蓬莱にいた時にも自身の神として崇めていたわけではない、他の宗教の神の生誕の日、しかも神事を執り行う訳ではなく愛する人や家族と共に過ごし贈り物を交換し合うだけという不思議な祭。それでも、陽子にとってその日が特別な日、特別な夜であることに変わりは無かった。
一年をこちらの国の数と同じ十二に分けた暦、最後の月の二十四番目の夜。
その最後の月のある日。
慶国冢宰は、主が話す蓬莱の「クリスマスツリー」の話に反応を示した。
「光る飾り・・・ですか?」
僅かに首を傾げ何かを思い出そうとしているように見えた。遠い記憶。
「うん。赤とか、青、黄色、緑・・・いろいろな色に光るものを木に飾るんだ。・・・けど、それが何か?」
「いえ・・・」
浩瀚は、僅かに眉を顰め考え込んでいる。しばらくして、相手を真直ぐに見て微笑みながら告げた。
「こちらにもそのような木が。心当たりがございます。もし見つけること叶えばご報告致しましょう。」
数日後、雲海の下に視察に出かけていた冢宰より青鳥が届く。
そこには、瑛州の外れ、ある場所の名が記されていた。
― 主上が仰っていた光景を御見せできるかも知れません。例の夜、そこでお待ち申し上げております。
例の夜。
王宮内の他の者達には、主上が何故その日を特別に思っているのか何度説明されても今一つ理解できない、でもとにかく主にとっては大切な日であるらしい、例の日の夜。
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その日に限って朝議が長引いた。
午後、書面決済等の執務に割り当てられる時間が少ない。加えて、奏上書や陳情書がいつもにも増して多い・・・いや、多く見えるだけかもしれないが、ともかく陽子はその書面の山を見上げてため息をつき、傍らの僕を見遣り口を開く。
「景麒、あの・・・」
「いけません。」
「まだ何も言ってないじゃないか!」
「出奔なされるならこの山を片付けてからどうぞ。」
「・・・分かった。今回は諦めるしか無いか。」
しぶしぶ言う主を見ながら景麒は卓の上の書状を揃える。
「こちらが、今夜中に目を通して頂く必要がある書状です。後は冢宰殿に確認して頂いてからの方が良いかと思いますので私が預かります。ではこれで・・・」
下がらせて頂きます、と景麒は型通りの礼を取り、室を出て行った。
景麒を見送り、あーあ、とため息をつく。
しばらくして、ふと気がつくと傍らに班渠がいる。陽子はあっけにとられ、そして笑い出した。使令が自らの意でこの場所に留まることなど有り得ない。
―
執務が終わったらお連れするように、と台輔が。
銅色の毛並みの獣は、そう言って陽子の足元に蹲った。
「なんだ、許してくれたのか。」
言って、陽子は班渠の首に抱きついた。
「全く素直じゃないな、景麒。・・・でも、ありがとう。」
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光る物、と言えば蓬莱では電飾だったのでこちらでの「光る木」など見当もつかない。ともかく班渠の背に乗り不案内な土地に飛び立った。寒さを避けるためにしばらく雲海の上を飛び、邑に近づいてから下に降りる。すると・・・
思いがけない光景が陽子の目に飛び込んできた。
閑地にそびえる、樅の木に似た一本の木。何故かその木がぼうっと青い色に光っている。
「あれは・・・班渠!あそこに降りて!」
背から降りて、寒さに震えながらも恐る恐る近づく。小さな虫か何かのようだった。その光る虫が木の枝一面に留まり、僅かではあるが確かに光を放っている。青い光。
「凄い・・・綺麗。」
ただ、瞠目する。
木の周りを一周して、そしてまた木を見上げた。故郷の、蓬莱の家での、幼い頃見たクリスマスツリーがふと脳裏に蘇る。僅かに胸が痛んだ。
「雪虫、と呼んでいました。幼い頃には。」
聞きなれた声に振り向くと、上背のあるひとつの影が陽子の背後に立っていた。
「浩瀚!・・・これは?」
主の問いには答えず、浩瀚は傍らに従っている妖魔に会釈をし声を掛ける。
「よく、この場所がお判りになりました。さすが瑛州侯。」
班渠はただ黙っている、しかし微かに微笑んだ気配が伝わった。
「なんだ。景麒は全部知っていたのか。」
「主上にとって今日が特別な日であることは台輔もご承知でいらっしゃいますので。」
至極何でもないことのように告げて、浩瀚はその木に向き直る。
「この虫 ― 雪光虫と呼ぶらしいのですが、これが出ると次の春には豊作になると言い伝えられていました。尤も私が見たのは数回でしたが。」
浩瀚は酒臭い息をほうっと宙に吐いて、陽子を見下ろして微笑んだ。
「こちらの邑ではまだ見ることが出来ると聞いて、主上から以前お聞きした聖夜の飾りに似ているのではないかと思いました。拙が出払っている折でもあり、おそらくお忙しくしておられるだろう、しかしもし可能ならばぜひお見せしたい、と。」
陽子は黙って、男の頬に手を伸ばす。すっかり冷え切っていて、この男が長らく自分を待っていたのだろうと推測できた。
「遅くなって・・・済まぬ。・・・私の為に」
「主上の御為・・・と言えば聞こえは良いのですが。私も見たかったのです。この光景を。」
相手は、頬に添えられた暖かな温もりを愛しむように目を閉じる。
やがて、その瞳が開かれる。頬に添えられた手を包むように掴んで放した。
「今夜は冷えます故・・・失礼致します。」
言いながら自分が身に着けている外套の紐を外すと、陽子を背向かせ袷に包み込んだ。
「な・・・!」
「体調を壊されては台輔に顔向け出来ませぬ。」
「だって・・・お前こそ寒いだろう?」
もがいて離れようとすると、
「いいえ、それよりこうしていると懐炉を抱えているようで暖かい。動かずじっとしていらしてください。」
茶化すように返され、却って強く抱きすくめられた。
「カイロ・・・か。成程。分かった。」
少々言いくるめられているような気もしたが、しぶしぶと服の中に身を落ち着ける。
背中や腕から相手の温もりが伝わり、何より相手の腕の中に包まれているということが暖かく安らいだ気持ちにさせた。見上げると鋭い顎の線が暗闇に白く浮かび、その向こうに目の前の光景を見つめている穏やかな琥珀色の眼があった。吐く息が白く、気温がさらに下がっていることを示しているが相手は一向に寒さを感じていないかのように身動ぎもせず立っている。
「・・・本当に寒くないのか?」
もう一度訊ねると、ため息混じりに返された。
「主上をお待ち申し上げている間、かなり体中に暖を摂取致しました。ご心配なく。」
「道理で、酒臭い。」
「申し訳ございません。」
少しも悪びれた様子無く笑う。表情や動作は普段と変わらず酩酊している程ではないようだが、心なしかいつもより口調が砕けているようだ。
「酔っ払っている?」
「そうですね・・・思いもせぬことを口走るやも知れません。ご無礼致しましたら何卒ご容赦を。」
笑いを含んだ口調で返事が返る。あとはただ沈黙が満ちた。
● ● ●
やがて、男が呟くように語り出した。
「永く時を過ごしていると・・・やがて、自分の中で、感情が少しずつ無くなっていきます。生き物が徐々に壊死していくように、喜んだり、怒りをもったり、悔やんだり・・・そして人や物に愛情を持つということが少なくなり、忘れていく。」
声は静かに続く。何と相槌を打ったらいいのか分からず、陽子は黙って聞いていた。
「・・・でも、貴女に逢って、そんな感情がかつて私にも存在したということを思い出しました。決して楽しいばかりではない、むしろ傍目には不恰好で間が抜けていて、何のことはないことが妙に気にかかったり、他人を妬んだり、ほんの些細なことで一喜一憂する・・・そんな、恋慕という感情・・・」
声はかすれる様に、ひそやかに闇に消える。
この男が己の考えていることを口にするなど滅多にあることではない。やはり酔っ払っているのかと思うのだが、戯言と片付けるにはあまりにも口調が真摯で聞き流すことが出来なかった。かといって愛を語るにはあまりにも淡々とした静かな、むしろ切ない口調だった。
「それは・・・良くないことか?」
陽子がおずおずと訊ねると、しばらく考えるように目の前の光に浮かんだ木を見上げる。
「そうですね・・・善し悪しは私には分かりません。ただ・・・目の前の光景が彩色されていくように思われました。」
「彩色される・・・?」
陽子は浩瀚を見上げた。穏やかな琥珀色の眼が見下ろす。
「そう、世界に色がつく。この木のように・・・」
色が・・・つく?
男は微笑むと、陽子の肩に顎を乗せた。冷たい頬が触れ思わず首を竦めると、反応が面白かったのか喉の奥でくくっと笑う。
「珍しい、浩瀚がそんなことを言うなんて。」
「確かに。私も同感です。」
「お前な・・・。」
気恥ずかしいのを隠すように抗議すると、相手の低い笑い声が重なった。
冷えた頬がやがて互いの温もりを交し合う。同時に体の奥底、人が心と呼ぶ場所が暖かくなるような気がする。陽子はしばらく何も言えず、ただ立ち尽くす。
● ● ●
「・・・頼りにしているだけだと思っていた。」
ようやく、相手に伝えたいことが声となって冷たい空気の中に吐き出される。呟くように。
「私の方が常にお前に寄り掛かっていると思っていた。お前はいつだって変わらない涼しそうな表情で穏やかにしているから。」
「そうでしたか・・・」
「それは・・・王としている時だけではなくて、こうして・・・二人でいる時でもそうだと思っていた。お前の方がいつだって私を守っている、と。でも・・・何か出来ることがあったとしたら・・・」
− この世界で、こうやって出逢えた。それが・・・とても嬉しい。
相手の外套の中に捕われていた手を動かし、冷たくなった手を握ると自分の胸の中に抱きしめた。
それは決して、激しい想いではない、もっと穏やかな感情。
自分よりずっと長い時間を生き、様々な経験を重ねてきた相手にこういう感情を抱くのは少し可笑しいような気もしたが、それが正直な感情だった。
「主上、冷えますよ。」
「構わない。」
「・・・傍から見ればかなり酔狂な所作でしょう。こんな寒い場所にいつまでも立っているなど。」
「そうだな・・・でも、もう少し。浩瀚は大丈夫なのか?」
言いながら再び木を見上げる。
一瞬引きかけられた手は、諦めたように力を緩め相手に全てを委ねた。
やがて、空から白いものが舞い始める。
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おそらく、あちらでも・・・
愛する人達に出会えたことを感謝し、こうして過ごすことの出来る喜びを分かち合う為にあの祭はあったのかも知れない。
― こうして、他でもない皆一人ひとりに出会えたことを感謝しよう。そして、全ての民に、人に、その僥倖があるように・・・・
そして・・・陽子はそっと、懐かしい言葉を口の中で呟いた。
Merry Christmas!
(了)