桜舞う
枝揺らす風に 舞う桜
添うは 弥生の蒼天の月
金波宮の春――
広大な園林の一角に、数え切れぬほどの白い花を付けた樹が、優美な姿を見せている。
この樹を初めて見たのはいつだったろうか。
並んで歩く背の高い麒麟の肩越しに、花を見上げて陽子はふと思った。
こうして春になると、花を愛でに訪れるのが、もう長い間の習慣になっている。
空はどこまでも蒼く、陽光は枝々の花を輝くような白に際立たせていた。
その樹は蓬莱の桜を思い出させる枝姿をしていた。
ただ花を見ているだけで、心が沸き立つような、華やいだ気分を感じさせてくれる。
「今年も綺麗に咲いたね」
「……はい。」
寄り添う麒麟は、何年たっても相変わらずの無口で、自ら何かを喋ろうという意識を持っていない様子だが、それでもこうして陽子とともに花を愛でる間は、穏やかでどこか嬉しげな表情をしている。だから陽子も、会話はなくとも満ち足りた気分になれるのだった。
時折、ひらり、ひらりと花びらが蒼天に舞う。
その心に染み入るような蒼空を、景麒は眩しそうに目を細めて見上げた。
――今、お前は何を見ているの。未来? それとも過去――
陽子が戯れに伸ばした手に、一片が舞い降りた。
飛ばさぬようにそっと手を下ろすと、それは昔見た記憶の中の蓬莱の桜のようでもあり、またどこか梅に似ているようでもあった。
じっと見つめる陽子をからかうように、枝を揺らす風が吹き抜けていった。
陽子の手のひらの花びらもまた、風に命を得て空へと舞い上がる。
「この樹は、いつからここで花を咲かせているんだろう」
ふと、呟いた陽子の声に、景麒は遠くを見つめる。
「初めて慶に降りた年には、もう既に今と同じように花を咲かせておりました」
「そうか……」
半身の思いが、過去へ飛ぶのを陽子は感じた。
己の麒麟が自分の決して知ることのできない、もう一人の半身の姿を追っている。
「予王は美しい方だったそうだな」
「……さようでございますね」
『景麒、こちらへいらっしゃい』
ほんのりと微笑みを浮かべた人が手招きをする。
歩み寄り肩を並べると、その人の指差す先には人の背丈よりも高く枝を広げた山桜桃梅(ゆすらうめ)が、蒼空に浮かぶように咲いていた。
『お待ちください。そのように走られては』
長い裳裾をからげて、少女のように嬉しそうな顔で小走りに進む。その人の薄青の髪が陽を受けて翻ると、景麒にはそれが蒼天の色に融けてしまうような気がした。
王宮の外れのこの場所は、庭師からも忘れ去られた場所なのだろう。春の息吹を受けて伸びはじめた草が、足首ほどの丈で柔らかく地面を覆っている。
大またに追う景麒の前で、カクリとその人は躓いて倒れた。すぐに膝を付き助け起こす。
『お怪我はございませんか』
『ええ、大丈夫だと思うわ』
景麒の支え手を頼って立ち上がり、急に顔を顰めた。
『主上?』
『ごめんなさい。やっぱり足を挫いたみたい』
『では正寝に戻り、すぐに瘍医を――』
『いいえ!』
その言葉を、彼女は泣きそうな顔で遮った。
『いいえ、私は花が見たいの。あそこまで連れて行って頂戴』
『ですが――』
弱々しい印象を持つこの女王には不似合いな、きっぱりとした口調に、景麒は気圧された。そして僅かの逡巡の後に、失礼をと彼女の膝裏に腕を差し入れ抱き上げた。
白く垂れ下がる袖と裳裾が、春の微風に翻る。ほっそりとした彼女は、筆よりも重いものを持つことのない景麒の腕にもいかにも軽く、景麒の心には誓約の折の悲しい予感がふと甦った。
山桜桃梅の枝を見上げる場所に立つと、その人は景麒の首に回していた手を外して、花へ向けてそっと伸ばした。しかし花には触れず、ただ愛しげにそれを見つめる。
『懐かしい……』
ひらり、そしてまた、ひらりと、微風に時折花びらが落ちて行く。
『貴方が迎えに来てくれたあの家にも、この花があったの』
目を細めた彼女は、記憶の中の風景に思いを馳せる年老いた老婆のような笑顔を浮かべた。
僅かに潮の香りを含んだ春の暖かい風が吹き抜ける。それは、その場所が雲海の上であることを否応なく思い出させた。
『慶は私の国。でも、故郷は遠い。……たった一年しか経っていないのに』
彼女は、花に伸ばしていた手を再び景麒の首に巻きつけてその肩に額を当てた。
『お願いよ……景麒。私を迎えに来た時のように、この王宮から連れ出して……家に帰りたいの』
『……主上、それはなりません。民をお見捨てになってはいけません』
声を出さずに、ただ肩を震わせて泣いているのが伝わってくる。
しかしその時の景麒には、繰り返しそう言うしだけしかできなかった。
――この方を失いたくない――
それは、慈悲の麒麟の持つ、ただ一つの執着。己が諌めねば、この弱い人はすぐに逝ってしまうだろうと彼は感じる。二つの心の寂しさと悲しみが、どこまでも蒼い空に共鳴していた。
『分かっているわ。ごめんなさい。そんな風に言ってくれるのは、貴方の優しさなのよね』
その人の涙の染み込んだ衣が熱かった。己の執着心を、民への慈悲にすり替えた自分の醜さに、嫌悪を感じながら、景麒は小さくため息を吐く。
『そろそろお戻りくださいますね』
『ええ、そうね。ここを教えてくれた女官にお礼を言わなくては。でも……』
『何か気がかりなことでもございますか?』
『あの女官、最近顔を見ないの。……何故かしらね』
独り言のように呟いた女王の問いかけには応えず、景麒はゆっくりと来た道を引き返していった。
やや強くなってきた風が、はらはらと花びらを散らして行くのを、舒覚は彼女の麒麟の肩越しに、いつまでも見つめていた。
「景麒?」
視線を枝から戻すと、そこには褐色の肌の生き生きとした乙女が彼を見つめていた。官のような質素な衣に、髪は珠金も付けずただ纏めて結い上げただけの彼女は、王宮に居並ぶ美女の誰よりも輝いていた。
「風が出てきた。頭が花びらだらけだよ」
そう言って彼の肩に手を置いて俯かせると、手櫛で彼の鬣を軽く梳きながら絡んだ花びらを一つ一つ除いていく。
「ぼんやりしていたのは、予王のことを思い出していたのか」
ぽつりとそれだけ言った陽子の言葉が、景麒の胸を刺した。
「……申し訳ございません」
「いや……怒っているんじゃないから、謝らなくていい。さあ、これで全部取れた」
乱れた白金の流れを、小さな手が撫で付けながら言った。
「他の誰が忘れてしまっても、お前だけは決して忘れてはいけないよ。お前が選んだ王なんだから。私に遠慮はいらない」
「主上」
「私の知ってる蓬莱の桜はね、ただひたすらに美しい花を咲かせるためだけに存在しているんだ」
呟く陽子の瞳には、僅かな陰りを含んでいた。
花は美しく咲きそして散ってゆく、何も生すことなくただ刹那の美しさのためだけに存在する桜。その記憶の中に咲く花の儚さが、今の彼女には愛(かな)しいものとして映る。
「この花は、散った後に紅くて甘い実を結びます」
「うん、そうだね。そしてまた種を蒔けば、長い時をかけて同じ花が咲く」
「はい……」
白く儚い花びらのように散っていった、彼の最初の王――そして、紅くて瑞々しい心を持った、目の前の少女王。そのどちらもが美しい。
彼はかつて最初の王にしたように、陽子の膝裏に腕を入れるとふわりと抱き上げた。
「おい、何をするんだっ。こら!」
「お静かになさい」
この麒麟には、妙に強引なところがある。彼との出会いの場面を思い出して、陽子はくすりと笑った。笑い声は最初は静かに、そして徐々に大きくなり、いつか無愛想な麒麟もそっとその頬を緩めていた。
蒼天には、白く薄っすらとした真昼の月が、二人に微笑むように静かに見下ろしている。
散りゆく桜あり、花開く桜あり
悔いているのは助けられなかったことではなく、ともに苦しむ道を選べなかったこと。
この王とともに歩む行末は何処へ――
この王とともに、今を歩む。