‥」
遠甫は楽しそうに陽子の口真似をし、むっつりと黙り込んだ景麒の顔を見て髭を揺らしながらくつくつと笑いを零した。
「太師」
景麒の渋面に遠甫は笑いを引っ込めて軽く頭を下げた。
「これは失礼。けれど、敢えて軽口で伝えられる主上の思いやりこそありがたいとは思われませんか?」
「それはそうですが‥‥」
景麒は溜め息を一つ吐くと、話を戻した。
「それでは、主上には雪華粒がどういった作物なのかはお伝えしたのですね」
「国が傾く兆しだと言われていると?」
「‥‥」
遠甫が放った不吉な言葉に、景麒は不安そうに口を噤んだ。
「お伝えしました。そうしませんと台輔のお考えが主上には理解されませんのでな」
「ですが‥‥」
「主上は喜んでおられましたよ」
遠甫の言葉に景麒は驚いたように目を上げた。
「慶はどうやら安定を取り戻したように見えるが、だからといって荒廃への備えを怠っていいというわけではない、と主上は仰いました。もしも誰一人雪華粒の種を持たず、育て方も知らないとなれば、次に慶が傾いたときはより荒廃は激しくなるだろう。必ず斃れぬという保証がない以上、その時のために雪華粒を作り続ける人がいることはよいことだ、と」
「しかし、民が雪華粒を見れば不安を抱きましょう。それが元で施政に不満を抱く者が出るやもしれません」
遠甫は頷き、穏やかに微笑んだ。
「主上にも、きっと台輔はそのようにお考えになるだろうとお伝えしました」
「‥‥」
「主上が仰るには、台輔が不安になられるのは自分の働きが足りないからだろうと」
「私は決してそのような」
慌てて言い募った景麒を遠甫は柔らかく押し留めた。
「結局不安というのは、真に豊かにならない限り消えないものです。雪華粒を見て不安になるのなら雪華粒が見えなければよいのですかな? それで不安は全て解消されましょうか?」
「それは‥‥」
「さよう。不安の下地があれば、人は何を見ても不安になる。雪華粒は単なるきっかけに過ぎません。それを荒廃への備えと見るか、政への不満と見るかは見る人次第でございましょう。見る人を変えるためには、結局国を豊かにする他はない。民の心の具現であられる台輔が不安を抱かれるというのであれば、それは現在の民がまだ安寧を得てはいないということの現われなのだろうと、主上はそう語っておられましたな」
「‥‥」
暫し手の中の茶杯をじっと見つめた景麒は、そっと遠甫に尋ねた。
「太師もそうお考えですか?」
遠甫は答えずに、ただ雪華粒を一つまみ取って口に運び、ぽりり、と噛んだ。
「台輔もいかがですかな」
勧められた景麒は納得した様子ではないものの、素直に皿に手を伸ばした。
「雪華粒は不思議な穀物でしてな。このように加熱しなくても食べられる。一説に依ると、荒廃に備えた王が路木に願ったものだそうですな」
「荒廃に備えた‥‥」
景麒は呟き、雪華粒を口に含んだ。さして旨味があるわけではない穀物が、景麒の歯の間でぱり、と軽い音を立てた。
「雪華粒にはもう一つ、あまり知られていない側面がありましてな」
景麒が茶杯を取るのを待って遠甫は口を開いた。
「知られていない?」
「さよう、私も自分で検証したわけではないのですが、雪華粒には土地を肥やす作用があるようなのです」
「土地を‥‥」
「荒廃に抗い、次の世に繋がる力を、その王は願ったのではないでしょうか」
驚いたようにまじまじと自分を見つめる視線を受け止め、遠甫はゆったりと微笑んだ。
「主上にこの話をしたところ、水田の畦などでの耕作ができないか検討したみたいと仰っておられました。台輔が不安になられるのは避けたいからと、先に冢宰と相談するつもりだと仰っていましたが‥‥」
遠甫の言葉に景麒は弾かれたように顔を上げ、彼にしか分からない気の見える方向を確かめた。
「太師、大変失礼ですが」
「どうぞ、お行きなされ」
皆まで聞かず遠甫は笑んで促した。
「はい、ご教示ありがとうございました」
「何、こんな老いぼれでも台輔のお役に立てることがあるとは重畳至極」
改めて礼を述べる景麒を送り出し、無人の室内に戻った遠甫は誰にともなく呟いた。
「さて、台輔にも主上の『ふっとわぁく』の軽さが移ったようじゃの。善哉善哉」
茶杯を自分で片付けながら、遠甫は皿の上に残されていた雪華粒をもう一つまみ口に運んだ。