東の空が漆黒の夜空から薄墨色に移り変わってゆく時刻。ひっそりと静まり返った牀榻で、男は腕の中の紅い花を見つめていた。幼さの残るあどけない寝顔の少女は、深い、穏やかな寝息を立てている。
名残惜しげに身を起こすと、彼の居なくなった右肩に夜明け前のひやりとした空気を感じて、少女は小さく震えた。そっと衾褥を引いて少女のむき出しの肩を覆ってやった男は、惜しげもなく散らされた緋色の髪をそっと白い指で梳る。もつれて指に絡まる髪の一本一本まで全てが愛しいと感じながら、彼女の瞳が朝日を受けて光るのを見たい欲望と戦っていたが、やがて諦めたようにその髪の一房に口づけをして立ち上がった。
低い空に残る明けの明星を遠く眺めながら正寝を後にした彼は、その歩みの一足毎に、昨夜の出来事は夢だったのではないか、先ほどまで腕の中に感じていた少女は朝日と共に掻き消えてしまう幻ではなかったのか、と根拠のない不安に苦しみはじめた。歩みは徐々に遅くなってゆき、内殿へ続く細く長い走廊で、とうとう彼の足は止まってしまった。せめて、翠の瞳が開くまで傍にいればよかったと、沸いてくる後悔を抑えることができない。
――なんという、未練がましさだ。
走廊の磨きぬかれた丹塗りの柱に肩を預け、左手を額に当てると、己の情けなさに嗤いがこみ上げてくる。
東の空はいよいよ赤みを増し、やがて一筋の曙光が彼を照らし始めた。その時、ふと彼の鼻腔は、ほんのりと漂ってくる雅やかな花の香りを捉えた。ゆうるりと走廊の脇に視線を送る。その瞳に僅かにほころびかけている玖瑰(メイクイ)の蕾の紅が映った。芳しい香りを放ち揺れる紅い花弁は愛しい少女の髪の色、そして朝露に濡れる葉の緑は彼女の瞳の色。それは幸福に輝く少女が彼に微笑みかけるように、朝陽を受けきらめいていた。
彼は枝に手を伸ばすとそれを折り取った。チクリ、と棘が彼の指を傷つけ、見る見るうちに紅い血が染み出してくる。――あの方に、この花を、贈ろう―― 少年の頃に抱いたような、密やかな企みが浮かんだ。この指の小さな傷は、あの方にこの花を贈った証。誰かに見咎められるかもしれないが、そんなことは構うものか。
彼は、歩いてきた走廊を急ぎ足で戻っていった。
◇
金波宮の園林は、他国の王宮とは少し違う風情がある。掌客殿や外宮はさほどでもなく、奇岩と樹木による伝統的園林の様式をしているが、王宮の奥に近づくに従って徐々にしかしはっきりと様相が変わってくる。
それは年若くして登極した胎果の少女王の目を楽しませ安らぎを与えるために、ゆったりとした空間の余白を取ったものだった。園芸種の装飾性の高い植物を避けて、季節ごとに咲く個々は素朴で目立たない野の花を、その集合体として調和するように一つ一つ計算して配置し、またそれを常に美しく保つためには、毎日の手入れを怠らず花殻の一つにまで気を配らなければならない。
天官府の下官である壮年の園丁は、今朝も彼の職場である正寝と内殿に挟まれた園林を見回っていた。春の花々は終わりを告げ新緑の木々の葉に玖瑰の紅色が映えるこの季節に、樹木の自然さを損なわない範囲で全体の調和と華やかさを引き出すことは、老練な技術を持つ彼の腕の見せ所だった。今日当たりそろそろ走りの花が咲き始めているはずと、彼は一枝一枝を確認していった。
――おや?この枝に、確か蕾がついていたはずだが。
その年一番の蕾を美しく見せるために、葉の一枚に至るまで計算して整えられた木の、今にも咲かんとしていた蕾が、ない。
「なんてこった」
こめかみに血管を浮き立たせて静かな怒りを放つ園丁は、手で折り取られた無残な枝の跡を、使い込まれた剪定鋏でパチリと落とした。これは一重の優しげな風情の花姿に女王の髪の色と似た鮮やかな紅、他ではなかなか見ることのできない種だった。この玖瑰の苗をどこからか見つけてきて彼に手渡した高位の文官の、心密かな女王への想いを彼はよく分かっていた。
「ふん・・・、良かったな」
そう言い捨てると、彼はまたこれからくる花の盛りの時期の為に、手入れを始めたのだった。