四月に入ると、春先の穏やかな風に運ばれて、白い羽毛のようなものが尭天の街を漂い始める。
柳絮、と呼ばれる春の風物詩。
白い綿毛に包まれた柳の種子が漂う光景を目にすると、人々は春の到来を実感するのだという。
王宮の庭にも、清流や池など水のある場所に沿って、多くの柳の木が植えられていた。
風に吹き寄せられた柳絮は、回廊や庭院の隅で綿埃のように丸まる。
喉や目に入って仕方ないとこぼしながら、それでもどこか嬉しげな女官たちがそれを掃き寄せる姿が、この季節、王宮のいたるところで見られた。
Eden
―― every spring around us ――
外殿からさらに南へ降りていくと、敷石で隙間なく覆われた広場に出る。観兵式などの行事の際に使われるこの場所は、普段は禁軍の練兵や模範試合に使われていた。
いつもなら近づくことさえないその一隅を、景麒は足早に横切り、石段を下っていく。そろそろ立夏を迎えようとする春の午後、広場には他に人影もない。
静まり返った広場を抜け、照壁の下を流れる小川のほとりに、ひときわ大きな柳の木があった。
小川の斜面を下りながら、いつになく静かな王気を柳の方角に確かめて、景麒はかすかに顔をしかめる。――やはり。
ごくわずかではあるが、それは紛れもなく血の匂いだった。
柳のほとりへ近づいていくと、幾重にも垂れ下がった枝を透かして、赤い髪が揺れた。
「傍に来ないほうがいい。剣の稽古で、少し怪我をしたから」
細い緑をかき分けて顔を覗かせた陽子は軽く片手を挙げて、近づこうとする彼を止める。
景麒は構わず二、三歩歩み寄り、主の肩の辺りを見上げた。
「それで少し、と仰るか。浅くはないとお見受けしますが」
「どうせ死にはしない。いざとなれば碧双珠もあることだし」
気にも止めずに笑う主を見て、景麒はため息をつく。
最近の主は、午後の政務を済ませた後、将軍や大僕を相手に剣術の訓練をするのを日課としていた。絶対に手加減をするな、と厳しく言い渡されているから、桓魍も虎嘯も容赦はしない。
主を剣に向かわせる理由がどこにあるのか、景麒にも察しは着いていた。――昨年の冬、天官を中心とする謀反が起こって以来のことだ。
あのとき、陽子の口から反逆者を咎める言葉はついに出なかった。
「剣技ならば使令をおつけになれば済むことです。何故冗祐をお使いにならない」
責めるような口調になるまいと精一杯気を遣いつつ、それでも抗議せずにはいられない。そんな麒麟を見下ろして、陽子は肩をすくめた。
「いつまでも誰かに頼るのは嫌だから、だよ。ついでに言えば、宝重を使うのも気が進まないんだ。だから自分が強くなるしかない」
「宝重は王のものです。お使いになるのに何の不都合もない。身を守る範囲を越えて剣技に没頭されることには、賛成いたしかねます」
あくまで固い口調に、陽子は少し困ったように笑った。
「……剣を振るえと最初にわたしに教えたのは、景麒、おまえなのに」
先に仕えていた主に、剣を手にしてほしいと何度も奏上したのは彼自身だった。
この剣は、国を治める王のものだ。その王自身が宝重を疎み、手に取ることさえしないままでは、民にも官にも示しがつかないのだと。
厭わしげに、そして哀しそうに顔を背けた先王の姿に覚えたのとは別の痛みが、景麒の胸をよぎった。――進んで剣を手にする二度目の主は、こんな風に自らを傷つけてさえ恬淡としている。気遣うことではありこそすれ、それは麒麟にとって憂いであるはずがないのに。
頭上では、柳の枝が風に揺れていた。その中でそよぐ髪の赤が、ひときわ目にあざやかだった。
――あなたは時折、胸の凍えるような思いを、わたしにさせる……。
沈黙の中で、風と主の気配に耳を澄ませる自分を疎ましく思いながら、彼はその場に立ち尽くす。
やがて柔らかな声が呟くのを、彼は聞いた。――柳絮って云うんだってね、これ。
「今年でもう三度目になるのに、まだ飽きない。そのうち厄介さが分かって、そう風流な気分でもいられなくなるってみんなは笑うんだけど」
「……美しいものだとは、思いますが」
「女官たちはそうこぼしているよ。喉に入ると咳込むし、髪や袍に張りつくとなかなか取れないからね」
そう言って笑う陽子自身の髪にも、霞のような柳の包種が纏わりついていた。
それが手をのばして届く距離にはないことを、景麒も知っている。
「この間、同じように怪我をしたとき、瘍医が柳皮を煎じたものを飲ませてくれた。――消炎と鎮痛作用があると言っていたから、こうやって柳の下にいれば、傷の治りも早くなるかも知れないと思って」
剣を振るい、人を斬る同じ手が、泣きたいほどの優しさで柳の青葉を撫でるのを景麒は見上げる。
降り注ぐしなやかな新緑の向こうで、空はどこまでも青く柔らかだった。
「――皆も心配いたしましょう。どうかお戻り下さい」
ようやくそれだけを口にすると、陽子は意外な素直さで頷き、枝に手を突いて身を乗り出した。
互いに向かって反射的にさしのべかけた手を、先に引いたのがどちらだったのかは分からない。
一瞬の沈黙の後、陽子はかすかに笑い、再び柳の幹に凭れて彼を見下ろした。
「先に帰ってくれていいよ。――わたしはもう少しここにいるから」
春の陽射しには独特の、透明な物哀しさがつきまとう。
さなかにあっては疎ましくさえ思えるそれが、懐かしく感じられるようになるのは、長い時間が経ってからのことだ。
形だけの礼をひとつ取ると、景麒はゆっくりと柳の木に背を向けて、来た道を辿り始める。
小川の縁には、行き場を失った柳絮が小さな塊となって漂っていた。
◆ ◆ ◆
――同じような春の午後だった。
広げていた書状に影が射し、景麒は顔を上げる。
ゆるやかな弧を描いて垂れ下がる柳の枝が、風に寄せられて、すぐ目の前でさらさらと揺れていた。その若葉を手にとって引くと、柳はしんなりと撓んで彼の膝へと届く。
手を放すと枝は跳ね返り、覆い被さるような緑が頭上でざわめいた。
「――止めてくれ。種が飛ぶ」
白い綿毛とともに、眠そうな声が降ってくる。
立ち上がった景麒が枝をかき分けると、斜めに生えた太い枝を抱くようにしながら、陽子はうっすらと目を開いた。
「……お目覚めですか」
よくそんなところで眠れるものだ、と彼は呆れる。
柳絮の季節も、もうすぐ終わろうとしていた。
「こんなところまでわざわざ、昼寝の邪魔をしに来てくれたわけ?」
「……本来なら半刻ほど前に、夏至の祭礼の打ち合わせが始まっているはずなのですが」
瞬いた新緑の瞳が彼の上に止まり、陽子は慌てたように身体を起こした。
「悪い。忘れてた」
天気が良かったものだから、つい……と、済まなそうな顔をした主を見上げて、景麒は手をさし出す。
「打ち合わせは改めて夕刻に延期しました。――まずはそこからお降り下さいますよう」
相変わらず立ち居振舞いには細かい麒麟を見下ろして、はいはい、と陽子はため息をつく。
身体を起こそうと幹についたその手が偶然を装ったように滑り、次の瞬間、主の身体はふわりと傾いて柳の木を離れた。
それよりわずかに早く、ニ、三歩進み出た景麒は、慌てる素振りも見せずに手をさし出す。赤い髪が柔らかな弧を描き、主の身体はすんなりと彼の腕に収まった。
抱えられたまま彼を見上げて、驚いたように何度か瞬きした後、陽子はきまり悪げに呟く。
「……ごめん。試したんだ、今のは」
「存じておりましたが?」
落ち着き払って答えると、主は返す言葉に詰まったようだった。
眠っている間についたらしい木の幹の模様が、その頬にうっすらと残っているのを見止めて、景麒は思わず微笑する。
新しい王を戴いたばかりの頃、景麒にとっての節目は最初の六年だった。――彼が最初の主を失った年。
その六年が過ぎ、さらにもう六年が経ち、それを何度も繰り返すうちに、いつからか彼はその単位で物事を計ることを止めていった。
過ぎていく柳絮の季節を、こうして穏やかに見守るようになってから、もう長い年月が経つ。今でも剣を手離さない主もまた、無益に自分を傷つけるような真似はしなくなって久しい。
「――予定を忘れていたのは悪かった。だから、そろそろ降ろしてほしいんだけど」
控えめな抗議の声に、景麒は主の身体を注意深く地面に降ろした。
足をついた陽子は顔をしかめ、彼の腕を掴んだままじっとしている。不自然な格好で木の上にいたせいで、足が痺れているようだった。
その腕を支えるのは彼の役目だ。つかのまの休息の後、彼女が世界と自分に対する平衡感覚を取り戻すまで。
さし交わした互いの腕の中、その小さな空間に景麒は楽園を見出す。
一対の人間から形成される、最小単位のエデンを。
どんなに年月を重ねても、同じ春はひとつもなかった。
すべての一日が異なるように、目の前の主もまた昨日と同じではない。
それを思うとき、永遠がただ時間の積み重ねだけを意味するのではないことを、歩んできた長い道のりを振り返って彼は感じる。
あるいは永遠とは、生の中の一瞬の手触りを記憶し続ける、心の働きそのものなのではないかと。
遠い記憶の中に、今でもあの柳の庭の午後はある。
同じように柔らかな緑の中、まだ互いに手をさしのべることができなかった自分たちの姿――あれもまた、春のことだったのだと。