Albatross/翠玉さま サイト二周年+20万打記念
和州の乱の後片付けが終わると、夕暉は遠甫の推薦で堯天の少学に入学することができた。最初は陽子に頼んだんだが、評判の悪い女王の紹介だと夕暉が苦労をするぞ、と笑って言われ、王の推薦で特別扱いでもされたら落ち着いて勉強はできないだろうと遠甫の申し出を受けた。
俺は陽子にできれば助けて欲しいと言われ、宿舎を処分して金波宮に行くことにした。ボロ宿は労の紹介でそこそこいい値で売れた。これからの和州の復興が期待できるからだと労は言った。
「それに、和州の乱の英雄が切り盛りしていた宿舎だしな」
茶斑頭の陰気な顔をした労が片目をつぶって笑った。
「よしやがれ、陽子がいなけりゃ今頃は墓の中だ」
「違うな、お前の執念が景王を呼んだんだ。赤王朝が落ち着けば、ここは黎明期に王を助けた英雄の宿舎として栄えていることだろうよ」
「そう言って売り込んだのか?」
労は肩を竦めて酒杯を舐めた。
「それにしてもお前が宮仕えとは、慶も変わったな」
「似合わねぇだろ?自分でもそう思うぜ。だけどな、桓堆の奴から陽子の大僕はどうだと言われて、それだったら俺にもやっていけそうだと思ったのさ。官吏からも民からも望まれねぇ王の為に命を張るのは俺みたいな馬鹿じゃなけりゃ勤まらねぇってな」
労は口の端で笑った。
「では、官や民に望まれるようになったら辞めるのか?」
「その時になったら考えるさ」
「そうだな。今は王の命を護ることが先決だ。あの朝廷を変えるなら命がいくらあっても足りない」
「お前はどうなんだ。冢宰に誘われたんだろう?」
「俺はまだここでやることがあるんでな、断った」
労は口の端を上げると、酒杯に口を付けた。俺は労の正体を知らない。しかし、こいつは会った頃から時が止まったように何も変わってはいなかった。
当時の金波宮はとんでもなく気分の悪い処だった。陽子を護衛するのでなければ、あんな処にいるのは真っ平ごめんだ。
ここの連中は16歳の胎果の女王を不安だと言い、教養も学もない俺を土匪だと言う。元麦州の左将軍を勤めた桓堆でも半獣だから卑しいと言い、温厚篤実と民に讃えられていた元麦州侯の冢宰でさえ、乱を企てたことで官吏の資格がないと囁かれていた。
それでも冢宰や桓堆はその噂を気にするような連中じゃなかった。だから俺も気にせずにやっていけた。それは恐らく陽子も同じだと思っていたのだが、戴国の台輔と李斎が金波宮で療養していた頃に、その無責任な連中によって危うく陽子を失いそうになった。あの時は心底隣国の台輔に感謝をし、自分の不甲斐なさに地の底までも落ち込んでいた。そんな俺にあの冢宰はとんでもないことを言ってきた。
我々にとって主上や台輔以上に守るべき存在はなく、その為にはどんな存在にも遠慮をする必要はない、お前の使命は何があっても主上を護ることだ、そのためには主上に近付く者は全て疑え、それがたとえ他国の王であろうと、わたしであろうとも!、と言い切った。その時はこの冢宰ならば天帝ですら疑えるかもしれない、と思ったものだ。
だが、冢宰の言うことは尤もなことだった。お陰で俺らしくもない遠慮は吹っ切れた。
蘭桂が少学に入学してここを出て行き、金波宮が落ち着いて内宮に人が増えるとここの太師邸にも召し使いの人間が増え、祥瓊や鈴は与えられた堂室に引越した。俺は老師がいつまでもいていいという好意に甘えてまだ居座っている。老師との会話は面白かったし、ここに集まる人間も気に入っていたんで、一人で暮らす気にはなれなかった。俺自身に会いに来るのは仕事仲間の小臣以外は桓堆と夕暉くらいなものだ。もっとも夕暉がちょくちょく来るのは半分以上は老師が目当てだろうが、顔を合わせる機会が多いのはいいもんだと思う。
今日も桓堆が珍しい酒が手に入ったとやってきていた。
「なあ、そろそろ禁軍に来る気はないか?」
「その話は前にも断ったじゃねぇか。俺は出世にゃ興味はねぇのさ。今の仕事が一番性に合ってるんだよ。それに陽子の傍はいつまで経っても面白れぇ。今更畏まって軍人をやるのは面倒だ」
桓堆は溜息を吐いて頭を抱えた。
「大僕だって普通は畏まるものなんだよ。お前、他国の王に何て言われているか知っているのか?」
「最近では礼を欠いているつもりはないんだがな」
俺は天上を見上げながら頭を掻いた。
「景王に近寄るのは命懸けだ、と特に男王や太子が仰っておられる」
「ああ?、俺は俺の仕事をしているだけだぞ。何の予告もなく、いきなり近づいたり、触ってくる方がおかしいんじゃねぇか?」
桓堆はくつくつと笑った。
「そんなことがあったのか?」
「あったんだよ。俺が陽子に付いているのは殆ど公務外だからな、気安い陽子に気が緩んでやがるんだ。連中、俺が陽子に気があるのかと抜かしやがるから、他国の男に気軽に扱われては自分が金波宮の野郎共に殺されます、と上品に言ってやったぞ。それに俺は抜刀はしていない。王や太子じゃなけりゃ、抜いているがな」
「遠慮のない奴だ」
桓堆は両腕を組んで椅子に背を預けた。
「それはウチの冢宰だって同じようなもんだろうが」
「浩瀚様に張り合おうとするなんて、お前くらいだぞ」
「別に張り合っちゃいねぇさ。あの人は頭で陽子を護る、俺は体で護る、その思いが同じでなけりゃ陽子を護りきれない気がすんだよ」
「わかったよ、そこまで言うんなら諦めてやる。ただ、主上がお前を大僕のまま留めておくことを惜しんでいることを覚えておけよ」
「陽子の奴はそんなことを気にしているのか、まったく俺が護衛をしている意味がねぇぜ」
桓堆の奴はくつくつと笑って酒杯を持ち上げた。
「お前は常世一の大僕だよ」
「そりゃ、いいな。目指すぜ、常世一の大僕をよ!」
俺も酒杯を持ち上げて、桓堆の酒杯を軽く叩いた。
翌日、政務が終わって陽子が内宮に戻ってくると陽子は俺を睨め付けた。
「なぜ禁軍への移動を断った?」
「なんだ、俺が大僕だと迷惑か?」
「そんなんじゃない!大僕に留まる限り、出世は出来ないと言っている。お前はもっと相応しい場所で活躍するべきだ」
「自分がどこに相応しいかは俺が決める。俺は陽子の大僕ってのが性に合っているんだよ。俺以外の誰が王宮を抜け出す陽子に付き合えるっていうんだ?それとも陽子はもう、下界へ降りるのには飽きたのか?」
「それも併せて、このままじゃお前の立場が一向に良くならないんだよ。このままでは、わたしは夕暉に会わせる顔がないんだ!」
陽子は横を向いて、両手を握り締めた。俺はそんな陽子の頭を撫でた。
「そんなことを夕暉が気にすることはないし、陽子に不満を持つこともない。陽子が俺じゃ不満だってんなら禁軍に行ってやるが、俺でいいんなら、大僕でいさせてくれ。陽子が大公を選んでも、ずっと見守ってやるからな」
「そんな者はこの先もいない・・・」
陽子は俺の袍を掴んで顔を覆った。
「無理するな。俺は何があっても陽子の最期まで見届けてやるよ」
「ごめん」
「謝ることじゃねぇだろう?」
「うん、ありがとう」
「俺が大僕でいいんだな」
「虎嘯以外の大僕はいらない。だから、ずっと傍にいて欲しい」
陽子はそう言って、俺の背中に腕を回し抱きついてきた。他の連中なら慎みを持てと説教するのだろうが、俺は十六で王として生きることを決め、生まれ育った故郷を捨て、親に会う事も諦めた陽子にはこうして気兼ねなく甘える人間は必要だと思っている。
かつて、陽子は俺が俺でいられる国を護ってくれたからこそ、
俺は陽子が陽子でいられる場所を護ってやりたい。
大した地位もなく、才もない慶の民の一人として、
いつまでも、何があっても、お前を護りたいと思う。