これほど長く興行できる町は十二国でも限られていたがそれも終わり、一座が旅立つ日が来た。芝居の客足が伸びるのは秋を過ぎたこれからと分かっていても小屋付きの座がもうすぐ戻って来るので引き払わなくてはならなかった。
最期の日、木蘭座は小狼を主役に新作を披露した。
ここしばらく場面ごとに分けて少しずつ試演して来たのがやっと仕上がり、初めて全幕通しで演じる事が出来たのだった。
殺された父親のあとを継いで義賊を率いる娘首領に扮した小狼は、長い紅色の髪を結わずに高く括り上げ、腰を被う長さの抱衣を皮紐で締めていたが、手に持つ父親の剣が大きすぎるため、ひどく華奢に感じさせた。
しかし大鑼小鑼が勇ましく響き渡る中、不埒な奴らを征伐せんと王宮から派遣された禁軍の兵を次々とかわし、髪をなびかせ舞うようにその大きな剣を振るうと、肌に貼り付く薄い布越しに子鹿のような肉体が、舞台を見守る客の前で躍動し武場を演じた。
そして切り崩した敵陣の中心に立ち竦む男の喉元に下から切っ先を突きつけると、驍宗と練習を重ねた武戯はその瞬間見事に決まり、割れんばかりの叫好に包まれた。
小狼は一座の全員がその成功を味わっているのを感じ、剣先を突きつけられた奸官までが瞳を輝かせているのを見つめながら亮相を保っていたが、自分も興奮のあまりつい剣の先が揺れがちで、これが真剣なら相手は傷だらけになるところだった。
そして喝采が収まるのを待って剣をいったん納めると、胸元から状紙〈告訴状〉を取り出し両手を拡げて掲げ持つと、彼女の両親を含む多くの人々を苦しめ無実の罪で処刑したその奸官の過去を、取り囲む王の兵にも聞かさんと、とうとうと述べた。
その声はいままで娘を演じてきた時のただ甘い声とは違う伸びやかで張りのある声で、しかも口調はなめらかで、阿選から学んだものが生かされていた。
こちらに来てから彼の未熟な節回しのぎこちなさをけなしてきた戯迷らも、そのせりふ回しに、自分たちの批評が聞こえたために違いないと皆満足した。
そして奸官がついに膝を折り屈すると、小狼は歓びに湧く民衆の中で舞台正面を向いて剣を振り上げ、亡き両親や仲間に勝利を告げた。
大きすぎる剣を掲げたまま紅色の髪を顔を振ってはね除けると、細い喉から続く胸元がこの夏の研鑽の結果を無事披露できた興奮で紅潮しているのが見えた。
割れんばかりの拍手に包まれたその夜、唯一彼のその高揚感を損なったのは、大切な師匠でもある友人二人のために用意してあった席が最期まで空席だったことだった。
舞台の後、名残を惜しんでくれるひと夏の贔屓客と挨拶をしながら、明日からまた一から始まる浮き草暮らしへの不安を考えないようにしていたが、その後には早朝の出発のため遅くまで荷造りがあり、小狼には帳簿の仕事もあって、それ以上思い煩う余裕もなく明かりを灯して書き続けた。
さすがに収入は今までとは段違いに多く、新しい衣装や道具も揃える事が出来た。その上この座を率いて初めて当分の食費にも余裕が出来たのが、座長としてはなによりありがたく嬉しかった。
それもやっと片づき衾に半身を潜り込ませようとした時、物音に気付いて振り向くと閉じたばかりの入り口が少し開いて阿選が顔を覗かせた。
「すまない、こんな時間に、まだ灯りが見えたので」
「今夜来なかったので、もう会えないかと思ってた」
「急に主上が宴を開かれて。せっかくの新作披露に間に合わなくて済まない」
「仕事じゃしょうがない」
そう言いつつ、背後を窺ったが、人影はなかった。
「驍宗殿は?」
「出る時見かけなかったので、待つ時間が惜しくてね、明日こちらまで迎えに来るように伝言を残して来た」
その意味するところに溜息をつくと、小狼は寝床から抜け出した。
「こんなところでよかったら横になってくれ。夜は冷える」
北の国は夏でも夜は冷えた。
「それはいけないよ、私が勝手に押しかけたんだ。でも今からじゃ一度家へ帰れば明日の出発に間に合わないのではと思って」
「おれたちはいつもは天幕がせいぜいで、野宿が当たり前。常設の小屋暮らしなんてのは初めてだから、どこででも眠れるのも芸のうちさ」
「うん、じゃあ一緒に寝よう」
なにか寝床になりそうなものを探しに行こうとした小狼はそう言われて驚いて振り向いたが、阿選は勝手に寝支度を始めていた。
着替える間も惜しんで駆けつけた阿選は王宮での衣装のままだったが、それをぽいぽいと脱ぎ始め、床几に放り出した衣の裾が砂埃にまみれるのを見た小狼はあわててそれらを拾い集めた。
そして見た目ばかり派手な舞台用の衣装と違うその重さと手触りを指で確かめ、人目に触れないようなところまで刺繍や細かい細工を施されたたそれらを、今度衣装をつくる時の参考にしようと見ながら、慣れた手つきで畳んだ。
身軽になって固い寝床にこだわりもなく先に潜り込んでいた阿選は小狼が何をしているかに気づき、申し訳なさそうだった。
「ごめん、そのままでいいよ」
「自分で畳んだことなどないんだろう」
「うん」
薄っぺらな衾から覗いているのは昼間以上に無邪気な顔で少し眠そうだった。
しかし衣を片づけ近づいた小狼のために身をずらせて場所をあけると、ぱっちりと眼をあけてしゃべり始めた。
「君は新作を仕上げたようだが、私の方は教えて貰った天網の方がまだまだで、見せられなかったのがやっぱり残念だ、というか悔しいよ」
「新作といっても以前からあった作品を手直しした使い回しだ。でもおかげで武旦が勤まったので満足だ。見て欲しかったな」
「でも練習はずいぶん見せて貰ったから」
また少し後ずさって少しでも小狼の寝る場所を広くしようとしながら、阿選は言った。
「今度戻って来るまでには君の座に小屋を持たせてやれるようになっておくからね」
諦めて言われるままに横たわりかけていた小狼は再び衾にかけた手を止め、ちらりと寝床の先客の様子を窺ったが、阿選はいつもに変わらず屈託ない様子だった。
常設の戯楼は旅芸人の夢だったが、大きな街にしかなく、土地も建物も持つことを許されない身分ではたとえ金があっても自力では無理だった。
また定住するだけでも天地の下で自由であることすら捨て、だれか有力な後援者か小屋主の庇護を受けなければならなかった。
それはちょうど館第での家公と家生の関係だった。
つまり小屋を持たせてもらうということは、小狼が阿選に所有されることを意味した。しかし彼なら悪意や非道な事から思いついたものではないだろうと、好意から出た言葉として素直に受け取ることにした。
「それはありがたいけど、そのころにはおれはとっくにおいぼれて老生しか出来なくて、お前は相変わらず王宮一の美声なんじゃないか?」
「少なくとも戦場に相応しい歳にまではなるつもりだし、顔が刀傷だらけになっているかもしれないよ。腕が一本なくなっていたりして」
その言葉に小狼は、また半身を少し起こして並んでいる顔を覗き込んだ。
「でもそうやって自分の身体と力で建てた戯楼で君が演じてくれるなら楽しみだよ」
こちらをちらりと見た阿選は自分の夢が本当に嬉しそうだった。
「木蘭座を鴻基一、いや戴国一の座にしよう。あんな柳の座なんかに負けないような」
「なんだかその勢いではそっちが座長になった方が良さそうだな」
ふたりはふふっと笑いあったが、小狼は少し顔を引き締めて尋ねた。
「もう決まったのか?」
「今夜父には話すつもりだったが、急な宴でその機会がなくて」
父親も王もそう簡単に許すとは思えなかったが、明日ここを去る彼には関わりのないこと。励ます義理も止める権利もない。
「隻腕の武人か、それじゃあ戦は大変だろうから、本当にうちの座長をして、唄か踊りでも教えるかい?」
「ああ、そして老生の花形をもっともっと鍛えて磨いてやるよ」
小狼は阿選の妥協のない教授ぶりを思い出して大きなため息をついた。
「でもそれならますます戯楼を持てるようにがんばっておかなくては」
またふふと笑う彼に合わせて小狼も笑った。
「いろいろ…教えて貰ったな」
阿選は今度はしみじみと今まで過ごした時間を振り返るように静かに言った。
ひとりにも狭い寝床でくっついて寝ていたので、その言葉に返事をしようと小狼が横を向けばすぐ目の前に阿選の顔があった。
「教えた事なんて朱旌なら誰でも知っているような演し物の台本くらいさ。こっちこそ本当にありがたかった」
「ううん、それだけじゃないさ。今までと違うところで毎日過ごせたおかげで、自分を変える踏ん切りがついた。今度は自分で決める番だ」
自分の歳すら自然に任せることも自分で決めることも出来なかった少年の言葉だった。
「
俺があんたの人生に関われる事などこの先あってもずっと先のこと。お互い損も得もない。そんなやつの事なんかさっぱり忘れて、自分のしたいことをすればいい」
やはり何も選ぶ自由を持たない少年にだけ言える言葉だった。
「そういう相手を待っていたんだと思う。私のまわりはどこもかしこも関わりがありすぎる者しかいなかったから」
ふたりは肩を寄せ合い何の飾りもない天井を見上げながらしゃべっていた。
殺風景であっても阿選はこうした天井すらないところで眠った事などないはず。軍人になれば戦いに出て野営することもあるだろうが、そんなところで眠り、敵に刃を向ける彼が想像できないのは小狼だけでないはず、誰からも反対されるに違いなかった。
「なるべく早く主上にお願いして軍に入れるようにしてみる」
「だけどあんたの舞い姿を見れなくなるのは残念がられるだろう」
「いつもいつも遠くの戦いに出ている訳じゃない、もし禁軍なら通常は王宮詰めだ。そうなれば春官でなくったって舞わされるよ。あの主上を楽しませるにはどんなに沢山楽師がいても足りないくらいだから」
見たこともない彼には想像も付かないほどに豪華に違いない王宮で舞う阿選を想像しながら、そして耳元でとりとめなく話す彼の声で唱われる歌を想像しながら、舞台と荷造りの疲れで小狼は眠りに落ちていった。
「小狼、小狼、寝てしまったの?」
最期にそう言われたように思ったがあまりの眠気にそのまま眠りにつき、少し擦り寄った身体と伸ばされた手がふたりにかけた衾の襟元を押さえ寒くないようにとくるんでくれるのを感じた。
騎獣に寄り添って眠った事はあっても、友と呼べる相手と人の温かさを快く感じて眠るなど小狼には初めての夜だった。若者に相応しい軽く甘いがやはり高価に違いない香が小さな房に薫った。
翌朝日の出と共に目を覚ました小狼は、傍らで眠る阿選をそのままにそっと起き出して最期の準備にかかった
しばらくすると眠そうな阿選が起きてきた。
「ごめん、寝過ごした。最期に一回手合わせしたかったんだけど時間はもうない?」
忙しそうな周囲に遠慮がちに、足下の砂につま先を突き立てながら言った。
「俺もやりたいが、把子〈武器〉なんかも昨夜のうちに荷造ってしまったんだ」
小狼は馬車の奥の把箱を残念そうに見た。あれを出していては出発が遅れる。
「それならこれがある」
阿選は剣を差し出した。
「全体を包む歯止めの被いを付けさせたので舞台でも使える。普通のより一回り短くて細身なので、娘役にも合うだろう。軽いから旅の護身にもいいかと思うけど出番のないことを祈るよ」
「くれるのか?」
「うん。これは主上に頂いたものだが、これからの私には小さくなりそうだから」
王からの拝領品と聞いて伸ばした手をちょっと止めたが、阿選は構わずその手に押し込んだ。
それは一つの鞘に二本の剣が入った双剣で、それぞれに一つずつ美しい碧の石が嵌め込まれていた。
小狼はその見事な細工の施された細身の剣の片方を鞘から抜き払うと、朝の陽にかざした。
「この国はこの石のおかげで豊かなんだ。これは琳宇というところで採れたものだが、いつもいい物はすべて王がお買い上げになるので、これも小さいけどきれいだろ」
いったいどれほどの値のものかと、その価値に小狼はむしろ不安になったが、阿選はさらにその根本に嵌め込まれた銀の装飾を指さし説明した。
「そしてこれは王からの拝領品であるという印だ、この国の領内なら旌券の代わりとまではゆかないが、これである程度の保護は受けることが出来ると思う。少なくとも宿泊地には困らないと思うよ」
朱旌にとってはそれは石の値段に負けない価値ある事だった。
「じゃあ、時間もないだろうから、早速少しやろうか」
阿選は、もう一方の剣を自分で抜くと数歩離れて立った。
向かい合いゆっくり合わせた二本の真剣がいつもと違う高い音をたて、その快音に二人の少年はにやりと笑い合うと、改めてさらに離れて立った。
カン
少年ふたりが楽しげに剣を振るうのを、まわりの座員は片づけの手をとめて見ほれ、そこへちょうど到着した驍宗も一緒に見物することになった。
その姿は舞台でも王宮でもめったに見られない、驍宗ですら思わず見ほれたほどの美しい姿だった。毎日一緒に練習している姿はいやほど見てきたが、今日はそれとは違う歓びに溢れていた。
王宮一の少年楽師と旅芸人の花形は、どちらもまだ細身のその身体にひとりは将来への夢と悩みを持ち、もう片方は将来どころかただ日々の暮らしに追われているとは、その姿からは誰もうかがい知る事は出来なかった。
阿選の希望を聞かされてはいても、驍宗はこの少年は実戦はとても無理と思い込んでいた。剣を持たせればさすがにどんな動きも器用にこなしたが、剣を持つのとそれを実際に人に振り下ろすのとではあまりに差があった。
が、この真摯に剣を振るう姿に少し考えを変えるべきかと迷った。
生きるか死ぬかしかないところへつれてゆく気にはやはりなれなかったが、激しい戦場だけが武官の場所ではない。王宮になら彼に相応しい剣を持つ場もあるだろう。
王がこのお気に入りを手放すはずはないから、その身辺警護をさせれば無骨な者の目障りな場にも相応しく、これほどよい人材もないかもしれないと思い至った。
その上、考えれば阿選は穏やかな外見に誰もがつい見逃してしまうが、もとから他のどの少年より芯の強い性格だった。
そんな事を考えながら彼が見ているふたりに名残は尽きなかったが、今夜の宿を考えればもう時間はなかった。
自分の身分も役目もひととき忘れ、夢中で楽しんでいたためか珍しく額から滴を垂らす小狼に真っ白な手巾が差し出された。
何も言わずそれを受け取った小狼に阿選は言った。
「がんばろう」
「うん」
一番秋の訪れの早いこの国なら、早々と穫り入れも始まり、道中もしばらくはその祭りでの仕事も当てに出来た。それから海を渡ってやはり刈り入れを追って南へ下るつもりだった。そしてこの夏の蓄えを使えば、今年は冬越しの小屋を借れるかの心配はなさそうだった。
しかしその後の春を迎えれば、その先はまたどうなるか分からなかった。この顔ぶれでは毎年戯楼に招かれるとは期待できなかった。
今ここを離れた瞬間、再び小狼は頼るもののない根無し草となるのだ。
これから十二国を巡り再びここへ戻って来て逢える日があるかどうかも分からない相手の乗った去って行く馬車を阿選はいつまでも見送っていた。
そして通りの外れの曲がり角で御者席の小狼が幌越しに振り返り剣を持つ手を振るのが小さく見えた。
紅の髪が揺れ、手に持って振る剣の碧の石がきらきらと輝いた。
木蘭座の章 −終−
2006.06.23- 09.22
PCの交換にサイトの引越まであって、多難な連載でしたが、なんとか終わりました。
いったん中断すべきだったのですが、止めると絶対そのままになると別の連載で懲りているので無理に続けました。少し心残りなまま出した章はのちほどこっそり手直しの予定。
またシリーズも二年目になり、ちょっと耳慣れない舞台用語も増やして自分でも趣味に走りすぎたかなと思うくらいだったので、少し読みにくかったかも。
心ならずも朱旌に、しかも座長になってしまった小狼の娘座長時代の一番幸せだった夏は、得たものは多く、それはほとんどは阿選という少年の友情のおかげでした。
こんな阿選ってあり?と思われた方も多いでしょうが、原作でいくらでも悪口を言えるはずの李斎ですら、一緒にいた頃の阿選については何ら不快や不信を感じる事がなく(見る目がなかったといえばそれまでですが)、かいま見えるのは、有能でまじめで穏やかな能吏のひとりで、驍宗に覇気で負け、王気を持たなかったため神とならず人として、嘗ての同輩に仕える事となった男でした。
そして驍宗にひどく似ていた、そして驍宗が王となっても彼だけは丁寧に扱われた、という文にそれがどんな意味があったのかと考えたり。
またある時、ふと浩瀚が個人としてあるいは官吏として理解し合え親しくなるなら驍宗より阿選なんじゃないかと思ったのです。
もちろんその時はこんな形で出会いをさせるとは思わなかったのですが。
さて朱旌として苦労をしてきたので、少し穏やかな時期を過ごしてもらった小狼くんですが、現役の王や将来の王に加えて、仮王(の卵)や偽王(の卵)など、楽俊を上回る出会いを重ねて、胎果の王の立派な冢宰になるために、この後も旅は続きます。
でもとりあえずこれでだいたい朱旌としての小狼の感じは書けたかなと思っています。前回までは舞台どころではない時期の話でしたから。
今日は日中は三十度近くなり、少し湿気も多かったのですが、それでも風はさわやかで、通勤途中で出会った人も半袖と長袖が混在しており、夏が終わり秋が来たと実感する一日でした。
そうした日に無事終える事の出来た三人の少年の夏のお話を、おつきあい下さってありがとうございました。
特にこんな作品に、連載中リアルタイムで拍手をしたり感想をお寄せ下さった『数少ない』ありがたい皆様に、うれしいなの満面の笑顔(にっこり)で深い感謝を。
たま