その前の日、ここまで馬車を引いてきた騎獣が死んだ。
さて困ったと頭を寄せ合い心配げに話す座員の中で、小狼だけが駈け寄りその肉の落ちた首を抱いて座り込んでいた。毛むくじゃらで醜く鈍い動きしか出来ない獣で、それでも小狼が大切に毎日世話をしていたここでの唯一の友達だったが、まともな餌も与えられず日々やせ細り、その日の野営地に着くなりついに倒れたのだった。
泣く訳でもなく、ただ黙って死骸を抱いている少年に構う者はいなかった。
――ごめんよ、俺たちが捕らえたばっかりに。でもそれが仕事なんだ。
妖獣騎獣に思い入れを持つなとさんざん宰領〈おやかた〉に言われていたが、今だけならきっと許してもらえるだろうと抱きしめていた。
――黄海に帰りたかったよなあ。
そして荷物を別の馬車に移し替えるため翌日もそこに留まった夜の間に、座員は座ごと座長に捨てられたのだった。
もともと急に亡くなった兄のものを金になるかと引き継いだだけで、座長としての責任などこれっぽっちも感じていない男だった。もはや座としてはどうにもならないと見て取ると、一頭だけなんとか元気だった騎獣に乗って、多くもない有り金すべてを持って消えたのだった。
天幕に茫然として集まった顔ぶれは、ほとんどが年寄りでここを離れられなかった事情のある者ばかりだった。他は自分から出て行こうとはしなかった者もその将来を案じた手で押し出されるようにしてすでに去っていた。
生き残る可能性の高いものを生かし守るのが黄朱の掟であった。 彼等を守ってくれるのは国でも地位でもなく金と仲間とこの掟だけだった。
辺りの空気は冬が近いとが告げていた。しかしこのままでは今年の冬を越す予定だった里までたどり着くのはとても無理だった。行き詰まった様子は隠しようもなく、このまま食い詰めた浮民が居着くのではないかと廬〈むら〉の眼は冷たかった。
顔を見合わせるばかりの、あるいは俯いたままの一同の中で小狼だけがほっとしていた。
沈黙の続くこのまにこっそり出て行こうと立ち上がったが、いくらこっそりでも気付かれないはずはないのに、誰も振り向かなかった。
ぽつんと声がかかった。
「まだ縫いかけだけどね、褞袍が私の荷にのせてあるから忘れず持ってお行き。寒くなるよ」
出口まであと一歩のところでそれを聞いていた。
「竈に芋が少しあるよ」
また別の声が言った。
それらは嫌がる彼に襦裙を着せ台詞や踊りを仕込もうとした嘗ての花形たちだった。
結局どの座員も見捨てた小狼だったが、女が自分たち年寄りだけになった彼女たちは諦めるわけにはゆかなかった。
日に焼けてはいけないと日中は被り物を被せて、痛がる少年を皆で押さえつけて毎日毎日髪を梳き、さらにはなにやらべたべたしたものを塗りつけてはまた梳いてを繰り返し、黒っぽい髪に鳥の羽のような艶が出るまで梳いては結った。さらに顔や手をごしごしと真っ赤になるほど擦り上げた。日常も慣れるためと裙を脱ぐことを許さず、反発してわざと脚を広げて座る小狼を叱り、立っても座っても食べる口の開け方にまで、一日中誰かが必ず付き添ってつきっきりで指導した。
出来の悪い旦角〈女形〉を引き立てごまかすために、それに付き添う小旦〈少女役〉が必要で声変わりをしていないのは彼だけだったが、よりによってなんだって俺がと相変わらず小狼は反抗し続けていた。
――こざかしいあんたには、小旦役はぴったりだよ。
たしかにおっとりした女主人公の世話をしたり世間知らずの恋人との間を取り持ったりという役柄は、身軽な彼にはそれなりにあっていたかもしれないが、そもそも旦など出来るはずもなかった。
ここに馴染めないながらも多少はあった仲間という気持など、今の彼にはとうになくなっていた。唯一の友だった騎獣もいなくなったここに彼を引き留めるものはなかった。
そしてここに集まっている皆にとっても座として立ち行かなくなった以上、彼など無用の存在。早くひとりでも居なくなればそれに越したことはない訳だ。
そのせっかくの待ちに待った瞬間に、なぜ動けないのかと思った。
絶対今振り向いてはいけないと、たどり着いた扉代わりの幕を握り締めていたが、つい振り返った。
先程から全く動いていないその場面はすでにこの世で生き続ける事を諦めた者の生きながら葬られる姿だった。
この先を考えればたとえ死んでも人並みに葬って貰えるとは思えない彼等は、こうして今互いに弔いをすることで労り慰め合っていた。
それは小狼の眼に、嘗て黄海で仲間が次々妖魔に襲われ死んでいった姿に重なった。
小狼はなんとか彼等から顔を背けかけたが瞼をぐっと瞑った。
――俺は馬鹿だ、絶対狂っている
……でも彼らに必要なのは馬鹿で狂ったヤツかもしれない
そしてくるっと振り向くと怒鳴った。
「おい、とっとと荷を積み替えて出かけようぜ。こんなところでうじうじしていたってどうしようもないだろう。黄海だったらとっくに妖魔の餌になっちまってるぜ」
顔を上げた男女は皆ぽかんとしていた。
――ちえっ、やっぱり馬鹿をみたか
小狼はこのまままたこっそり面目を保って抜け出すタイミングを計った。
「ああ、そうだな」
ひとりの男が言った。近頃は脚が不自由になりもっぱら座長を助けて舞台の裏方の管理をしていたのだが、その不自由な足を庇うように立ち上がった。
その声に誘われるようにというより、置いて行かれるのを恐れたように他の者も次々立ち上がった。
小狼は幕にのばしかけていた手を止めた。
こわごわ振り向くと、先ほどの男を中心に皆がこちらを見ていた。何でもいい、命令してくれ、という声が聞こえるようだった。
冗談じゃない、あとは勝手にそっちで考えろよ、そう思っても捨てられまいとする者の執念はやっと得た導き手が薄汚れた少年であっても彼を離そうとはしなかった。
それは今まで力づくで彼をここに引き留め逃がさなかった以上の強さをもって彼がひとり出て行くことを許さなかった。
諦めた小狼は必死で頭を働かせた。次何すればいいだろう。ごくりとつばを飲み込んで、声が震えていないようにと祈りながら何か相応しい事を言わなくてはと思ったが、声が出なかった。
視界の端で女のひとりが声を出さず口を動かしているのに気付いた。
ぼそぼそとしか声を出さない小狼に発声を教えるために何度も彼の腹を平手で押さえ、握り拳で叩き、さらにぶすりとした顔を引っ張って大きく口を開いて笑顔で話すように仕込もうとした。
まさかこんな時に愛嬌出して笑えって言うんじゃないだろうなと思ったが、人の注目など浴びたことがなかったのですっかりあがってしまい、何を言われているのかもわからなかった。
そこでここしばらくしつこく言われていたあれこれを思い返し、なるべくさりげなさそうに腹に息を溜めるとおもいきり口を開けて言った……これで大きな声になるはず。
「まず荷物を歩いて運べるだけの量に減らそう」
自信に溢れて明るく言ったつもりだったが、実は無愛想が無表情になった程度だったが、それでも何も考えられないでいた大人達には充分だった。
「衣装類はなるべく持って行った方がいいな」
ひとりがひどく嬉しそうに言った。
常設の戯楼の座とは違ってもともと道具類は少なかったが、衣装はやはりそれなりにあり、壊れやすい楽器などをどうするかも問題だった。
しかし皆は慣れた仕事についてすることと考えることを与えられ、生き返ったように動き始めた。
こうした舞台に関する一式は僅かに残った座の財産だった。しかしこの先は老いた者ばかりで馬車を自分たちで引いての旅である。再び使うことのあるかどうかも分からない衣装など運ぶ価値があるとも思えなかったが、まだこの先があるかもと思えたこの一瞬、彼らの人生のすべてであるそれらを全部棄てることは出来なかった。
皆は小狼の後にぞろぞろついて外へ出ると黙々と荷を上げ下ろし始めた。
使う荷馬車は一番簡単で軽い一台だけ。騎獣がなくてはそれが限界だった。あとは全て捨てて行くのである。舞台のものに加えて冬を迎えて厚手の衣類だけでもなんとか詰め込もうと皆必死だった。
身軽に荷台によじ登って荷を受け取る小狼に下から声がかかった。
「娘らしく裾を気にするんだよ」
どっと笑い声が起きた。本当に久しぶりの笑い声だった。
――やっぱり俺馬鹿だ
ひとり小狼だけが笑っていなかった。