冬の旅 5

所用で出かけた地主は帰宅したものの迎えの者が見あたらず、冷たい風の中を走って冷え切った身体を早く暖めようと、厩番を探す手間を惜しんで騎獣を自分で厩へ連れて行った。とりあえず入り口近くに繋いでおくだけのつもりが仕切の向こうに気配を感じたように思い、足を忍ばせて囲いの前に立つと、誰かがこちらに背を向け騎獣の一頭に屈み込んでいた。その人影は厩の小さな明かり取りからは陰になって小柄としか分からず、しかもすぐに彼の気配に気付いたようで、ちらと振り向くと後退りしてさらに奥の暗がりに潜り込んだ。

「誰か、出てこい」
手を腰の剣に伸ばすと厳しい声で言った。余所者などいれば直ぐ人目につく集落で、ましてこんなところまでおいそれとは入り込めないはずであったが、騎獣はいずれもそれなりに高価でつれて逃げるにもよく狙われやすかった。

「わたしです」
それはこんなところで聞くとは思いもかけなかった声だった。
「……おまえか」
「はい」

確かにそれはここで冬を越している小旦の声だった。浮民や黄朱を置けば恩をあだで返される事はあり得たが、この子がそうなら残念だった。
最初に宿を請いに現れた時は、あまりに見え透いた下手な芝居にいくら旅回りでもと吹き出しそうになり、世間を知らぬ田舎者よとつけ込まれたかと思ったが、その態度にどこか必死なものがあり、騙されてやるのもこれまた一興と気まぐれで置くことにしたのだった。
とはいえ本当に騙されていたなら、こちらもずいぶん侮られたもの。しかし盗みの現場を押さえられた黄朱など、彼ならこのまま斬り捨ててもなんの咎めも受けないはずだった。


「こんなところで何をしている」
他に仲間の気配はなかったが、納めかけた刃をそのまま二人の間の光の射す所へ突き出しその切っ先を薄闇におぼろに浮かぶ白い喉元に当てて訊ねた。

「この旄馬〈ぼうば〉に薬草を与えていました」
刃を突きつけられても怯まず答えたのはあっぱれだったが、それにしても意外な言葉だった。
「薬草?」
足下に目をやればこの季節にも青々とした笹のような葉が散らばり、騎獣はそれをのんびりと噛んでいた。
「何か病か? もっと前で話せ。そこでは顔も見えぬ」
「山へ薬草を取りに行ったままの格好なので」

たしかに明かりが射すところに少しはみ出た脚はこの季節にも剥き出しで半袴姿らしく、聞こえてくる声と合わなかった。昼間たまに里人相手に演じているのを遠目に見ることがあったが、近くでは夜の灯りの下での花旦姿しか見たことがなかった。

「ではそのままでよい。で、どこが悪い」
「食べたものがうまく腹でこなれなくて溜まりやすいようなんだ。ここに来てすぐ気が付いたんで時々これを食わせていたんだ。明日にはさっぱりすると思う。餌とかを変えた方がいいと思うんだけど」

この秋に買ったばかりのそれはそう言えば時々ひどく苦しむ事があり、街へ行く機会があれば騎商に苦情方々治療方を尋ねてみようと思いながら、いつのまにか治ったようなので忘れていたのだが、言われてみればこの子がここへ来たころから苦しまなくなったような気がする。頭の古い厩番がこんな旅芸人の子の言葉などに耳を貸すはずもなく、助言をするどころかその隙をみて世話していたなら近づくだけでも苦労したに違いない。
急に子供の口調が変わったのは、役割を演じることを忘れるほどに本気で騎獣の心配をしているのだろう。
そして大人よりひとまわり小さな手が、明かりの射すところに横たわる蒼い毛皮の腹の上を解すように撫でさすっているのが見え、騎獣の方も膝から下を剛い毛に包まれた四肢を投げ出しすっかり安心しきった様子だった。

しかも少年は旄馬の様子に気を取られて、こちらの目が薄暗さに慣れるにつれてその姿が厩の板壁を背景に浮かび上がって来た事には気付いていないようだった。

黒っぽい髪は宴席では飾りを付けて芸人か花娘しか結わないような型にしていたが、今はひとつに括って垂らしていた。ずっと小旦をしていたにしては中途半端な長さで芸の拙さからみても最近売られた子らしかったが、それでも普通の少年の髪型に丸めるには長すぎるのであろう。
いつもは白く塗られた顔の色までは暗くて分からなかったが、半分伏せた顔はこの歳にしては整ってはいるが下卑た派手さはなく、紅のない唇は薄く、騎獣に話しかける時以外は引き結ばれ生真面目な表情を作っていた。長い睫の下の瞳は燈火の下で近づけば黄金色に反射するのを知っていたが、その瞳で旄馬を見つめる今は少女を演じて酌をしている時より優しげで、細く剃られた眉は騎獣を案じてか少し寄せられていた。

仕事でもないのに騎獣の世話をしたのを誉めて感謝すべきなのだろうが、その表情と手、そしてそれに厚かましく甘えている旄馬が妙に腹立たしかった。
この子は私だけを見て言いなりに尽くすべきなのだ。それだけのものは与えてある。

陰気な冬場の田舎の夕餉を賑やかしてくれればそれもよいかと置いてやり、ついでに寒々とした臥所も暖めさせようかと呼んでみたが、夜伽はまだ無理かと繰り言の相手をさせればその受け答えに思いがけない利発さをかいま見せることがあり、少し興味を惹かれ改めて床へ呼んだ事もあったがやはりそのままだった。

しかし今はそれとは違うものを感じ、ずいと仕切に入り込むと、少年の身を捕らえた。気持ちよく身体を撫でて貰っていた旄馬が邪魔が入ったと苛立たしげに鼻を鳴らし、小狼ももがいた。

「何…」
傍らの干し草の山に投げ出され抵抗した。
「どうした」
「あの…こんな姿をお見せできません」

必死で顔を身体ごと背けようとしたが体格に差がありすぎた。
「私は気にせぬ」
そう言ったが、あきらめ悪く転げ回る相手につい声をかけた。
「そんなにいやか」

――いやかって……くそっ、いやに決まってるだろ…だけど、だけど

一方男も内心躊躇いがないわけではなかった。納屋や厩でなど婚姻も出来ない家生など下々のすること、何もこの家の主である自分が、しかも毎夜臥所に呼んでいる相手をこんなところでと思った。
しかしここが自分の邸ならそこで目覚めたものを今更止める必要も感じず、彼の腕の中から半分抜け出したものの、崩れる干し草に足を取られそこにすっぽりと沈み込んだ身体を見下ろした。
薄っぺらな藍染めの衣の間からは夜彼が付けている安っぽい香りの代わりに騎獣の毛と甘い干し草の匂いに薬草の青臭さが混じった少し汗ばんだ子供の匂いがした。
こちらを見たくないのか見られたくないのか細い骨張った肘を重ねて自分の顔を被ったため今は見えないその瞳と同じような色の干し草の中で、薄い木綿の脚絆がずれ半袴の剥き出しの脛が寒そうで、冷えて手も足も赤くなっていた。こんな姿でこの季節の山に分け入って薬草を採ってきたのか。

それが獣であれ人間であれ自分の回りで何かが苦しむのを見ていられない者というのはいる。そしてこの子がそうならそれを利用することを躊躇わぬ者がいることを、これから世間の荒波の中でひとりで生きて行かねばならぬこの子はもっと早く知るべきなのではないか。男は自分勝手な都合から眼を反らしてそう考え手を緩めなかった。

「夜が……それに化粧や衣装、それが、それが俺を守ってくれてるから。今の格好じゃ俺は朱旌でもなくただの……」
「ただの何だ…」

やっとの事で食いしばるように言われた言葉も軽くかわされようとした。
たしかに街にゆけば伎楼も遊郭もあり、街の外れには貧しくそんなところに行けないような相手を引き込んで生業とする者までいたが、それらと朱旌に違いがあるなど気に掛けたこともなかった。 思いつく違いと言えばせいぜい個人の客に見せるだけの伎楼と舞台で大勢に向かって演じる戯楼の広さの差くらいだった。
ましてこの子と仲間はここに留まる限り彼のものだった。

「いやなどと言うのは遊び女の戯れ言、朱旌の逃げ口上ではないと思うが」
はっと少年が眼を覆っていた手の力を少し抜いた。

その言葉は男も意図しなかった事まで小狼に一気に思い至らせた。
…朱旌の逃げ口上…
――いつ俺が朱旌になった。都合のいい時だけ朱旌になるのか。

「おまえが拒めば、それは一座すべてに及ぶがよいのか?」
何を思ってかまでは分からないが、幼さの残る心が混乱しているのを見て取ると、男はさらに追い打ちをかけた。

……翔びたい
揺らいだ少年の心に浮かんだのは嘗て騎獣を追っていたころの自分で、黄海の上を駈けていた日々はいっそう遠くに思えた。



「もしおれが朱氏だったら」
これでもう勝負はついたと再び身を伏せた男の下で、為されるままになっていた少年の言葉に、この期に何を突然言い出すのかと思った。
「もし、朱氏だったら…朱氏だから妖魔に追われる毎日と分かっていても黄海への門をくぐれると思う。だからなれるかどうかも分からない王になるために黄海へ入る連中の気持ちなんか分からない」

あまりに突飛な話の行く先に戸惑ったが、何を言いたいのか考えた。
「朱旌だから相手が出来るというわけか」
無理矢理こちらを向かせた濃い琥珀色の眼の縁が少し潤んだように思った。

そこへ先ほどの旄馬が繋がれていた縄を囓りとって寄ってくると男の脇腹をつつき始めた。

「私の飼っているのは恩知らずな奴ばかりだ」
振り返って邪魔をしているのが自分の騎獣と分かると、すっかり気分の萎えた男は腹立たしげに立ち上がった。

「では紅を付ければ、夜になれば、否応はないのだな」
足下にまだ横たわったままの小狼を見下ろした。
「……はい」
「花旦が花娘と違うというならその言葉を違えぬ事で違いを見せて貰おうか」

少しもがいて崩れて滑り易い干し草の中から立ち上がった小狼は土を固めた冷たい厩の床に伏せた。
「ありがとうございます」
なぜここで自分が礼を言わなくてはならないのかなどという理屈は浮かばなかった。それほど心底ありがたかったのだった。それが相手には僅かな違いでも、少年にとってはそのほんの少しを越えればどうなったか分からないほどに追い詰められていたのだった。

干し草にまみれた黒い髪が肩から垂れ下がり藁の散らばる土の上に拡がるのを見下ろしながら、ゆっくりと衣を整えると主は出て行った。
「それから薬草は採ってくればその分の代金を貰え。私から奥の方に言っておく。
それと、そいつをしっかり繋ぎ直しておけ、これからは逃げても腹をこわしてもお前のせいにするぞ」

冷たい土の上にいつまでも伏せている少年にその旄馬が擦り寄ってきた。
それに手を伸ばして抱きしめると耐えていた涙がこぼれ、震えて少し緩んだ唇の隙間からくいしばった歯に流れ込み塩辛さを残した。冷えた身体に騎獣とその涙だけが暖かかった。

――朱旌なら出来るのか
先ほどの主の言葉が耳に残り、干し草だらけになった衣の前をかき合わせれば、芳で見た仲間の少女の最期の姿が、兵によって砂の上に引き出されたあの姿が再び目に浮かんだ。
あの日からまだ一年も経っていないなんて。

――だから朱旌はって言うなら言えばいい
俺だってあの官にそう言ったじゃないか。それでもあのひとは俺が朱旌だから抱いたんじゃないって言ってた。

あの時も今もおれは朱旌を見下していたんだ、仲間でもないあのひと以上に。自分が朱氏だってことを自慢して。でも他から見ればどっちも黄朱で。
朱旌じゃない、狗尾だと言い張ってそれが何になる。
子供らしさの失せた乾ききった笑い声に騎獣はさらに頭をすり寄せた。

でも、でも、おれは黄朱の生活しか知らないんだから、それなら自分がまだましだと思っている方だって思いたいのは当たり前だろう。

……でも俺は今は朱旌なんだ。

いや、朱旌ですらないんだ。ただの芸無しなんだ。