慶国の北部、雁との高岫(こっきょう)に程近い場所に、ひとつの凌雲山がある。百年ほど前までは、とある飛仙がここに洞府を構えていたと言うが、今では住む者も無く、以来忘れ置かれたような禁苑だった。
雨さえ降らぬ雲海の上にあって一体どこから湧くものか、山頂には碧く澄んだ水をとうとうと湛えた湖がある。その湖からは一筋の清流が苔むした岩肌を梳るように流れ出ていた。この清流は、ひたすらに辿って行けば大小幾つもの滝を経てやがては下界にまで流れ行く。にも拘わらず、湖の水が干上がりもしないのは、いかなる不思議の為せる技か。
湖の周囲には、多種多様な木々の茂った枝葉が幾重にも影を落とし、射るような夏の陽射しを遮っている。地にも緑、よく見ればそこここに奥ゆかしくも可憐な花々が咲き乱れ、梢の先を飛び交う小鳥が軽快な声で歌っている。風光明媚なその様はさながら楽園のごとき美しさ。
禁苑とは即ち王の庭である。であるならば、今、見事な脚線美を惜し気も無く晒して涼やかな水の流れに足を浸す少女は、紛うこと無きこの楽園の主であろう。例えこの少女が、ほんの数日前に初めてここを訪れたに過ぎないとしても。そしてそれまでは、この場所の存在すら知らなかったとしても。
「いい所だなぁ‥‥‥」
楽園の主――陽子は、うっとりとした口調で呟く。
百年打ち捨てられた庭は半ば自然に還っていた。だがそれが、陽子の目には甚く美しく映る。人工的に計算され整えられた庭はどこか無機質で息苦しい。端整に刈り込まれた庭木が決まり事通りに配置された園林よりも、蔦が絡み下草が生い茂る雑然とした森の方が、陽子にとってはよほど魅力的だった。
陽子は、数日前から避暑と称してここに滞在している。湖の畔に宮殿と呼ぶには憚るほどのこじんまりとした屋敷があり、時折手入れだけはされていたものの長く人の住まなかった為に荒れていたその屋敷を、女王の逗留先として急ぎ整えた。
避暑を兼ねた休暇を―――。これが、陽子が礼典での『女装』の代償に求めた条件だった。
「一泊二日でもいい。どこか涼しくて景色の良い所に一緒に行きたい」
陽子は当初そう求めた。だが浩瀚は、それでは却ってお疲れになって休暇にならないでしょう、と言って十日ほどの滞在を勧めた。
「私が留守をお守りしますので、主上はどうぞごゆっくり休暇を楽しんでいらっしゃいませ」
そう言った浩瀚を、陽子は膨れ面でねめつけた。
「一緒に行きたい、って言ったのに」
「残念ですが、私だけでも残らねば政が滞ります。いいえ、それでもやはり、主上がおられないと困ることもあるでしょう」
「だから、一泊でもと―――」
言いかけた陽子の言葉を遮るように、浩瀚は言ったのだ。
「どうしても主上の御判断を仰がねばならぬ事があれば、その時は、私が主上の許へ馳せ参じます」
―――そして今の状況がある。
「この場所は、お気に召していただけたようですね」
岩に腰を降ろし着物の裾を捲り上げて流れる水を蹴る陽子の傍らに立ち、浩瀚は優しく微笑み掛ける。それに陽子は実に活き活きとした笑顔で答える。
「うん。とても気に入った。すっかり寛いで、心身共に生き返った気がする」
「これは、つれないことを仰せになられます。主上の御尊顔を拝することも適わぬこの数日、私はどれほど寂しく辛く切ない思いを耐えてきたことでしょう。なのに主上は、私の目の届かぬ所で羽を伸ばして、随分と伸び伸びと楽しんでおられた御様子。一日も離れ難く恋い焦がれるのは己のみかと思えば、些か哀しゅうございます」
わざとらしく顔を曇らせて言う浩瀚に、陽子はくすくすと笑う。
「お前が来るのを心待ちにしていたよ」
「そのお言葉に偽りはございませんね?」
「もちろん」
「それをお伺いして安心いたしました」
ふっと一瞬微笑んで、浩瀚は声の調子を変えた。
「せっかくの休暇中にこのような場所にまで政務を持ち込んだ私を、主上はさぞ御不快に思われてお厭いになられるのでは、と不安に思っておりました」
「‥‥‥本当に仕事を持って来たのか」
片眉を僅かに上げてちらりと見上げると、浩瀚は涼しげな顔で答えた。
「当然です。小手先の方便で誤魔化せるほど、主上の臣は甘くはございませんよ。―――火急に主上の裁可を要し、なんとしても私が直接奏上申し上げるべき極めて重要な案件が、昨日上がって参りました。主上のお帰りをお待ちしていては重大な損害を招きかねない由々しき事態ですので、こうして罷り越した次第です」
そう言う浩瀚の声は隙の無い冢宰のもので、陽子はそれが本当に重要な案件であるのだと悟った。
「よく、そんなに都合の良い案件が都合の良い時期に出て来たものだな?」
問いながら、陽子は解っていた。もちろんそれは偶然などではないのだと。
「ほんの少し、情報が流れる速度と対応に掛かる時間を調節しただけでございますよ」
さらりと言って、浩瀚は陽子に向って片手を差し出す。立ち上がるように促すその手に掴まり、陽子は清流から足を引き上げ、軽やかな動きで座していた岩の上に立った。
「失礼を‥‥‥」
浩瀚はその場に片膝を付き、上衣の袖を捲り柔らかな小杉の袖を引き出し、陽子の濡れた足を拭く。陽子は頬を朱に染めながらも、浩瀚の肩に手を置いておとなしくされるままにしていた。水滴を丁寧に拭い、沓を履かせ、裾を整えてから、立ち上がって再び手を延べる。元来身軽な陽子には、ほんの膝ほどの高さの岩から降りる為の支えなど必要ないが、素直に浩瀚の手を取った。
周囲を伺っても気配すら感じさせないが、必ずどこかで護衛の兵士が見ていることを陽子は知っていた。それを思えば不用意に触れ合うような真似はできないが、それでも陽子は浩瀚の温もりを感じたかった。
ゆっくりと岩から降り足下を確かめ、用を終えた手を放す間際、陽子は知らずその手をぎゅっと握り締めた。名残惜しげに離れる小さな手を見送り、浩瀚は空になった自身の手をきつく握る。愛しい者を追い求めるのを堪えるように。
「―――それでは、主上。休暇をお楽しみのところ申し訳ありませんが、ひとまず屋敷にお戻りください。目を通していただきたい書類を整えてございます」
「ああ。分った」
陽子は湖畔の屋敷に向って歩き出す。並んで歩くことはしない。浩瀚は必ず、陽子の数歩後ろを歩く。それを寂しいと思わないでもない。だが、振り返らずとも常にそこに大きく温かな存在があると思えば、陽子は安心して前だけを向いて進んで行くことができる気がしていた。
その日、持ち込んだ火急の案件について女王に奏上し裁可を受け、特別に招かれて夕食の席を共にし、人目のある中での公的なものとは言え、ひとしきり女王との時間を楽しみ、浩瀚はその夜滞在する為にあてがわれた部屋に下がっていた。
ふと、窓の外に何者かの気配を感じて、浩瀚は反射的に身構えた。懐に護身用の短刀があるのを確認して、じりと窓辺に寄る。だが、こつこつと玻璃を叩く音に続いて聞こえた密やかな声にすぐに緊張を解いて、そっと窓を開けると、そこにあるものを見て深く息を吐いた。
「‥‥‥主上」
宙に浮く使令に跨がり、二階の窓から顔を覗かせる女王。
「御苦労、班渠。景麒には内緒だよ」
班渠の背から軽々と窓枠に乗り移り、足を外に垂らす姿勢で腰掛けて、陽子は班渠に悪戯っぽく笑って言う。御意、と低く呟いて班渠が姿を消すと、上半身を廻らせて浩瀚を見た。
「怖い貌だな、ジュリエット」
「‥‥‥はい?」
眉をひそめる浩瀚に、陽子はくすくすと笑う。
「蓬莱の‥‥正確には蓬莱の外の国の物語に出て来る女の子の名前だよ。ロミオって名の祝福されない恋人がいてね。こうして窓から忍んで来るんだ」
「それでは立場が逆なのでは」
「だって、お前は絶対にこんな行儀の悪いことはしないだろう」
だから私が来たんだ、と言って陽子は笑う。
「私の部屋の前にも、お前の部屋の前にも、見張りが張り付いているんだもの。見付からないように来るには、こうでもするしかないじゃないか」
「見張りではなく護衛でございますが」
「同じようなものだ」
浩瀚は女王の行動に驚き呆れながらも、知らず頬が緩むのを感じた。
例え陽子が堂々と扉から出てここへ来たとしても、またその逆であったとしても、彼らはそれを咎めることも、また吹聴するような真似も決してしないだろう。そういう者だけを厳選して随従に付けたのだから。
実際、浩瀚はもう少し夜が耽ればひっそりと女王の部屋を訪なうつもりでいた。だが、思いがけず女王の積極的な訪問を受けた。人に見咎められるのを厭いはしても、こうまでして来てくれた陽子の気持ちを思えばひどく心が高揚した。
「―――ともかく、どうぞお入りください」
浩瀚は陽子に手を差し出して部屋の中へ招く。だが、陽子はその手を取ることはせずに、足をぷらぷらと揺すりながら空へと視線を向ける。
「ここでいい。風が気持ち良いし、月がとても綺麗だよ」
「そのような場所に腰掛けておられては、危のうございます」
「平気だって」
まったく聞く気はなさそうな陽子に、浩瀚はそっと苦笑する。失礼、と断って陽子の隣に腰掛けた。ただし、陽子とは逆に部屋の中に足を降ろした状態で。そして陽子の腰に腕を回し支えるように抱きかかえると、陽子はことりと浩瀚の胸に頭を預けた。
「―――木々の梢を白銀に染める、あの月にかけて私の愛を誓おう‥‥‥だったかな」
多少訝しげに、だが、ただ黙って陽子の顔を見る浩瀚に、くすりと笑う。
「ロミオの台詞。そしたらジュリエットはこう言うんだ。―――夜毎その姿を変える不実な月などに、貴方の愛を誓わないで‥‥って」
「‥‥‥では、何にかけて誓えば良いのでしょう」
浩瀚の言葉に、陽子はぷっと噴き出した。
「それ、ロミオの台詞。お前が言っちゃ駄目じゃないか、ジュリエット」
「では、今からは私がロミオで、主上がジュリエットでございます」
陽子は浩瀚の胸に顔を埋めたまま、笑い声を洩らした。
「いいよ。じゃあ、ロミオさま。誓いなど要りません。どうしてもと仰るのなら、貴方自身に誓ってください」
「―――誓いましょう。私のこの身と命と魂にかけて。私の全てをかけて貴女を愛し、終生お守り申し上げます」
「ふふ‥‥なんか違った気もするけど‥‥まあ、いいか。―――私も誓おう。私の全てにかけてお前を愛すと‥‥‥」
陽子が浩瀚の顔を見上げて答えると、すっとその顔が近付いてきた。陽子は素直に目を閉じる。唇が重なり合い、その口唇から紡がれた誓いの言葉を受け取るように、互いの甘い吐息を呑み込んだ。
「―――その蓬莱の話の二人‥‥‥その後、どうなるのです?」
「ああ‥‥‥訊いちゃったか‥‥‥」
はあ、と息を吐いた陽子に、浩瀚は首を傾げる。
「訊いてはいけませんでしたか?」
「いや‥‥‥実は、この話は悲劇なんだ。二人の仲を許さない両家を誑る為にジュリエットは仮死になる薬を飲むんだけど、ロミオはジュリエットが本当に死んだと勘違いして彼女の遺体‥‥本当は生きてるんだけど‥‥それに寄り添って毒を飲んで死ぬんだ。そして目覚めたジュリエットはロミオの死を嘆いて彼の短剣で胸を突いて本当に死んでしまう。―――死して二人は結ばれる‥‥って、そんな結末」
説明して陽子は困ったように浩瀚の顔を見る。恋人同士の睦言に自己を投影して語るには、どうにも縁起の悪い話なのだ。だが、浩瀚の感想は意外なものであった。
「それは、ある意味でとてもうらやましい結末でございますね」
「浩瀚‥‥?」
「愛する者と死を共にしたいと願う気持ちは‥‥‥私にはよく解ります」
「浩瀚」
顔をしかめた陽子に、浩瀚は微笑む。
「御安心を。主上亡き後には生きて仮朝を支えよとの御下命‥‥‥忘れた訳ではございません」
その、浩瀚にとっては酷く残酷な約束があるからこそ。
「ですが、死して共にあることが適わぬのなら―――生ある内には、この想いに些かも妥協はいたしませんよ」
浩瀚は陽子を抱く腕に力を込める。
「誰にどのように誹られようと‥‥‥例え天に仇為す大罪だとしても‥‥‥この手を放すつもりは毛頭ございませんので、主上も、どうか御覚悟のほどを」
陽子は、自身を抱き締める浩瀚の手に自らの手を添えて強く握った。
「望むところだ」
全てに祝福された恋ではない。
何かを失わずにこの想いを貫き通すことは、決して容易くはないだろう。
もとより困難の多い二人の生きる道、それにさらに拍車を掛けるものだとしても。
魂を歪めてしまうよりずっと良い。
何より、互いの手を取ることでより強くあれるのだから。
二人なら、何も怖くはない。
どんな困難でも乗り越えて行ける。
―――そう信じられるだけの、想いがある。