休日前の政務は通常より多いが、いつも速攻で片付いていく。こんな時、我ながら現金なものだと陽子は苦笑する。
この日もそんな休日前の夜だった。
やっと片付けた書類の山を見て、陽子はふうっと息を吐く。両手を挙げ思いっきり伸びをした。
「それにしても、多過ぎやしないか?」
ふと疑問を感じて見直すと、瑛州と秋官に関する書類が大量に含まれているのが分かる。つい先程までは明日のことばかり頭にあって、迂闊にも気付かなかった。
これは宰輔の裁可でも十分だし、こっちは大司寇の裁可で可能なはずだろう。いつもはそうしている癖に、いったい何を考えているんだ……あいつ等。
思わず腕を組んだ陽子は、数瞬後吹き出した。何と子供っぽいことをしてくれるのだ。普段はあれほど優秀で自慢の頭脳集団が、こんな時に垣間見せるその落差が可笑しくてならない。赤楽初期の昔ならともかく今日の陽子にとっては、こんな事も可愛い所作に過ぎないのに。
臥室に戻ると早速陽子は衣装箱を開けた。二組の衣類を出し姿見の前で当ててみる。
「どっちにしようかな」
口にして、慌てて頭を振る。どっちが喜ぶかな、だよね。誰もいないことは分かっていたが、思わずいない筈の者に同意を求めてしまう。ちょっと恥ずかしくなって肩を竦めた。今からなんかドキドキしてきた。遠足の前夜みたいだ……。
二組の衣類は長袍だった。いつも陽子が市井に降りる際は袍子が多い。しかし、その姿では騎獣に乗るのは憚れる。貧しい身なりで騎獣に乗っていれば、盗賊にしか見えないだろう。無用の騒ぎを引き起こしかねないのである。それを見かねてか、良家の子息風に見える長袍を贈られたのだ。
それは二ヶ月ほど前、三月十四日の夜だった。陽子が禁軍の若い兵士と汗を流した後、臥室に戻ると方卓の上に見慣れない包みがある。おやっと思い包みを開くと、文が入っていた。見慣れた文字が飛び込んでくる。
『新緑の風が心地よい頃、一日、主上のご希望の場所に案内したいと願うものです』
ドキリとして思わず文の下を見た。そこにあったのは長袍が二組。一組目は芥子色を主体にした瑞々しい若木を思わせ、身体に当てて姿見を覗くと凛々しい青年がそこに現れた。
「うん、悪くない。いや、素敵だ……」
陽子は眼を細める。
二組目は淡く明るい色が沢山使われ、花の意匠模様が施されている。沢山の色遣いであっても色調が統一され、華やかな雰囲気と柔らかく暖かい女性らしさが感じられた。
二組とも王でなければ纏えない生地を使っていた。しかし、決してそう見えない工夫がされている。さらに、外観からは分からないように隠しながら、物入れ袋があちこちに付けられ機能的になっていたのだ。こういう細かい心遣いが、陽子は嬉しかった。そして、それが出来るただ一人の者が愛おしくてならなかった。
「浩瀚、これって、デートのお誘いだよね」
そっと文に口付けをして訊いてみる。墨の匂いが仄かに漂ってくる。トクンと脈打つのが聞こえた。
翌朝、未だ早い時間だったが、祥瓊と鈴は「おはよう」と一声掛けて顔を出した。
「やあ、おはよう。祥瓊に鈴」
心なしか弱々しい声に、鈴が吃驚して陽子を見詰める。
「どうしたのその顔」
祥瓊もしたり顔して頷いた。
「腫れぼったい目をして、ちゃんと寝たの」
「寝るに寝たんだけど……。いや、横になっただけで微睡んだだけだった……」
「眠れないほど嬉しかったのね。浩瀚様とのお出かけが」
「祥瓊、茶化すのは止めてくれ」
朱を上らせて睨む陽子に、鈴は吹き出した。
「まあ、陽子ったら。少しは可愛いところが残っていたのね」
「そうね、すっかり女の子だってこと忘れていると思っていたわ」
なんだかんだと言いながら、友人達の行動は素早かった。鈴が冷たい手巾で陽子の目の周りを冷やす。そこへ碧双珠を当てると面白いように腫れが引いていく。祥瓊は陽子に薄化粧を施した。陽子は華やかな雰囲気の長袍を纏い、頭は幅広の飾り紐で一つに括った。
姿見の前に立つ。友人二人が口々に褒めてくれる。陽子自身も花模様の長袍が気に入った。自身でもよく似合うと思うし、第一、想い人をこんなに間近に感じることが出来る。陽子は嬉しくて溢れそうになる笑みを慌てて隠した。友人二人の眼がもの言いたげに光っていたのだ。揶われる前に陽子は堂屋を飛び出した。
禁門には既に浩瀚が待っていた。吉量が二頭用意されている。
「待たせたな」
多少のはにかみを必死の思いで隠して、陽子は浩瀚を見る。
「私も今来たところでございますから」
ふと傍らの兵士を見ると呆気に取られている。どうやら大分待っていたに違いない。そんなことおくびにも出さず目を細め微笑んでいる浩瀚に、思わず陽子は「好き」と口走りそうになり嚥下した。
陽子の思惑がばれたらしく、浩瀚はくつりと笑う。
「よくお似合いですね。祥瓊のお見立てですか」
「いや。素敵な人から贈られたんだ」
頬を染めながら陽子は嘯いて見せた。
「趣味の良い方で宜しゅうございましたね」
尚もくつくつ笑う浩瀚に、陽子は一睨みし、
「何時までも揶うな。さっさと行くぞ」
ひらりと吉量に乗り込み飛び出してしまった。
慌てて浩瀚も後を追う。
空中で陽子の吉量に追いついた。
「失言の数々、申し訳ございません」
「ふん、浩瀚は口は上手いし、意地悪だからな」
ぷいっと陽子は横を向く。
「主上、機嫌を直してくださいませんか。私も今日を楽しみにしておりましたゆえ」
陽子は振り返った。眼が悪戯っぽく光る。
「ならば、来月も一緒に出かけること。ならば許すとしよう」
「主上、それは脅迫というものでございますよ」
「あ、それ、それ。今日一日私のことを主上と呼ばないこと」
だって、デートなんだもの。陽子はチラッと横目で浩瀚を窺う。
「分かりました。仰せの通り致しましょう」
穏やかに微笑む浩瀚に、些か陽子は拍子抜けする。
「いいのか……。そんな我が儘聞いても」
にっこり頷く浩瀚に、陽子の脳裏には疑問符が膨らむ。
「もしかして、後でたっぷりお説教が待っているんじゃないだろうな……」
終に、浩瀚は吹き出した。
──貴女の滅多にない我が儘。しかもこんなにも私に甘えて。この幸福感はきっと貴女には分からないでしょうね、私の陽子様。
その我が儘は景麒にも楽俊にも示されることがないだろう。そのことが浩瀚を喜ばせていることに陽子は気付かなかった。
新緑の風に乗って空を疾走するのは心が弾んだ。しかも、愛しい人が側にいる。目が合うと、相乗りでなくて良かったと思えるほど胸の鼓動は高鳴った。
そして、来月も一緒に出かけられると思うと、嬉しさで心がはち切れそうになっていく。
「陽子様、その長袍本当にお似合いですよ」
ギロリと陽子が睨もうが、浩瀚は続ける。
「揶っているのではありませんよ。本当に愛らしい」
──贈ったものにその身を包まれて、喜ばない男はいませんよ。
「本当に、そう思うか」
「はい」
「だったら嬉しい。私もこの長袍が気に入っているから」
疾走する二頭の吉量に潮風が吹き付ける。
「見えてきましたね。あれが麦州一の港です」
キラキラと雲海とは違う、海波の彩なす光の乱舞が飛び込んできた。
「あれが麦州……」