赤楽数年たったであったろうか・・。



「このところ、暑い日が続くね。」


「左様でございますね。」


雲海の上とはいえ、湿気も暑さもまったく入り込まないわけではない。


露台の向こうには、きらきらと夏の太陽を受けて、陽気に笑っている雲海から、そんなにうだらないで下さいとでもいうように、時折涼やかな風が、執務室の窓から入り込んでくる。


しかしながら、その風に乗って、ぶ〜〜んという小さな虫も、大きく開いた窓から侵入してくるようだ。


陽子は、午後の執務中だった。


まとわりつく小さな虫に、頼むから邪魔しないでくれ、といっては追い払う。


その仕草に、執務の補助をしている冢宰は微笑んでいた。



「建州では、稲の開花が遅れていると言ってきているな。」


「はい。今年は例年に比べて、梅雨の時期が長うございましたので。」


「そうだったね。うっとうしいこと限りなく、ってとこだったよ。」


「左様でございますか?」


そばについて、浩瀚はすこし首をかしげる。


そんな何気ない様子も、陽子は好きだった。


それは、単に好ましいというだけの感情かもしれない。


しかし、切れ者と評判の怜悧な琥珀色の瞳が、陽子に向かうときには、優しく揺れるのを感じていた。


簡単に言えば、陽子は浩瀚を素敵な男(ひと)だと思っていたのである。



本来なら、執務の補助をして陽子を教え導くのは太師の仕事でもあったのだが、遠甫は、珍しく休暇を取って麦州へ出かけていた。


桂桂を伴い、先祖の墓参りを兼ねて、休養してくると陽子には語っていた。


しかし、かの地では、どうやら、焼け落ちた松塾をもう一度再興しようという動きもあるようなのだ。



「今の金波宮では、そんなことに気をとられている暇は無いかもしれないけど、太師も気にはなるんだろうな。」


陽子は、思ったことが、つい口をついて出てしまったようだ。


浩瀚は、苦笑して、


「太師のことが気がかりでございますか?」


そうたずねた。


「はあ、いや、ごめん。執務に集中しなくっちゃ。申し訳ない。」


「いえ。」


浩瀚は軽く会釈をして、次の案件に説明文を付け加える作業を再開した。



もちろん、本来ならばこの仕事は冢宰府にて、おこなってしかるべきだ。


しかし、今日は景麒も瑛州侯としての執務が多く、出てくることが出来なかった。そこで、臨時ではあったが浩瀚が国王の執務室に詰めていたのである。



遠甫は、陽子が、その初勅後から、国王としての執務を、浩瀚とよく話し合って進めるようになるとよいと思っていた。


冢宰が国王の補佐をするのは、何も朝議のときだけでなくてもよい。そう感じていたのだ。


確かに、表から見れば、いつも一緒にいたのでは癒着しているように見えるかもしれない。


しかし遠甫は、陽子という景王は、慶国の民を統治することに当たって、けして不熱心ではないとみていたのだ。


だからこそ、浩瀚とはその国を治める「想い」の部分で、理解しあってほしいと思っていた。


「台輔は大丈夫じゃ。半身でいらっしゃるからのう。」


よく口げんかになってしまう、慶国主従を、遠甫は目を細めて見守っていた。


「今現在は、冢宰としておまえが適任じゃとわしも思う。しかし、考えようによっては靖共以上にやっかいじゃからな。」


人差し指をまっすぐに刺すような視線を、登極してすぐ、浩瀚に送ったのは、ほかならぬ松柏その人であったのだ。


しかしながらその視線には、まるで幼子のような、きらきらとしたいたずらっぽい光も混じっていた。


その視線を受けて、浩瀚は、怜悧な瞳をわざわざ曇らせて、盛大なため息をついて見せたのだ。


「命を懸けてお使えする所存でございましたが。」


そういって言葉を切り松柏を見つめかえして、


「太師が私をお疑いとは・・。」


と、わざと悲しそうな声を出した。


「ほっほっほ、陽子は良い娘じゃ。その長所を生かしてやってくれるかのう。」


「かしこまりまして。」


陽子から冢宰を任命された浩瀚は、かつての師にそういって、再び礼をとったのだ。



浩瀚は、そんなことを思い出しながら、いささかけだるい午後の執務を、陽子の視線を気遣いながら、こなしていた。



彼は、自分が冢宰として決済する案件も、今日はここまで持ってきていたので、そちらを片付けるために書面に視線を落としていた。


しばらくすると、軽い旋律が浩瀚の耳を掠める。


珍しいことに、陽子が鼻歌を歌っていたのだ。


浩瀚は、はしたないこととも思ったが、もう少しこの響きを楽しんでいたいとも思った。


常世には珍しい旋律だ。おそらく蓬莱の歌を無意識に口ずさんでおられるのだろう。


そう思った。



「ル・ル・ル・ル、ルルララルー、ル・ル・リ・ラ・ルーラ。ル・ル・ル・ル、ルルララルー、ル・ル・ラーラルリルラルー・・・♪」


浩瀚は、自分でも気がつかないうちに、書面から視線を上げ、陽子の涼風に揺れる、一つにくくられた赤い髪と、書面を追う真剣なまなざしを見つめていたらしい。


ひとつに括ったその髪留めには、月季花のような赤黒い宝玉が二つ、ついていた。


赤い髪に赤い宝玉は、普通であれば目立たないので、あまり好まれないのだが、うちの主上は、むしろ宝飾が目立たないようにと、付けられる。


そのお気持ちが好ましい、と浩瀚は感じていた。



と、突然気配を感じた陽子は、歌をやめ、こちらを向いた。


二人はしっかりと目が合ってしまった。


「申し訳ございません。」

「すまない。」


お互いに謝罪の言葉を掛け合ったことに気づき、ひとしきり陽気な笑い声が執務室に響く。


「本当に申し訳ございませんでした。お聞きしたことの無い旋律でございましたので、ついうっかり、聞きほれてしまいました。どうかお許しを。」


「とんでもない。あーーこちらこそ、鼻歌なんか歌ってしまったんだな。まあそのぅ、慶国も平和になったんだということで、許してくれ。」


「滅相もございません。それで、なんと言う曲なのかお聞きしてもよろしいですか?」


「うん、これは蓬莱とは別の国で作られた曲で、のばら、というんだ。」


たしかシューベルトののばらだったよな・・と陽子はつぶやいていた。


「のばらと申しますと、月季花の仲間でしょうか?」


「こちらでは、バラのことを月季花というのか?そうかもしれないけど、よくわからないな。」


「主上は、月季花・・いえ、ばらの花がお好きでございましたか?」


「ああ、好きだった。こちらにもあるのかな?」


「はい、月季花ならございます。あまり一般では好まれてはいないようですが、確か私の官邸にあったような気がいたします。」


「ふうん・・。」


「ご覧になりたいですか?」


「咲いているのか?」


「はい。四季咲きと申しまして、手入れがよいとかなり長い期間花がついております。」


「それ、枝に棘があるかな。」


「ございます、大きな棘が。はさみで丁寧に手折りませんと、傷だらけになってしまいます。」


「うん、やっぱりバラのことみたいだね。そうだね、見てみたいな。」


「では、これから採ってまいりましょう。確か一つか二つ、花があったような気がします。」


「え、そんな少ないの?じゃあ悪いなあ。」


「何をおっしゃいますか。みな元をただせば主上のものでございますよ。どれ、お待ちくださいませ。」


「おう、冢宰。俺が行ってくる。」


二人の会話を割って入ったのは、陽子の大僕を務める、虎嘯であった。


「虎嘯、大僕が主上のおそばを離れてどうします。」


浩瀚の優しい叱責に、虎嘯は頭をかく。


「いや、今日は班渠殿がいらっしゃるし、冗祐殿もお付なので、平気なんじゃないかと思ってな。」


そんな虎嘯に、陽子は笑って声をかけた。


「ああ、わかった虎嘯。ちょっと体を動かしてきたいんだね。では、大僕に命ずる。冢宰官邸までいき、月季花・・?だったっけ・・。の花を私のために摘んできてくれ。一刻も早くだ。」


「がってん、承知した。では行って参ります。」


そういったかと思うと、虎嘯はその大きな体をしなやかに反転させ、あっという間にその場から姿を消した。



その去っていった方を眺めながら、陽子は


「とんでもないことなんだろうな。」


といい、すこし気まずそうな顔をして、浩瀚の顔を見る。


「あなたがいるというのに、これはどうしたことですか!・・という台輔の叱責の声が聞こえてまいります。」


「あははは・・実は私も聞こえた。」


二人はひとしきり笑って、また政務にもどろうとしていた。


「このところ、虎嘯はのんびりしすぎて体がなまるというんだ。だから時々、あんな感じでちょっと遠くに使いに行ってもらっている。走っていくんだよ、使い先まで。そうするといくらか気分がいいみたいなんだ。」


「そのようなことは、おねがいでございますから、下官にお命じください。主上にもしものことがあれば、大僕もただではすみません。」


「おっと、浩瀚。それでは虎嘯の運動不足は解消しないんだ。武道の鍛錬はしているみたいだけどさ。それに、そんなことをする下官は残念ながら雇っていないぞ。さらにだ、おまえさっき自分で行こうとしたじゃないか。冢宰に頼むよりよっぽど自然だと思うけどな〜〜。」


陽子は横目に浩瀚を見て、笑っている。


どうだ、1本とったぞ、とでも言いたげだ。


浩瀚は短いため息を漏らし、


「仰せの通りでございます。」


そういって、微笑んだ。


「うん、せっかくだから、執務に集中しよう。大僕が気を使ってくれたんだろう。」


「はい。」


そうして、午後のけだるい時間がまたもどってきた。


するすると、書面に書いていく音が風に乗って遠くまで聞こえるような、そんな錯覚を覚えるような、静かな午後だった。




ちり、ちり、と陽子は、妙な痛みを口の近くに感じていた。


おかしいな、今までそんなことは無かったのだけれど。


なんだろうこの痛み、昔こんな痛みを感じたことがある。


思わず口を押さえる。


浩瀚は、この様子には気がつかないのか、自分の仕事に集中しているようだ。


今日はだめだ。


陽子は思った。


どうも集中できない。


このキンキンした痛みは何だ?


ひょっとして虫歯だろうか。


ああ、嫌だ。


こちらにも歯医者はあるんだろうか?やはり削って何かつめるのかなあ?


え?


でも、「仙」になると病気はかかりにくいし、かかってもすぐ直る。


怪我だって見る見るうちに治ってしまうんだ。


虫歯なんて・・・あるんだろうか?


そう思った陽子は、浩瀚のほうを向いて彼に声をかけていた。


「浩瀚?」


「はい、何でございましょうか?」


「執務に関係ないかもしれないけど、聞いてもいいかな?」


「はい、なんなりと。」


浩瀚は、いつもと同じ優しいまなざしで、陽子のほうへ向き直り、軽く拱手した。


「ああ、ごめん。いちいち仕事の手を休めるようなことじゃないんだけど、あのね。」


「はい?」


「常世には、虫歯ってあるのか?」


「ございます。甘いものを好んで食べるような方がかかる、歯に穴が開いてしまう病でございますね。」


「ああ、やはりあるんだね。でも、仙はかからないんだろ?」


「残念ですが、仙も虫歯だけは治らないのでございます。どうしてかは不明でございますが。」


「え?直せないのか。」


「はい。ひどく痛むようになりましたら、抜いてしまうしか方法はございません。仙は昔から虫歯にかかりやすいようでございます。庶民に比べて、よいものを食する機会が多く、また、その後の歯の手入れも十分に出来ないほど忙しいことがございますので。長きに渡って、官位の高い者は、自分の歯が1本も無い者が少なくございません。」


「ほんと?そんな話し初めて聞いたよ。」


「左様でございますか?さほど珍しいことではございませんよ。」


「そうなの?」


「はい。」


「だって、歯がそろってないものなんて、私は、官吏の中では見たことが無いよ。」


「それは、入れ歯の技術が発達しているからではないでしょうか?」


「へえ、そうなんだ!」


「範国製の総入れ歯などは、大変軽く使い易うございますよ。」


「おまえ、良く知ってるな。」


「はい、私も愛用しておりますので。」


「え?・・・・・」



陽子は聞き返そうとして絶句した。


しばし、陽子と浩瀚の間に、奇妙な沈黙が漂う。


かまわず、浩瀚は、自分の口の辺りを手で探るようにしながら話していた。



「このとおりで、ほひゃいまひゅ。」


そう言って、浩瀚は上下二つの総入れ歯を、はずして見せたのだ。


陽子の目が見開かれる。


30過ぎの怜悧な男は、その顔の半分が、しぼんでしまったようだ。


いつもの朗々とした声も、発音がはっきりせずに、まったく聞き取れない。


陽子は、段々青ざめていった。


その、常日頃の麗しい相貌とは比べ物にならない、見たこともない男の顔を凝視した。


この人が、あの浩瀚?  


浩瀚の素顔??



「ぎやあーーーーーーーー・・・・・・・」


陽子は、悲鳴を上げて倒れてしまった。





「主上、どうなさいました?大丈夫でございますか??」


「おい、陽子。しっかりしろ!!おい・・」



すこし時をさかのぼる。


浩瀚は、執務中についに転寝をしてしまった陽子を、微笑みながら横目で捉え、自分の仕事に集中していた。


そこに、大僕が風呂敷包みを大事に抱えるようにして、もどってきた。


「主上、今戻りましたっと・・。」


人差し指を口に当て、片目を瞑る冢宰を見て、虎嘯は珍しくて目を見開いたが、その脇からのぞくと、陽子がこっくりこっくり、転寝をしている。


二人の、陽子が心から信頼している男たちは、顔を見合わせ、ふっと笑った。


「ここんとこ、陽子も暑さでまいっていたんで、どうか勘弁してやってください。」


大僕というよりは保護者のような物言いに、浩瀚は暖かいものを感じながら、


「何をおっしゃいますか、主上は良くやっておいでだ。大僕殿もごくろうさまでございました。それにしても、もうおもどりとは。驚くほどの速さでございます。」


そう言って、使いをしてきた虎嘯をねぎらった。


「いや、冢宰にそういわれてうれしいですよ。時々本気で走らねぇと、すぐにとろくなっちまうんでね。ところで、こちらどういたしましょうか。」


花がしおれないように、浩瀚のところの下官だろうか?切り口を綿でくるみ、水で浸して、油紙を巻いてある。それを風呂敷のようなもので包んだようだった。


包みを解いた中から、陽子の髪の色よりも幾分暗めの赤い花が出てきた。花びらが何層にもなって、玉のようだ。


「こりゃ、珍しい花だ。あまり王宮の園林ではみかけねぇな。」


「おや、虎嘯殿が摘まれたのではなかったのですね。」


「ああ、官邸につめている庭師の爺さんとは知り合いなんですよ。俺は花をどう扱うかなんてよく知らねぇんで。」


「左様でございましたか。」


こちらの大僕は、よいお人柄だ。


浩瀚は思った。


大切なことは何か、そして自分の職分は何か、良くご存知だ。


自分の職分を離れず、他人の職分をわきまえ、それでいて、主上のことを一番に思い、行動される。


なかなか出来ることではない。


よい方がお集まりだ、主上の周りには。


そう思って、浩瀚はゆったりと微笑む。


「今は、どなたもいらっしゃらないようですので、私が僭越ながら花瓶に挿しておきましょう。」


「はあ、よろしくお願いいたします。」


そうして、静かに花を活けたすぐその後だった。


陽子が、その場が凍りつくような悲鳴を上げたのだ。



男二人は、びっくりした。


今まで転寝をしていたと思っていた陽子が、普段でもめったに挙げたことの無い、いや非常時ではなおさらあげそうも無い悲鳴を上げたからだ。


何かあったかと、二人は陽子の顔を覗き込む。


「陽子、おい、どうした!?」


玉体なんていってる場合じゃねぇ、とばかりに、虎嘯は、机の上に突っ伏した陽子をいすに座りなおさせて、背中にそのたくましい腕を回して後ろから肩をゆする。


浩瀚は、前に回って膝を折り、陽子を見上げるように注視した。


ふと目を開けた陽子は、正面から心配そうな顔をして覗き込んでいる浩瀚を、ぼんやりと認めた。



「え・・・私は??」


陽子は、はっきりしない声で独り言のようにつぶやきながら、周りを見回した。


「おまえは転寝していたらしいぜ。」


斜め後ろから虎嘯が、説明する。


「え?寝ていたの??・・じゃあ・・夢だったのか・・。」


青ざめた顔で、しずかに言葉をつむぐ陽子に、


「何か、悪い夢でもご覧になりましたか?」


と、浩瀚は声をかけていた。


「いや、ああ、浩瀚? そのう、常世には虫歯ってあるのか?」


ずいぶん突拍子もないことをおっしゃる、と浩瀚は思いながらも、


「はい、ございますよ。甘いものを好んで食べるような方がかかる、歯に穴が開いてしまう病でございますね。」


と、答えた。すると、心なしか陽子の顔はさらに青ざめたような気がしたのだ。


浩瀚の言葉は、先ほど陽子が夢の中で聞いた言葉と、一言一句違っていなかったのだ。


陽子は、正夢では・・と息を呑む。


大きく見開かれた陽子の瞳を、浩瀚は訝しそうに見つめていた。


「仙も、かかるんだよね?」


陽子は、恐る恐るたずねてみる。


「いいえ、主上。仙は、大概の病からは解放されております。その分、しっかりと執務をしなければなりませんが。」


大きくため息をして陽子はいかにも安心したように、


「はあ、そうなんだ・・・よかった・・・。」


と、答えていた。


青ざめていた陽子の顔は、それを聞いたとたんに赤みが差してきた。


心の底から、ほっとしたようだった。


そんな様子を見てかなり訝しく思っていたのだが、浩瀚は、


「歯が痛むのでございますか?」


と、陽子にたずねた。


「あ、うん、そんな気がしたのだが・・いや、夢かもしれない。」


「失礼。」


そういって、浩瀚は、一度立って今度は中腰になりながら、自分の顔を陽子の顔に近づける。


「ああ、主上はお休みになっている間に、虫に刺されたようでございますよ。ちいさく唇に跡がついております。それも、仙でございますからすぐに消えてしまうでしょう。ご安心なさいませ。」


「ああ、そうか。よかった、本当によかった。」


そういいながら、陽子は浩瀚の後ろにある、白地の花瓶に活けられた深紅の二つの花に気がついた。


「うん、その花が月季花というのか?」


「はい、左様でございます。」


「きれいな花だね。確かに蓬莱のバラに似ている。なんだか転寝をして、二人には心配をかけたらしい。虎嘯も、浩瀚もすまない、そしてありがとう。」


すっかり元に戻った陽子の様子を二人は顔を見合わせて確認し、微笑んだ。


そんな陽子に、浩瀚は、時刻を見ながら体を休めるように勧めることにした。


「すこしお疲れのようでございますから、休憩をおとりになりましてはいかがでございますか。先ほどの歌を、教えていただけると幸いでございます。」


「そう?では、少し休憩にするね。うまく歌詞が常世の言葉になるといいんだけど。」


そういうと、陽子は、書類をわきにそろえておくと、今度は鼻歌ではなくて、しっかりと歌いだした。


浩瀚は、主上のお声は毎日のようにうかがっているが、お歌としてお聞きするのは、そう何度もなかったと思った。


それを聞いて、「蓬莱の歌」として覚えることも、もちろん興味深いことだ。


しかし、それ以前に、主上のお声を聞いて楽しむこともできると、密かに心のうちで喜んでいた。


人前でお歌いになるのは、主上のような方でもお恥ずかしいようでいらっしゃる。


幾分上目遣いで、歌詞を思い出しながら歌われているのだろうか。


一生懸命歌っている陽子の顔を、至福の思いで見ていた浩瀚に、陽子はちょっと腹を立てたように言い放つ。


「こら、覚える気があるのか?一節ずつ歌うから、着いてこいよ。」


そう言った。


浩瀚は、苦笑しながら、


「よろしくお願いいたします。」


そういって、陽子の一節を待った。



それは、暑さの続く、ある日の執務の出来事だった。





おわり

warehouse keeper TAMA
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