冬の旅 6
冬も一番寒い時期を迎え、小狼にとっては息抜きでもあった余所での興行もなくなり、一座は小屋に籠もりがちだった。
そして夜の遅い生活に疲れの取れないまま寒さの中で目覚める一日の生活は、館と小屋の繰り返しとなり、吹きさらしの通い道が快いと思えるほどだった。
村人との付き合いもない真冬の寒村に、少年の気鬱を晴らすものは何もなかった。
仕事は減ったが、ある頃から館より与えられる食物が増え、薪炭まで持ち帰るように言われるようになった。おかげで無理な巡業に行かずに済んだのだが、それはここから少しでも離れたい彼には皮肉な事だった。
そしてこの世に黄朱への無償の施しなどないと知る仲間は彼の前では何も言わず、ただありがたいことだと言いながらそれらを受け取って来るのだった。
死に逝くのを待つだけの老いた芸人に囲まれ、一方で富はあってもすべてを過去に置き去りにしてやはりいつか滅するのを待つだけの男との生活は、少年の心を蝕み続けた。
たとえそれが最初は自分の意志で選んだ道であり、そのおかげで仲間を助ける事が出来たとしても、小さな身体と心に耐えきれないほどのもの負わせる事にはかわりなかった。そして夜の遅い仕事が、朝の光から少年を遠ざけたように、貧しくとも嘗ては持っていた何かを、力一杯今を生きようという力を、少年から奪おうとしていた。
ある日まだ少し中身を残したまま小狼はかたりと碗を置いた。
小さな卓を囲んでいた仲間の座員がどうしたのかとこちらを見た。
「具合でも悪いのか?」
こんな暮らしで病気もせずに済んでいるのはよほど丈夫で、さすが朱氏の子だと皆は思っていた。
小狼は首を横に振って、また取り上げた碗の中をつついていたが、ぽつりと言った。
「何か…教えてくれ」
「踊りなら新しいのを教えたばかりだが? お館はお気に召さなかったか?」
「違う、踊りだけじゃなくて、何でも、何もかも…全部」
座員は意外な言葉に顔を見合わせた。
こうして小狼は演し物を覚え始めた。
今までのように強いられた訳ではなく自分からしゃにむに台詞や歌詞を暗記した。いずれも書かれたものなどなく、すべて仲間が実際に演じて教えるわけで、弱った足で床を蹴って舞い、皺だらけの手を添えて楽器を奏でさせ、唄って聞かせた。
このまま座員を続けるつもりはなかったが、何かしていなければ、この狭い小屋で叫び出すか雪の中を裸足で駆けだすかもしれなかった。
明日の朝起きてこないのは自分かもしれないと思う者も、若い身体に一生かけて覚えた芸を残そうとした。何かに飢えているのは皆同じだった。
そしていつもは日なが炉端で背を丸めて時を過ごしている身体まで、なぜか彼に教えるその時だけはしゃんと伸びて所作を教える事が出来、弦をつま弾く指は力強く張りのある音を奏でた。
以前のように罰を与えることもなく、覚えが遅いとせき立てる者もいなかった。我慢強く何度でも繰り返して教える相手に、思うように身に付けられないと少年の方が苛立った。
それを老いた芸人たちは、慰め、励まし、僅かでも出来たところがあれば誉めて、また練習の相手をした。
ある夜また牀榻に手招きされ、小狼は滑るように近づくと塗り物をした小さな踏み台に足をかけ、くるりと寝台に背を向けて浅く座り、細い黄色い帯を解き始めた。
その時ふと紅をさした唇から覚えたばかりの唄が流れ出た。枕に頭をのせて天蓋を見上げていた男はそれを止める様子は見せなかった。
あの初めての相手の時と違い、彼には小狼に対して急ぐ理由も無理強いする必要もなかった。
しかしそれほど余裕を持ちながらもこうして彼を呼び寄せた時に見せる表情はひどく醒め、独り言を呟いている時の方がよほど寛いでいるようであった。そして小狼もそれに合いの手を打つ時にはあった相手への興味やどこか親しみにも似たものを感じることはなく、されるままに従順に振る舞いながらも、手で触れれば固く殻を閉ざす貝のようにその表情は冷たく頑なだった。
男も少年もどちらも互いに心を閉ざしたまま、眠れぬ夜の時間を過ごしていた。
「あまり早く仙になるのも後で困る。いやになって止めてから老いるのに時間がありすぎてな」
ある時そんな言葉を聞いたが、これまでの一年があまりに遠く思え、しかもこの季節が永遠に思える小狼にはそれは意味も分からない言葉だった。今は一日ですら彼には長すぎた。
そんな貝の口が小さく開いて唄ったのは、気の進まぬ相手に嫁がされ、知った人もいない街で若い女が小間使いに我が身の不幸を嘆く台詞で、こんな泣き言が言えるほど暇があるならいいご身分じゃないか、とうそぶきつつただ鸚鵡のように暗唱してきたものだった。
しかしここでこうして唄ってみれば、その言葉のやり場のなさが、恨み言をいいつつも父上さまと恋しがるその言葉が、胸のどこかに響き、そうだからこそ、ただ音として覚えようとしたのかもしれなかった。
少年のか細く単調だった声は、毎朝空腹のまま近くの川岸で一刻以上倒れそうになるまで鍛えられ続けて、こうして初めて閉ざされた場所で唄ってみれば、石の壁に包まれたその響きは小狼自身がこれが自分の声かと驚いたほど柔らかな響きを醸した。
「もう一度聞かせろ」
歌い終わって沈黙が垂れると、男はそう言って眼を閉じた。
引き抜きかけた髪飾りに手を添えたまま、小狼は再び薄い胸板から発した唄声でまだ少女とかわらない細い喉を振るわせた。
終わっても今度は何も声がかからないので振り返れば、男は安らかに眠りについていた。小狼は帯を締め直し髪飾りは懐に仕舞ってそっと立ち去った。
それからの夜は、覚えたものをたったひとりの観客にひとりで演じ続けた。
男は食事の座興は相変わらず他の座員に演じさせ、小狼には酌と上達の兆しを見せるようになった舞いくらいしかさせなかった。演じさせるのはいつも奥に下がってからだった。
ここにいるのは自分ではないと思いたい少年には、その代わりとして役になりきるのは驚くほど容易かった。
主人から命じられた簡単な用を、ちっとも言われたとおりに出来ない娘の言い訳ばかりの他愛のない笑劇の台詞も、演じるうちその裏に何か見つけかけたような気がして思わず語りを止めたことがあった。
「どうした」
「もいちど最初から」
「ああ」
街のあちこちでの少女の動きを心で追いながら冒頭から演じ直したそれが終わると、男はむくりと起き上がって牀榻の飾り板にもたれ、小狼を呼び寄せた。
「そうか、そんな風に人は笑うのか」
少し長くなった黒っぽい髪を撫でてやり、若い細い身体を抱きしめていたが、そのまま命じた。
「もう一度笑わせてくれ」
そうは言っても胸元から囁かれるその声を聞いても決して笑うことはなかったが、男は以前より少し安らかに、独り言を呟くこともなく眠りに落ちるようになった。
ある日、小狼は近くの小川の岸に張り出した一枚岩の上でひとり舞っていた。
長い水袖を両手に持って振るには小屋は狭すぎたので、ここで練習していたのだった。時々川沿いに吹き抜ける風が布を引っ張り巻き上げた。
どんよりした冬の空からはまだ陽差しと言えるほどのものはなかったが、それでも宙を舞う布の背景の空は今日はどこか明るかった。
そして休息しようとそばの樹にもたれて小川の流れを見ていた小狼は、いつも霜で銀色に光っていた岸に生える草に青みが刺しているのに気付いた。はっと背後の樹を見上げて枝を手に取りしならせた。そこには小さな青い芽がいくつもついていた。その小さな点のような芽に心が躍った。
「おい、春だ」
駆け戻った小屋の中で寒そうに身体を寄せ合って暖をとっていた一座は小狼の声にとっさに意味が分からず顔を見合わせた。
「出かけようぜ」
すっかり人数の減った座だった。この人数でいったいどこへ行って何をするのか?
小狼は外の山を指さした。
「それともあそこに葬られるのをここで待つのか」
ひとりの男が言った。あの失敗した旦で、ここに残った中では一番若かった。
「出かけるなら座長が必要だ。誰がする」
「そんな事は勝手に決めろ。俺の知ったことか」
「よし、おまえやれ」
「ばか言うな」
ちょっと気分がよくなっていたのに、馬鹿野郎。
「しかしここまで俺たちを連れてきて、ひと冬生かしたのはおまえだ。そのおまえが座長として行こうというならついて行く。座長として命令しろ」
「俺は朱氏だ」
「まだそんな事を。そう思うなら、なぜあの時ひとりで出て行かなかった」
「そんな事知るもんか」
実際自分でもずっとなぜと冬中思い続けていたのだった。こんな思いをするとは分かっていたはずなのにと。
「この子は充分やってくれた、もう行かせてやれ」
おずおずと声が割り込んだが、男はそれを振り返らず言った。
「おまえはあの時座長になったんだ」
小狼は周りを見渡した。何もないたった数名の集団がまだ子供の彼の下に集まっていた。
夕餉の後、近々出立すると聞かされた主は言った。
「馬車を引くのに騾馬をやろう。代わりにこの子は置いて行け」
――俺の値段は騾馬一頭か。上等だぜ。
しかし一座は互いに相談する手間も掛けずに断った。
荷馬車は自分たちで引けるが、この子の代わりはいない、と。
いつもは、権力者に媚び言いなりになる彼等のあまりにきっぱりとした態度に、小狼の方が不安になって主の顔色をうかがった。
「ではちょうどよい娘がいる、それを連れて行け。
この冬に親をなくしたのだが、里家はいやだし畑仕事も飯炊きもしたくないときている。器量は悪くないから、着飾って踊って唄う生活なら気に入るやもしれぬ」
どれほどこの座が若い女の座員を必要としているかを知る小狼は、さすがに身体を硬く強張らせた。
しかし一座はそれも断った。
「ここにいるのは本当に恩知らずな奴らばかりだ」
いつもより酔いの目立つ足取りで小狼を伴って奥へ下がる主は忌々しそうだった。
それから間もなくの朝、出発しようとした彼等の小さな荷馬車に一頭の騎獣が繋がれていた。それは小狼が世話をしてきたあの旄馬だった。力は少し劣るが前の騎獣とは比べものにならない美しい毛並みで、馬車を引くのが得意だが、こんな荷役ではなく個人用に使われる贅沢な騎獣だった。
驚き喜ぶ一座に厩の奄が伝えた。
持病があってあいつにしか世話が出来ないやっかいものなどくれてやれと。
一座にやるんじゃない、あいつにやるんだ。
そして一座が嫌になったらそれでとっとと逃げ出せと。
一同が不安げな声を上げるのを聞きながら小狼は旄馬を撫でてやった。
「そうさ、いつかお前と黄海へ帰ろう。でもとりあえずはここで旅を続けよう」
それを聞いて安堵する人々に囲まれて思った。
ひと冬夢中で稽古に励んでも、まだ実際の舞台で芸が通用する自信はなかった。
でも俺は今は朱旌なんだ。それならせめて多少でも芸を身に付けて朱旌だと胸を張って言えるようになってから抜け出そう。
今このまま逃げれば一生自分を恥じてゆく事になるかもしれない。
新しい門出に弾む若い胸の上で、懐に仕舞われた幾枚もの朱旌がからんと音をたてたようだった。黄海に戻った時に黄朱の里に葬られるはずだった。芳で逝った者、ここへたどり着くまでに亡くなった者、そしてここの冬を越せなかった者。それらに向かって小狼は心で声をかけた。もう少し待ってくれ。でもきっと届けてやる。
「出発だ」
よく通る若い座長の声に、半端ものの一座は元気に出立した。
長い冬も越え、おてんとさまは少しだけだが暖かく照っている。馬車を引く騎獣がいて、座員を見捨てない座長がいて、しかもそれは花形になりそうなかわいくて芸熱心な花旦じゃないか。
朱旌にとって、これだけあれば明るくなるには充分だった。
2005.10.28- 2006.01.06
この後にもう一点かなり後の時期の後日談が付きますが、「銀葉」から続く小狼の一年がひとまず終わりました。
ここまで書く必要があったんだろうかと書きながら思ったのですが、これよりずっと先の話を書いている間に、なぜ?どうしてこうなった、と、どんどん遡って次々と書いた話のひとつで、自然にその流れにのって書けば、こうなったとしか言い様がありません。
差し支えのありそうな部分を避けて書くことは出来たし、書き直したものもあるのですが、むしろ不自然なものとなって。
また閲覧に制限が必要ではないかと考えたのですが、やはりいろいろ考えた上で注意書きだけにしました。
ちなみにこの館の主は、最初はある原作の登場人物でした。ただ、全体を短くするために、またずっと先の話がどう展開するかまだまだはっきりしていないので、かなり変えてとりあえず無名のオリキャラとしました。