「仲間も減ってあれでは座もどうなるか、私で何かしてやれることはないか?」
男は少年の身を案じてくれた。
「ありがと、でも元の宰領〈おやかた〉がそろそろ良くなるはずだからすぐまた朱氏に戻れるんだ」
「そうか、朱氏がよいなら止めぬが。私の力では籍までは無理だがここで働かせる事くらいは出来るから一応考えておけ」
黄海にいて幸せと思ったことはなかったが、それ以外の生活を知らない彼は、この先の事など朱氏になる以外想像できなかった。所詮彼は放浪の民であり、しかも旅芸人の生活ですら窮屈となれば戻るべきところは黄海しかなく、ここにいてもいずれ血が騒いで飛び出したくなるのではという気がした。
なによりここでこの男の庇護の下で生きることは小狼が自由だけを財産とする黄朱ではなくただの浮民となることでもあった。
男の話からこの生活もそろそろ終わりかと考えていたある朝やって来たのは座長の弟だった。
じろじろと小綺麗な廂房を見回し、それから少年をじっくりと見るとにやりと笑った。
「つまり、俺たちが野宿していた間、おまけに可哀想な仲間がほとんど死んじまったというのに、おまえはこんなところでのうのうと美味いもんを食っていたんだな。丸々と太って見違えたぞ」
そしてずいと近づくと少年の腕をとり、またにやりと笑った。
「おまけになかなかいい匂いがして娘っこのようだ。まるで毎日風呂に入って毎日着替えをしているみたいじゃないか」
仲間が死んだ事も毎日清潔にして充分食べさせてもらっていることも実際そうなのだから何も言えなかった。
男はそんな小狼の顎に指を当ててぐいぐいとあちこち向かせて口を歪めた。
「小汚い餓鬼だと思ったが、垢を落として肉が付けばなかなか見れるではないか。兄貴もけっこういい買い物をしたもんだ」
「俺は買われたんじゃない、朱氏の宰領〈おやかた〉から預かって貰っているだけだ」
脂ぎった手を振りほどいて叫んだ。
「ふん、こんなところで何をしていたか考えれば、偉そうな口をきくんじゃない」
それに思わず赤くなった少年を見て、毛虫のような眉を上げた。
「あれ、試しに言ってみたらなんと当たったか。こりゃあ、あの旦那からはたんと頂かなくてはなあ」
「あいつに下手な事を言ったらみんな町から追い出されるぞ」
「ああ、それはもう構わない。調べも終わって皆の葬儀も終わった。あとは出発するだけなんで迎えに来てやったのさ。こんな所にいつまでもいたら日干しになっちまう」
そういえば日銭暮らしの一座がこの数日どうやって食べていたのかと思った。座長も座員の多くもいないとなれば興行も出来なかったはず。
「ああ、あのお役人が食うだけは配給してくれていた。調べで足止めしていたからという理由でな。しかし食うだけではどうしようもない。だから当座の駄賃にもうちょっと気前の良いところを見せて貰ったってかまわんだろう」
また少年は顔が赤くなるのを止められなかった。
盗めば罪だが、得る権利のあるものを逃さないのは当然の生き方の中で育った少年だったが、顔も知らぬ他人にも何をしてやろうかと日々考え働いているあの男との差を感じ、自分がどちらの側の仲間かという恥ずかしさだった。恥じることなどない、何も悪いことではないと思おうとしてもどこかが心の中でひっかかった。
「それより座はどうなるんだ」
話を変えたくなって尋ねた。
「ああ、座は俺が引き受けたから心配するな。減った女の分はまたすぐ補充すればいい。娘を売りたい家はいくらでもある」
それもこちらに金がなくては売るはずもなく、買ってもすぐに芸の出来る者などいない。座が元通りになるには何年もかかるだろうと思った。おそらく男にとってはあの官もとりあえずの金づるなのだろう。
「俺はどのみちこの先で、元の宰領〈おやかた〉と会うことになっていた。だから俺の事は忘れてさっさと出て行ってくれ」
この男の仕切る座に戻るのは気が乗らなかった。今にして思えば、あの座長も身内でありながらこの弟には気を許していない様子だった。
「そう言っても本当に朱氏に戻ろうとしているのかどうか怪しいもんだ。こんな結構な暮らしを辞めて妖魔の餌になりたがる阿呆はいない」
にやにやと言われた。
「しかし兄貴が預かった以上、ちゃんと宰領のところまで連れて行かないと死んだ兄貴の顔をつぶしちまう。とにかく明日朝早く出発するからな。なあに礼は言わなくてもいい。あっちから小僧のひとり食わせた預かり賃でも貰えるだろう」
今更死んだ座長の体面など心配するとは思えなかったが案の定のようで、騎獣も失い仕事のなかった宰領に迷惑をかけるのは忍びなかったが、宰領もむざむざこんなやつの言いなりにはならないだろうし、彼としても今まで食い扶持分は充分働いたつもりだったので、そう易々と思い通りになってたまるかと考えた。
しかし彼が持っているのは、ここでの雑用で稼いだ小銭だけ。考えてみればひとりで宰領のいる街まで旅をする金もない、となればとりあえずは一緒に行くしかないようだった。
ここの主に頼めばなんとかしてもらえるかもとその時ちらりと頭をよぎったが、すぐにそんな考えを頭から払った。命をかけて捕らえた騎獣を売る以外の金のやりとりを知らず、形のないもので糧を得る朱旌の生計すらどこか理解できないでいる少年にはどんなに思いやりある相手からでも施しだった。
「じゃあ、今から戻る」
新しい座長はいきなり立ち上がった少年をびっくりしたように見上げた。
「おいおい、旦那に挨拶をまだしてないぞ」
「家の誰にでも聞いてみろ、あの旦那はいつも帰りが遅いし帰らないことも多いって分かるぜ。先を急ぐんだろう」
そう言わず世話になったんだから挨拶くらいして行けとしつこく言われたが、それに構わずもらった僅かな着替えをまとめると、家生のひとりに伝言を頼んだ。
最後に彼に会えないという心残りはあったが、あっけない別れは彼の人生では一番当たり前の人との関係だったと思おうとし、またおかげで情けない仲間の姿を見せずに済んだ事に感謝した。なにより彼に面と向かって別れを告げる自信がなかった。
あの事件以来初めて小狼は邸の外へ出た。
一歩出れば人の雑踏の音と匂いと暑さに包まれ、木陰の多かったあの家では忘れていた熱気と通りの砂埃で辺りは霞んでいた。
それは黄海を出て街に戻った時に少し似ていた。
彼の生活は不安定で、黄海でも街でもいつ何が起きるか分からない毎日が続くのが普通だった。
この家に留まる限りあの男の力で保護されていた事は分かっていた。また男はほとんど家にいなかったのに、その穏やかさに包まれている事も感じていた。いつまでも続くはずがないと分かっているのに、ここでのそんな時間は今まで知らなかった時間だった。
それを断ち切るには余程のきっかけがないと難しかったはず。この虫の好かない新しい座長は充分その役目を果たしてくれた。
これで元に戻った、元の自分に戻れる、そう自分に言い聞かせ小狼は振り向かず大途をずんずん歩いた。
まともな座員がいないため、金になるほどの興行も出来ないまま短い旅を続け、一座はなんとか船に乗ることが出来た。小狼は港に着いてからもあちこちに用事を言いつけられて走り回っていたので、ほっと一息ついたのは船が出発してからだった。黄海への門の開く町で待つ宰領に会うには海を渡るしかなかったが、船での旅立ちというのは旅暮らしばかりの少年にもどこかもの悲しさを感じさせるものであった。
手すりにもたれて遠ざかって行く町を見ていた。
そしてその彼方に住むあの男は今頃どうしているだろうと思った、この時間なら当然府第で仕事中だろう。いやあの男なら書卓に向かっているだけではなく、自分で街へ下りて立ち働いているのかもしれない。
故郷も持たないのにたった数日いただけの街に望郷の念に近いものを感じつつ、同じように船縁で岸の方を見やる人々の話し声を聞くともなく聞いていた。
――この国も先が怪しいな
――ああ、日照りが続いてカラカラでまいったぜ、そのくせ洪水はあちこちで起きているし
――おてんと様に嫌われた国なら、もうすぐ来ることもなくなりそうだな
日照りと洪水には旅でこの国を横切ってきた少年も気付いていたが、それが国の興亡に関係するとまでは思い至らなかった。これからあの官はさらに多くの仕事を抱えることになりそうだった。
邪魔にされた朱旌もそのうち寄りつかなくなるかもしれない。どのみち朱氏に戻る彼にはこちらへ来る事など二度とないだろうが。
そのままぼんやりしていたが、ふと周りの話しが耳に入り顔色を変えた。
急いで座長を探しに行った。
「座長、船を間違えているぞ」
「これでいい」
たいへんな事を聞かされたはずなのに驚きもせず、座長は寝そべってひとりで早々と酒盛りを始めていたところを邪魔されてむっとしただけだった。船底の安い船室はもう空気が澱み始め、そこに酒の匂いが混じると船酔いになる前に吐き気がしそうだった。
「だって、俺は黄海へ行くのに、この船は方向が全然違うじゃないか。これじゃあ開門に間に合わない。もしここで会いそこねたら、宰領には二度と会えなくなる」
必死で叫ぶ少年を男は冷たく見返した。
「それはそれでいいではないか、このままここで働かせてやる」
「俺は朱氏だ。朱旌は今だけだ」
「それがどうだというんだ、同じ黄朱なのに、俺たちを馬鹿にしやがって、お高くとまった朱氏の小さい旦那」
ふんと鼻で笑った。
「いくら偉そうにしても、自分で門まで行けなきゃ芸人をするしかないって事さ」
「騙したな」
顔を真っ赤にして怒る少年を男は相手にしようともしなかった。
「ああ、騙したさ。本当なら芸無しのおまえなんかやっかい払いしたいところだが、こう人がいなくては芝居も出来ない。おまえみたいなのでも、代わりが集まるまでのつなぎにするしかしょうがないだろう」
実際残った座はすっかり華やぎを失っていた。また妻や娘を亡くした者もいて、この旅の間もほとんど会話らしい会話もなく、若い者まで沈みきっていた。
「船にいる間は好きにすればいいが、陸に着いたら逃げないように見張っているからな。他のヤツに頼んでも無駄だ、皆の生活が懸かっているんだから。そのうち役者が揃ったらすぐに放り出してやるから、それまでの我慢だ」
そう言うとまた酒を飲み始めた。
怒りで頭がいっぱいになり、でもどうすることも出来ず船室から出て行くしかなかった。それでも何か言えないかと振り返れば座長はもう用はないとばかりにごろりと向こうを向いて寝ころんでしまった。
小狼は再び船縁に立って、手摺りを指が白くなるほど握り締めた。そしてもう見えなくなった陸地の方を見つめた。あの街からも黄海からも離れて行くこの先に何があるのか、想像もつかなかった。