話しは途切れることなく続いていたが、いつしか小狼は側の壁に寄りかかり、うとうとしたようだった。しかし重い衣装と不自然な姿勢では眠り込む事も出来ず、はっと目覚めて隣室を覗くと、その僅かな間に驍宗もすでに寝入っていた。小狼は榻からはみ出しそうな身体に傍らの薄布をかけると、衣装を簡単に整え、灯りを吹き消して部屋を出た。
明かりの落とされた回廊に出ると、少し崩れた髪をなでつけながら遠くに見える常夜灯のかすかな明かりに向かって歩き始めたが、物陰に気配がした。
「どうした、もう休んだんじゃなかったのか? こんな遅い時間に」
短い眠りに一日の疲れを誘われ振り返る元気もなく、ただ立ち止まって小狼は背後に声をかけた。
白っぽい姿が柱の陰から現れた。
「気付かれたか」
相手も疲れているのか、いつもとは違い妙に平たく色のない声だった。
「客の相手をして貰うのはありがたいけど、驍宗は客ではない。して貰えるならもっとふさわしいお客様がたくさんおいでだったんだけど」
まだ背後に立ったままの阿選には小狼が濃い化粧の下で表情をこわばらせたのは見えなかったが、言いたい事がここで待つうち貯まり過ぎていた。
この夏、小狼と毎日のように舞台や芸の話を交わしてきた阿選は、今日も柳の戯班を一緒に見て忌憚なく語り合いたかったが、父親と大切な客のそばを離れるわけにはゆかなかった。
その上肝心の舞台が始まっても小狼が無粋な客に足止めされている様子に、こちらの席に呼び寄せようとしたのだが、接待をしていた正客の、あの紅娘を呼んだのは大師殿なのか、ご子息なのか、という問いかけが気になり、咄嗟に驍宗に押しつけたのだった。
自分が見かけでもう少し歳をとって正式の官位でもあれば、花旦のひとりやふたり堂々と呼べるのにと思いつつ。
しかしやっと小狼が院子に姿を見せたと安心したものの、毎日一緒に過ごし、どちらも友人と思っていた二人が遠目にはしっぽりと寄り添っている姿を見る羽目になり、その後も芝居が一息つくたびついそちらを見れば、いつも必ず紅い髪は驍宗に酒を注いでいた。
その後も頭では分かっていても、それが彼の仕事だと思っていても、彼が客の相手をしているのを見るのはやはり辛かった。
上座には柳の座の者が侍っていたので、小狼は離れた下座にいたが、目立つ紅い髪はいつも凛と背筋を伸ばしていたので、客の間に混じっていてもよく見え、時折引っ込んだところへ呼ばれ見えなくなると大丈夫だろうかと気になった。
柳の戯班を見せたかったため、そして父の自慢の舞台で演じさせたかったとはいえ、客のひとりとしておけばよかったと悔やまれてならなかった。
そしてやっと主だった客が帰り、一緒に抜け出そうと迎えに行くと、すでに驍宗にさらわれた後と分かり、よもやと思ってここまで来たのだが、折り戸の向こうに人の気配があっても声をかける勇気が出なかった。
やがて明かりを消しに回ってきた奄は若主人が妙なところにいるのを見て、その傍らの明かりを消すのをやめかけたが、阿選は構わず消させた。
そしてそのまま闇に沈んだ回廊で、することもなくこの夏を振り返った。
毎日驍宗と共に小狼に会って過ごしたこの夏は、きっかけがなんであれ彼としては学友と顔を突き合わせて勉強するようなもので、それは彼にとって初めての少年らしい夏だったかもしれなかった。
そしてつい先日驍宗がためらいがちに言った言葉を思い出した。
「来月あの座はいなくなります」
今更何をと思った阿選に、驍宗は言った。
「あれは、朱旌です」
分かり切ったことばかり言う相手をいぶかしんでいると驍宗はさらに続けた。
「つまりこちらにお残しになりたければ残せますが」
阿選ははっとし、その意味するところを考えたが、すぐに答えた。
「私は友達は買わない」
「私もそういう事は疎いのですが、こちらの座に移すことは出来るのでは?」
それは別に珍しいことではなかった。
彼がそれなりの金を出してこちらの戯楼のどこかと話をつければよいのである。父の息子である彼にはそれは難しい事ではないに違いない。
小狼にこのままいつでも会える、それはたしかにすばらしいことだったし、小狼の身も安泰になるはず。
しかしそうすることを躊躇わせたのは、はたしてそれが彼にも、そして自分にもよい選択か自信が持てなかったからだった。
嘗て見かけの差がこのまま大きくなってひとり残される事を恐れ、共にいる時間の長い仕事を驍宗に頼んだのだが、それで彼を繋ぎ止める事は出来なかった。
やがて彼は夜は同じ年ごろの仲間と酒を飲みに行くようになり、昼間は一緒に武術の稽古をしていた。結局阿選は任務として供をする時の彼としか会えなくなった。
たしかに驍宗はその任務を誠意を持って続け、必要ならそれを超えた配慮を見せることもあった。
護衛が阿選を守るだけではなく、彼の行動を見張るためとは何も言われなくても分かってもいたが、この夏、阿選が戯楼に入り浸っていた事についても、驍宗は行く先はあいまいにして単に新作のための稽古のひとつとして上に報告していたようだった。
それでもやはり王の力によって友を従者としても、彼を引き留め友情を深めることは出来ないと思い知っていた阿選には、父の金や権力で小狼を縛っても、今のようなつながりが、友情が続くとは思えなかった。
この夏ですら、なんだかんだと会うのを長引かせたのは彼の方だった。
そしてあの年寄りばかり目に付く一座の中の小狼の姿を毎日見ていた彼には、他の座にいる彼が想像つかなかった。
たとえ今日の柳の一座ですら彼にふさわしいとは思わなかった。
阿選が来るといそいそと騎獣を預かりそっと湯などを運んで来る老芸人らは、自分たちの大事な座長が阿選に親交を結んで貰っている事を心から喜んでいるようだったし、持ってゆく點心を欲しがってはいけないと厳しく言われているらしい幼い見習いの童は、小さな用事を頼まれ、駄賃としてそっとそのひとつを渡されると顔をぱっと輝かせて全身で礼を言うのだった。
それは揚げ足取り小競り合いの絶えない王宮の中で、贅沢に並べられた菓子をあれこれつついて文句ばかり言っている内宮の少年達を見てきた阿選には、あそこが居心地良かった理由のひとつだった。
そして小狼がいなくなればすぐに成り立たなくなると分かっている小さな王国から、その要である小狼を奪えなかった。
私がもっと大人の姿であれば、そして官位があれば、またそう思った、それならもっと何か出来ただろうに。
あの座を丸ごと自分で引き受けてやれれば。
そうして長い時間、自分の身や今日の手際の悪さを呪いながら悶々と待っていたのでやっと出てきた小狼につい冷たい言葉をかけてしまったのだった。
しかしその言葉に小狼が怒るならまだしも、ただ無視して歩き始めたのを見ると、あわてて前に回り、刺繍を施した襟に手を置いて引き留めようとした。
阿選は教えたり直したりするために、小狼に触れたり手を添えたりするのは珍しい事ではなかったので、実は彼が自分が認める時以外は他人に触れられるのをひどく嫌うのには気づいていなかった。
先ほどのその言葉と言い方にぎりぎりまで耐えていた小狼は、胸元の手の感触にぐっと歯を食いしばった。
贔屓の客など一般の民から親しげに振る舞われても、いざとなればただの浮人として扱われるのにはもう慣れていた。普通の人は底辺の者には自分に都合の良い態度を取ることが出来るのだ。
しかし先ほどの阿選の言葉は、他班の演技のすばらしさと自分の芸との差に焦燥したあげく、終わりのない酒席の喧噪に疲れ、その上先程まで驍宗の声に身構え続けながら黄海への思いに引き裂かれかけていた小狼の神経を、逆撫でした程度では済まさなかった。
そして阿選が置いただけのつもりの手が、小狼の心のどこかで限界を超えさせた。
――花旦として扱われるなら花旦に、それもおまえが思っているような花旦になってやる。
自分では止められない何かに突き動かされて琥珀色の目がきらりと光り細められた。そして首を巡らし視線が斜めに流されると、しなやかに手が阿選の顎に沿ってひらりと動いた。そして舞うように身体を軽く捻ると、宵に酔客に何度も捕らえられたほっそりした腰に纏った衣の裾が阿選の脚に絡んだ。
そこにいるのは、まだ若く一流とは言えないが、地方では評判の売れっ子の旦だった。
「お客様もそろそろお疲れのご様子。下がらせてよいものかお聞きすべきかと存じましたが、宴も終わりかと思い、せっかくのお招きに勝手をしてしまい、あい済みませぬ」
細く甘いが客で一杯の戯楼で響き渡せる事も出来る声を、あたりの宵闇に相応しく小さく絞り、息を呑む阿選に花旦はしなやかな腕をなげかけ首筋に絡みつき赤くなった耳朶に囁くように詫びを言った。
どんな難しい舞台もこなして来た阿選の心臓がばくばくした。
「そうだ、勝手すぎる…」
やっと弱々しく抗議した。
「申し訳ございません」
その詫びの言葉を補うように、ぐっと腰を引いてさらに寄り添った。
彼より一回り背の低い少女の姿が柔らかな袖でただ絡みついているだけのはずなのに、なぜか阿選はしっかりとそばの柱に凭れたまま動けなくなっていた。
「見知らぬ方ばかりに囲まれ、貴方様のお側に行く事もかなわず、すっかり寂しくなったところへ驍宗様がお越しになって」
「だから付いて行ったのか」
阿選は、今度はそっと肩に頬を寄せて凭れた小狼を、恨めしそうに見下ろした。
「お席に呼んで頂いたお礼も言いたくて」
それは自分に頼まれてだと言いたくても、自慢の声が出なかった。
「いつもは貴方様とご一緒ばかり、あちらとはお話する機会がなかなかなくて……」
舞台も幾度となく見たし、楽屋にも何度も顔を出したので化粧をした顔も見慣れたが、こうして薄暗いところで身近にその本領を発揮した相手に、どうしてこんな事になったのか、必死で頭をしっかりさせ考えようとしていた阿選は、話という言葉に飛びついた。
「話…本当に話をしていたの?……仕事で…驍宗のところへ行った訳ではないのか」
仕事とはこれまた都合の良い言葉だ、と小狼は思った。
「はい」
そう言って首を反らしてこちらを見上げ、彼の顔のすぐそばで首を傾げた小狼が、髪と同じほど濃く紅を塗った唇を弓なりに微笑むと、ついに阿選は逃げ出すことも抵抗することも諦め、眼を逸らし屈服した。
「ごめん。ふたりに置いて行かれたという気がして」
小狼も、いくらこの客商売に慣れたとはいえ、幸い歳若いという武器があったので、たいていはただ愛想よくする程度ですみ、こちらから媚びを売るなど仲間から教えられた手管の出番は今までほとんどなかった。
しかし押さえきれなかった怒りは、それを友と思っていた相手に使わせることになったが、その結果阿選がうろたえるのを見ても、勝ったという気持ちにはなれなかった。
ガキが拗ねたからってあんな事を、と小狼は思ったが、しおたれて重ねてごめんと言う様子にそれ以上虚勢を張るのをやめ、まだ小さく震えている阿選から手を離し、一歩後ずさるといつもの地声に戻した。
「黄海の話をきかせて欲しいと頼まれたんだ。 」
「黄海? そんなところで興行なんかしないだろう。行ったことがあるの?」
阿選はその声と調子にほっとしたようで、小狼ともう一度やり直せるならたとえ見え透いた嘘でも受け入れる気になっていたが、せめてもう少し納得しやすい事を言ってもらいたかった。
「もともとは朱氏だったんだ」
重ねて言われて思わず少しぽかんとした。話し方を普通に戻したとはいえ、普通の少年の姿を知っているとはいえ、目の前の舞姫が黄海で妖獣を追うとはとっさに想像がつかなかった。
黄海で襲われる恐れがあるので朱氏は大きな声を出さない。いつも囁くような声で話す癖がつくと、いつしかそれがならいとなり、特徴となる。
独特の大股の足の運びと低い声が彼らを外見から見分ける方法のひとつであるが、甘い声で唄い、華やかに舞うこの目の前の紅娘には、そんなところはどこもなかった。
「朱旌と朱氏って両方出来るの?」
意外な話と淡々といつもの声で語る小狼の様子に、先ほどまでの張りつめた状態が嘘のように消え、阿選は素直に友達への関心から尋ねた。
「普通はないだろうな。おれも好きで変わった訳ではないし」
小狼も先ほどまでを忘れたように語った。
「驍宗はなんで黄海の話なんか」
「騎獣が欲しいんだろう」
「買えばいいのに」
「自分で狩った騎獣はやはり違うからな」
「ずるいよ。わたしには騎商で買わせたくせに。驍宗には吉量の捕らえ方でも教えたんだろう」
口では文句を言いながら、あの騎獣を可愛がり騎獣もよく働いているのを知っている小狼はその苦情を無視した。
主を失った状態で騎商の奥の薄暗がりに置かれていた時は冴えなかった騎獣だったが、再び大切にしてくれる主を得た上に、毎日丁寧な世話を受けて毛並みは艶々と輝き、特別に誂えた贅沢な装飾を施した鞍と鐙〈あぶみ〉がくすんだ色合いを引き立てていた。
そのため王宮の厩に繋げば他の彩り華やかなだけの騎獣を寄せ付けない風格を見せ、居合わせた仲間の少年らに自分たちの騎獣をひどく貧相に思わせた。
そして阿選が堂々と跨り王宮へ登ればその動きの良さもあって、目にした官吏や武官からの譲って欲しいという申し込みも絶えないと、阿選は嬉しそうに小狼に報告してきていた。
おかげで官や子供にせがまれた親からの同じ騎獣はないかという問い合わせに鴻基中の騎商が首をひねる事になった。
あれは性格も動きも申し分のない妖獣だとは分かっているのだが、いつも彼らが見ているのは朱氏が連れている簡素で実用的な装具を付けた埃まみれの姿で、とても阿選の騎獣と同じには見えず、王宮に置かれたところなど想像も付かなかった。おまけに朱氏は自分達のためでなければ捕らえようとはしない種類のひとつなので、注文をしても無駄だと分かっており、せっかくの注文も受けるわけにはゆかなかった。
それらを知った上なので小狼は阿選の口先の不満を聞き流したのだが、驍宗は吉量ではなく騶虞を狙っている事も言わなかった。
なんでも最高の一番のものを欲しがる男というのはいる。一方で阿選がむやみに人と同じ物を欲しがるような人間とは思わなかった。
それでももしあの声で言われたらと心配になったのだった。
……黄海は、いいぞ、と。
そしてやっぱり騎獣は騶虞に限る、と言われるかもしれないと案じた。
――でも、俺がいなくなっても、驍宗がいなくなっても……あの騎獣ならいつまでも一緒にいて、おまえの身を守ってくれる。
小狼は人は信じなかったが騎獣は信じていた。