その舎館は、拓峰で最も大きな広途に面していた。
趨虞を預けられるほどの厩舎を備えた舎館は、決して安価ではなかったが、街道を行く隊商や旅人も増えた今では、安全と引き換えにしっかりした宿を選ぶ者も少なくない。今夜も多くの客で賑わう舎館の花垂門は、華やかな灯りに彩られ、遠くからでも人目を惹いた。
裏の厩舎に回って騎獣を預けると、陽子は主楼の框窓に向かう。
大扉を押して下堂に入ると、奥の方から聞き慣れた――けれどここで耳にするはずのない声が聞こえた。
「――では、やはりこちらに?」
「ああ。あの大きな剣を背負った坊やだろう? なりは質素だが、えらく立派な騎獣を連れた」
陽子は弾かれたように柱の蔭へと身を隠す。
おそるおそる覗いてみると、髪布を巻いた背の高い青年が、収款台を挟んで宿の主と言葉を交わしているところだった。
幾分質素ではあるが、見るからに貴人然とした端整な後ろ姿。陽子は思わず目を閉じる。――間違いない。
「……あれでも一応、女性でいらっしゃる」
ため息混じりの声に続き、宿の主の大笑いが響いた。
「それは気づかなかった。だとしたら別嬪だが、随分と凛々しいお嬢さんだな」
「――こちらもそれで頭を痛めている」
失礼な。口の中でそう呟いた陽子は、続く言葉を耳にして大きく目を見開いた。
「では、お戻りになったら伝えてほしい。下僕が来た、と聞けばお分かりになるはずだ」
「下僕?」
素っ頓狂な声を上げた男に、青年は重々しく頷く。
「そう。わたしは文字通り、あの方の下僕なので」
「――ちょっと待て!」
たまりかねて声を上げ、口元を抑えたときには遅かった。
数呼吸の後、視線だけを上に向けると、そこにはやはり景麒が立ち、落ち着き払った表情でこちらを見下ろしていた。
下僕という言葉が連想させるものを、今ではしっかり承知しているらしい半身を見上げ、陽子は小さく唸る。王がすぐ傍にいて、麒麟が気づかないはずがなかった。
「――気づいていたくせに」
「それがわたしのささやかな特権です」
「……すぐに戻ると言い残しておいたのに」
「さあ、どうでしょう。最近は脱走のお供にもお声がかからなくなったと、班渠が嘆いておりましたが」
それがあんたの下僕かい、と収款台から声がかかる。にやりと笑った顔がどこか虎嘯に似ていなくもない男の脇から、宿の客が二、三人、面白そうにこちらを窺っていた。
「いや、それは言葉の綾と云うか……」
口ごもる陽子を見やり、宿の主は磊落に笑った。――まあ、何にしてもよかったな。無事に落ち合えて。
「――で、房間はどうする」
城門はとっくに閉まっている時刻だが、と宿の主は畳み掛ける。景麒は何も云わず、客たちもさりげなく聞き耳を立てている。
期待に満ちた沈黙の中、陽子はしばし無言で佇み、それから俯き加減に口を開いた。
「……一緒でいい」
その瞬間、隣に立った景麒は笑いを堪えるように顔を背け、承知した、と大笑いする宿の主から鍵を奪い取ると、陽子は彼の袖を引いて逃げるようにその場を後にしたのだった。
連れが願掛けをしているから殺生はできないのだとまことしやかな嘘を並べ、房間まで運んでもらった素食の夕餉を終えると、皿を下げに来た宿の者は訳知り顔できっちりと堂扉を閉めていった。――こんなところまで、あのときと同じだ。
窓際に腰かけて、陽子はやや獰猛に梨に齧りつく。
小刀ならここにございますが、という声の主を軽く睨むと、景麒はやはり澄ました顔で茶器を口に運んでいた。
窓の外には、夜半にも灯りの絶えない街並みが広がっている。広がる一方の活気に整備が追いつかない、と云った趣はあるものの、その荒削りな勢いの良さが却って好ましい。
ここ拓峰は、とりわけ王に縁の深い土地として知られていた。
即位したばかりの現王が身分を隠して義賊に参加し、当時街を支配していた酷吏を討って民を苦難のどん底から救ったという逸話は、慶の民なら誰もが知っている。
その後、深く感謝した拓峰の人々は、特に願い出て王の象徴である赤を使うことを許された。以来数十年、今では街の主だった建物はほとんどが赤――さすがに憚られるのか、あざやかな紅というよりも朱色や臙脂が多かったが――で彩られている。
街の城壁も一面赭土で塗られていることから、台輔の直轄地である黄領に対して、現在の拓峰は別名を赤領とも呼ばれている。
「――今日は一日、何をしておいででした」
静かな声で訊かれ、陽子はゆっくりと窓枠に背中を預けた。
「朝いちばんに固継まで行って来た。墓参りに行ったんだ――蘭玉の」
州境を挟んで拓峰からは目と鼻の先、固継の里の片隅に、その小さな墓はあった。――もう随分昔、ともに里家で暮らした優しい娘。
彼女の弟は、今では官の一人として赤楽朝を支えてくれている。
さようですか、と景麒は答え、主の視線を追って夜の窓を見やった。こういうとき、彼は余計な言葉を一切口にしない。それは何年たっても変わらない、この半身の性癖のひとつだった。
「――そういえば、おかしなことがあってね」
感傷を振り払うように明るく口を開くと、景麒は首を傾げ、それで、と促すように陽子を見た。
「固継から拓峰に戻る途中、趨虞を休ませようと思って、里の水場に立ち寄ったんだ。――そこに母親と水を汲みに来ていた小さな女の子がいてね。まだ七、八歳くらいかな。赤い髪が珍しくて、名前を聞いてみた」
陽子はくすりと笑う。
「……陽子、だって」
――王の御名を字に戴いたんです。もったいないことですけれど。
若い母親は眩しそうに笑った。
――ご覧の通りの綺麗な髪ですから。王にあやかって自らを助け、他を助ける人間になるように、と。
利発そうな目をした娘の赤い髪を撫で、母親は遠く尭天を臨むように南の空を見やった。年の頃は三十になるかならないか。――だとしたらこの母親は、ちょうど自分が登極したばかりの頃に生まれたことになる。
どこか胸の詰まるような思いで、陽子はその母娘を見つめた。あれほどの荒廃のさなかにあっても、里木に帯を結び、子を願った親たちがいたのだ。
そして今はその子供たちが同じように親となり、自分の子を育てる年齢になっている。
「そう考えたら、なんて云うのかな……もう言葉が見つからなくなってしまって」
小さくそう呟くと、陽子は窓枠の上で膝を引き寄せる。
長くも短くも感じられるこの数十年――失われたものがあり、そして新たに育っていくものがある。そうした何かに触れるたびに覚える感情は、一言で表現できるようなものではない。去っていったものを悼む心も真実なら、その上に築かれていくものを目にする喜びもいっそう深かった。
いつのまにか傍らに立っていた景麒が、静かに髪に触れるのが分かった。――陽子がその幸福を願い、同じ名前を持つ少女にしてやったように。
「ですから一人ではお出かけにならないようにと、日頃から申し上げているのです」
やや訝しげな色を浮かべる緑の瞳を見下ろして、景麒は続けた。
「そうした貴重な瞬間を独り占めなさるのはずるいと――できることならお傍にいて、わたしもその親子を見たかったと……そう申し上げているのです」
室内の灯りを背に、その口元はかすかな微笑を湛えていた。
目を瞠った陽子は、やがて小さく笑い、降参したように彼の手へと頭を預ける。――本当に、そうだったね……。
「景麒は、今日は何をしていたの」
「休日の前ですから、急ぎの政務はもう何も。――その後でこちらへ来る途中、幾つもの里で刈り入れが行われているのを目にしました」
広い丘陵が稲穂色に染まり、立ち働く人々の姿が点在する光景。
本当に見事な眺めだったと呟く声を聞きながら、陽子も心の中でその風景を思い浮かべる。――彼の言葉が描いてくれた豊かな眺めは、あの小さな墓碑と穏やかな母娘の姿を包み込み、やがて金色の秋となってこの国の隅々にまで広がっていく。
――そう云えば、これをお渡ししなくては。
低い声に目を開くと、さし出された景麒の手には小さな包みが乗せられていた。
「楽俊殿からの便りだそうです」
陽子は思わず身体を起こす。
「今朝方、祥瓊から預かりました。……きっと早くお読みになりたいだろうと」
――だからおまえは、わざわざここまで……。
そう言いかけるのを軽く遮って、景麒も窓枠に腰かける。
そうして向かい合ったまま、膝の間に陽子を引き寄せると、景麒は髪布を取りながらその背中に腕を回した。
「もし差し支えなければ……わたしにも便りをお聞かせ願えますか」
こんな姿勢では髪がくすぐったくてうまく読めないよ、と笑う陽子を腕に抱いて、こうした方が良く聞こえるので、と悪びれもせず景麒が囁く。
軽やかな戯れめいた抱擁はそのままに、金髪の背中越しに腕をのばすと、陽子は古い友人からの手紙を広げた。その身体に腕を回したまま、景麒は赤い髪に顔を寄せるようにして主の声を待っている。
――懐かしい筆跡で綴られた便り。
多少賑やかでもかまわないから、と頼んで取った眺めのいい部屋からは、ようやく静かになり始めた夜の街が見渡せる。
――楽俊も元気にしているみたいだよ。祥瓊や皆に変わりはないかって。
――さようですか。
――ずっと探していた本が最近手に入ったらしい。相変わらず勉強熱心だな。……ああ、台輔にもくれぐれもよろしくと書いてある。
――では、わたしからもそのようにお伝えを。
――それから……巧でもそろそろ収穫が終わる頃だって。今年はあちらも豊作みたいだ。
――それは、本当によかった……。