銀葉
エピローグ

小狼はその後何度もあの国官のことを思い返した。とはいってもほんの短い時間しか眼にしていないその顔などすぐに忘れ、それ以外の五感に残る何かを思い出としていた。
しかし年月はやがてそれすら彼の記憶から流し去り、それでもごく稀に遠目には萌葱がかった銀色にも見える髪に出会うと誰か知り合いだったかと前に回って顔を確かめたくなりなぜかと思うことがあった。

長い旅の後、少年は仙となり時を止め、それからさらに長い時間が過ぎた。

ある日書卓に向かっていると、書き終わるのを待っていたひとりの下官がじっと彼の衣を見つめているのに気付いた。

「何か?」

問われた官ははっと慌てて視線を上げて礼をして詫びた。
「申し訳ございません。ただお使いのその香がここでは珍しく、ある人を思い出させましたので、つい」
先ほど書類を手渡しした時に相手の袖からほのかに薫ったものに気を取られていたのだった。

「誰かと聞いてもよいのかな?私が知る相手だろうか?」

筆を置きながら訊かれたからかうような軽い響きに何を言いたいのかは分かったが、まだ若い女史は首を振った。

「いえ、ご想像になるような相手ではございません。それにこちらの者ではございませんのでお会いになった事などあろうはずもございません」

思い出したくないようでもありながらどこか懐かしむように語る少女に、つい彼も言わずもがなの事を口にしてしまった。

「これは私には合わぬと分かっている香であるし、おまえの言うようにこの国ではあまり流行らぬ。しかしなぜかこのように新しい事の始まりにあたってはつい使いたくなる」

彼が直接手がけることになった勅命による新しい企ての難しさも、香はそれを使う者を選ぶという事も理解している少女は肯いた。

「では、誰か親しい方の思い出に繋がるものでしょうか?」

思いがけない相手の話しに身分を忘れて少女もついのってしまったのだが、軽く訊ねたつもりの問いに見せた相手の顔に驚かされた。
仙のため見かけの年齢は三十くらいであろうが、彼女を見返したその顔から一瞬何かがその年月すら奪った。陰で鉄面皮と揶揄する者もいるほどに強かな官が、その下にこんなにも繊細で、しかしどこか健気さを感じさせる幼い面影を隠していたのか。
しかしすぐにそれはいつもの隙のない表情に戻り、今のはただの目の錯覚だったかと瞬きを繰り返す女史に、書き上がった物を手渡すと下がるようにと告げた。


受け取った王への書類を抱えて退室しようとした女史の背に声がかけられた。

――
そなたの国ではこんな名はよくある名なのだろうか?

言われた名には覚えがない。そう答えると下を向いて再び書き物を続けたまま、そうかと言われた。


女史は走廊を歩きながら、咄嗟に覚えがないと言った事に少し動揺していた。あれは故郷ではたまにある名。しかしすっかり忘れていた幼い時に同じ名を呼んだ事をあの時突然思い出したのだった。毎日が楽しくて、たまに父が家に連れてくる客に挨拶するのが楽しみだったあのころ。母の陰から飛び出して、遙かに背の高い相手の名を呼び、それに返事を返されればまるで大人になったような気がした。
嘘偽りなく生きて行こうとしていても、記憶の底に押し込めたものを素手で引きずり出されるにも似た恐れが言わせた嘘だった。

そしてやはり忘れていた場面のひとつがまた浮かんだ。

きらびやかな王宮の堂で豪奢に着飾った多くの人々に囲まれ、ひとりの男が王の翳す手の下に膝をつき青みがかった銀の頭を垂れていた。

「最も信頼篤き臣を州侯に任じるにあたって新たに名も与えよう。
朕が心をその政によく照らして忠実に励むは、天に輝く太陽の光を受け闇を照らすものの如し、そして民を思うその心根は清らかなる水を湛える山の如し。
よって天と地で輝くそれらから相応しき名を」

銀葉の章  −終−

2005.06.17- 09.23

お読み頂いてありがとうございました。
かなり長い流れのなかの最初の一編でしたが、途中で多少注意書きの必要な場面があり、なるべくさらりと読んで頂きたかったので、あえて登場人物の片方の名前を明記しておりません。
最初の連載の時は、小狼が誰かも最期まで伏せたままの連載でした。

女性向けのものとして書く予定はありませんが、このシリーズでは朱旌などに関してはあり得るという前提で書いております。
あくまでも設定としてなので最低限の表現だけになりますが、続きを読んで頂く場合はそれをご理解の上お読み下さい。