山の端の月/縷紅さま お誕生日記念

小糠雨

   『紫陽花』

 ふと、思い出したように、陽子は白い紙に蓬莱の文字を書いた。
 窓の外は雨――。

 時期が同じか、それともずれているのか、陽子には良く分からなかったが、こちらの世界にも夏になる前に梅雨のような長雨の季節がある。この雨季に備えて、為政者である陽子とその臣たちは、治水のための土木工事や災害保全・救済の計画を立てる。それは一年の内でもっとも重要な仕事の一つである。逆に言うと雨季に入ってしまえば、それらが役に立っているかを見張り運用していく現場にその中心が移るので、王宮の国官たちはようやく一息をついて季節を見守ることができるようになるのだった。

 陽子のいる書房の入口で、聞きなれた男の声が入室を乞うた。促すと、背の高い濃い色の髪をした冢宰が書類の入った文箱を抱えて入室してきた。

「主上、ここ数日の南部の雨量が予想より少々多くなっている件で、至急ご裁可お願いしたいものがございます」


 浩瀚は文箱から数枚の紙を綴った書類を取り出して、陽子の前に差し出し内容の説明をした。それを彼から受けった陽子は御名御璽を記して、後はよろしく頼む、と言って彼に戻す。御璽が乾くのを待つ間、ふと浩瀚は書卓の上に置かれた紙に書いてある、『紫陽花』の文字に目を留めた。

「主上・・・こちらは?」

「あ、いや、ちょうどそんな季節だと、ふと思いついて書いてみただけだ」

 彼は陽子の言葉に僅かに目を細めた。しのつく雨の音が幽かに聞こえてくる。

「蓬莱では、雨季に咲くのでございますか」

「こちらでは、あじさいは雨季に咲かないのか?」

 陽子はもしかして字が間違っていたのだろうか、と少し不安になって尋ねた。雁に住む壁落人と文のやり取りを一年に一、二度する程度にしか、あちらの言葉を使うこともない。倭の言葉も文字も使わなければどんどん忘れてしまう。それは、彼女がすっかりこちらの生活に馴染んだということでもあるのだが。

 陽子の言葉に浩瀚の口の端が僅かに緩み、いつのまにか微笑みの形を作っている。

「あじさいでございましたか。こちらとは文字の意味するものが少々違うようでございますね」

「そうだったのか。では、こちらでこの文字だと何?」

「『紫陽花』と書くものは、紫桂とも申しまして、春に咲く香りの良い紫の花でございます」

「ライラックのようなもの?」

「はい、さようで」

「ふうん、そうか。・・・そういえば、あちらではあじさいの花言葉は『移り気』と言うんだ。花の色が場所や時期によって赤や青に変わるから。でも、紫の花が雨に濡れている風情は好きだな」

 彼は、おや、という顔で再び目を細めた。

「どうやら、花の色もこちらとは少々異なるようでございますね」

「そうなの?」

「少しお時間をいただけるようでしたら、咲いているところをお目にかけましょう」

「え、本当に? 行く行く!」

 話を続けているうちに、御璽の朱の乾いた書類を文箱にしまった浩瀚は、にっこりと笑って、こちらへ、と陽子を書房から連れ出した。

 内殿の奥まった場所にある陽子の書房から、冢宰府へ向かう途中の広い庭院に面した回廊を、二人はゆっくりとした足取りで歩いてゆく。雨に洗われた木々の緑が目に美しい。それは、常に前を見つめる陽子の澄んだ瞳の色にも似て、鉛色の空の沈んだ色合いの庭院に、落ち着いた輝きを添えていた。

――これって、なんだかデートしているみたい・・・

 ひっそりとした人影のない回廊を、浩瀚に半歩遅れてついて行く陽子は、心の中でそっと呟いて一人で顔を赤く染めた。その時ちょうど振り返った浩瀚と目が合い、思わず俯いてしまう。

「主上、こちらでございます。少々雨に濡れますので、どうぞお近くへ」

 言われるままに浩瀚の傍に寄った陽子に彼は文箱を手渡すと、疎雨から守るように袍の長い袖を翳した。

「足元にお気をつけください」

 回廊から三段程の階を降り、玉砂利の敷かれた庭院を回り込むと、そこには赤色をした額あじさいがひっそりと咲いていた。いくつかの枝にある開いたばかりのような小ぶりな花は純白で、またいくつかの花は外側が僅かに薄紅色に染まっている。そして、見事なまでの真っ赤な花。陽子が生まれた街にあった普通のあじさいとは、形は似ていてもまったく色が違う。

「これは、もしかして白い花がだんだん赤くなるの?」

「はい。白く開花したものが少しづつ染まってゆき、半月ほどでこちらのような深紅の花となります」

「綺麗だね」

 そう言いながら、陽子は浩瀚の顔を見上げると、普段と違う角度からごく間近に見る冢宰の顔に、彼女の鼓動が一気に速くなる。そして、その心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと思い、自然に頬が熱くなるのだった。


 深い色を秘めた焦げ茶の瞳が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
 陽子は一瞬、その雰囲気に戸惑って瞳を閉じ、そして小さく震えた。


 しかし、僅かの静けさの後、ふっと、その場の空気が緩んだ気がして陽子が目を開くと、彼はふわりと優しく微笑んで言った。

「雨が、少し強くなってきました。回廊に戻りましょう」

 それまで無音のようだった庭院に、雨の音が再び響き始める―――

 少しづつ、時間をかけて、鮮やかな深紅に染まってゆく純真無垢な白い花。
 静かに降り続く小糠雨が二人を優しく包んでいた。

warehouse keeper TAMA
the warehouse12