冬の旅 1

「銀葉」の続きになりますので、あちらを先にお読み戴いた方がよいと思います。
なおここで登場の原作のキャラは小狼だけになります。

船が芳の岸を離れてしばらくすると、船の舳先でうずくまっている彼を座員のひとりが捜しに来た。

「座長がおまえに演し物を少し教えるようにと」

誰がそんな事をするかとそっぽを向くと、ではとあっさり去っていった。
簡単に諦めた理由は明らかだった。食事の銅鑼が鳴ったが、彼の食事はなかった。
育ち盛りの少年にとって当然それは何より辛かったが意地になって船倉の隅に寝転がっていた。

そこへ別の座員がそっとやってきた。
老いた女だった。過酷な生活と屋外で過ごす時間が長いため黄朱の見かけの老いは早かったが、それでも座員の中でも一番年上なのではと思われた。

「あたしたちの仕事はそんなにいやかい?」
「いやだ」

じろりと睨んだ少年の剥き出しの反抗心にも、老女は怯む様子は見せなかった。
「しかし朱氏の宰領〈おやかた〉にはもう会えないだろう。となればここで生きるしかないのではないかい?」

船板の向こうの波と船がたてる音が地響きのように辺り一面から響いてくる薄暗いその一画でも、女の声は快くよく響いて辺りの雑音に紛れず、俯いたまま声だけ聴いていると若い娘のようだった。
しかし顔を上げればやはりそこに見えるのは深い皺を刻んだ姿だった。

「あんたたちには悪いがおれはこの仕事はきらいだし、こんな暮らしはむかん」

船が港に着けば何がなんでも逃げるつもりだった。たとえ朱氏に戻れなくても、こんな仕事以外なら何でもする気だった。うまく黄海の近くまでさえたどり着けば剛氏にだって雇って貰えるかもしれないと思っていた。

「港に着けば逃げられると思っているのだろうけど、決して逃がしてはもらえないよ。みんな生活がかかっているからね。しかもそうやって意地を張っていると、余計に目が厳しくなるし、座の中でも居づらくなるだけ」

女にしてみれば旅芸人になりたくない子供など珍しくもなかったし、それに躊躇せず仕込むのは慣れた仕事であった。かわいそうと思うなら芸で生きて行けるようにしてやることこそがその子の幸せと信じていた。
ただここに売られた訳でもないこの少年の扱いには疑問を持っていた。これでは拐かしではないか。しかしそれは小狼の身の上を不憫がってのことではなく、同胞であるこの子の本当の宰領〈おやかた〉の財産を盗むことになるのではと思っていたからであった。とは言っても座長に逆らうことは出来ず、こうして少年を見ていればやはりそれなりに可愛そうに思わない訳ではなかった。

荒れた手が少年の黒っぽい髪に伸ばされて撫でた。
「それより、見た目だけでもやっている風にすればどうだい? 仲間のいない外の暮らしは私達には辛いだけだよ」

小狼は捕らえたばかりの妖獣のように頭を振ってその手を払った。それなりにいたわりのこもった仕草も身体に触れられるのに慣れない彼には不快でしかなかった。しかしそんな彼に老婆はさらに言った。

「私には兄さんがいてね、戯子〈やくしゃ〉稼業が嫌で逃げ出したんだ。その後もう一度会った時は、本当に哀れな姿だった。
やっと見つけた仕事は大きな邸の奄で、酷い扱いでさんざん働かされたようだった。家生になるとき朱旌まで割られたので辛くても仲間にも戻れない上、病気になったらもともと黄朱だからと放り出されたんだ」

そしてきっぱりと言った。

「逃げるんなら、何か外で身が立つような事を覚えてから、あるいはいい仕事を見つけてからにおし。朱氏になるったってまだひとりで働けないだろう」

小狼はじっと考えた。たしかに尤もな話しだったし、この女が一生懸命言っているのも確かに思えた。

「でもなにやっても怒られるばかりだ」

少年には芝居や踊りは無理なので、もっぱら雑伎〈きょくげい〉の添え物の練習をさせられていたが、人に見せるとなれば身が軽ければいいというものでもなかった。そのうえすばしっこすぎて的にすれば逃げだし、綱に登らせれば上で悪態をついて下りてこなかった。

「たしかにどうしようもない子だねえ」 くつくつと笑われた。
「しかし、おまえがここに来た時、実はおやと思ったんだよ」

「何だ?」

「その声さ、良い声をしているじゃないか。ぼそぼそしゃべるから気付かれてないだろうが、あたしゃその点耳が肥えている。ちょっと仕込んでみようかと思ったけど、一時の預かりもんと聞いていたから何も教えなかったが、しっかり訓練すればいい役者になるよ」

大きなよく通る声など黄海で生きる朱氏にとっては、非常の時に仲間に知らせる以外は命取りだった。だからこちらの座に入ると、狭い天幕や馬車の中で皆が一日中大きな声でしゃべり笑うのにうんざりしていた。
そもそも上索〈かるわざ〉でもいやなのに何が役者だ。おれは朱氏だ。

そしてまた頑固に船倉の壁を睨み続け、時々あちこちに潜り込んでは食べ物を失敬してなんとか餓えを凌いだ。



船を下りると、座長の言った通りしっかりと見張られていると分かった。
「ごめんよ、だけどひとりでも若い者が必要なんだ」
そう謝る者もいたし、年老いた座員から乏しい食物の分け前をそっと寄越される事もあった。
それに申し訳なく思わないでもなかったが、それも逃げるための腹ごしらえにと遠慮なく食べると、僅かな隙をついては懲りずに逃げ出した。



こうして先の不幸な出来事のため主だった女の座員と座長を失い、細々と続けた興行はいずれも不評で、同じ場所で二日続ける事も出来なかった。男と年寄りばかりになって芝居の殆どは出来なくなり、代わりに唄や踊りを増やそうにも華やぎに欠け、いくら芸達者が見せ場を作ってもどうしようもなかった。
客席からは不満の野次が飛び交い出口では銭を返せと騒ぐ客もいた。
そこで当座しのぎにでもとふたりの青年が女の役をさせられたが、失笑どころか客席は爆笑に包まれ舞台には果物の皮や塵が投げ込まれた。
旦角〈おんながた〉になるには若いころから修行が必要で発声から全てに違うため、もともと無理とは分かってはいたものの、女の座員を見つけられそうな大きな街に着くまでのつなぎにでもと、新しい座長の犯した愚挙のひとつだった。

そして無理に引き留められた小狼は手を焼かせるばかりで、何の役にも立たなかった。それは彼のせいだけではなく、彼に何をさせるかすら決められない座長の指導力のなさと座の混乱した状態のためもあった。
なにしろ、逃げ出しているか、縄で縛り上げ吊されていない時は、今日は皿回し、翌日は張りぼての馬の足にと引っ張り回され、そして明日が踊りの練習になるのか飯炊きの手伝いになるのかすらわからないという有様だった。だんだんヒステリックになってくる座員の間を人手が足りないと奪い合いされたものの、その誰も彼を仕込むことに真剣に取り組む余裕を持たなかった。
もともとやる気などない小狼が何ひとつ身に付けることが出来ないのも当然だった。

先行きへの不安と座長の采配への不信で座の中は険悪になり、その直中で小狼の反抗的な態度は皆の神経を逆なでし、そのくせ役に立たないとなれば無理に引き留められた子と分かってはいてもその扱いもつい厳しいものになりがちだった。

やがて外でも力の試せる者は座に見切りをつけ去ってゆき、いっそうやりくりがつかなくなった座は興行どころではなくなった。


そしてある朝、座長もいなくなっていた。

朱旌については原作ではほとんど具体的な情報はなく、京劇などの中国演劇とも当然違うため、様々なものを参考にしつつほとんどがオリジナル設定になっています。用語、読み方などかなり頻繁に差し替えています。