年の頃は四十過ぎといったところだろうか、威厳ある体躯の男が、王宮の一画にある弓射場で身に合わぬ小さな弓を持って立っていた。
男は和州侯柴望。麦州を浩瀚の下で支え、今は荒廃した和州の建て直しを任されていた。精悍で彫りの深い顔立ちのこめかみには白いものが混じっていたがそれすら彼の威厳を増すばかり。全身から男盛りの力強さが溢れていた。
やがて幼い少年が明るい色の髪をなびかせて一生懸命走ってくるの見ると、その厳しい顔を思わずほころばせた。
「こんにちは、柴望さま」
一応挨拶を言いはしたが、その小さな弓に手を伸したくてうずうずしているようで、返事も待たず「これ?これ?」と問いかけ指先がそちらへじりじりと動いていた。日頃厳しく躾られている少年には珍しい事である。よほど楽しみにしていたのだろう。
この少年の弓術は自分が一から教えるとかねてから周りに言ってあったが、多忙な上、地方に住む州侯がこちらへ出向く時間はおいそれと取れず、やっと始めた練習は、手に何も持たず両手を水平に保つ姿勢の練習だった。少年はがっかりして次を期待したのに、次は伸縮性の紐を与えられそれを両手で引っ張りながらの練習。
正しい射形を身につけ正確に射る事が出来るようになるには一番よい練習法だが、幼い子供にはいささかがっかりが続きすぎたようだった。
退屈した少年はその紐で石ころを飛ばすことを思いつき、庭院の実がいくつか的になったあげく、飛びすぎた一つの石が王宮の玻璃を割り、よりにもよって宰輔をかすめてそばの花瓶を割った。
幸い景麒に怪我はなかったが、少年は生まれて初めてお尻を叩かれ、上は女王から下は庭院の下働きにまで叱られた。
即日和州城へ飛んだ鸞は、州侯の多忙さはよくよく承知しているし、指導に口出すのも申し訳ないが、慶国安寧のため少年に弓を持たせてなんとかしてくれないかと若い娘の声で訴えた。自分のために人を使う事のない王の頼み事など滅多にあることではなく、同時に届いた冢宰からの青鳥は事の顛末を知らせ、柴望はひとしきり笑った後、国家存亡の危機回避のため小さな弓を持って馳せ参じたのである。
弓を渡す前に言い渡そうとしていた叱責は、輝く琥珀色の瞳を見たとたん柴望の口からどこかへ飛んでいってしまった。瞳の色は違うがこの輝きと表情は柴望にあの女<ひと>を思い出させた。紫がかったけぶるような青の瞳、あの瞳と同じものを見てしまったのだ。
十分皆から叱られたのだからと自分に言い訳しながら、射る前に安全を確かめるようにとだけ注意を与えた。
この瞳もいずれ自分の言葉を受け入れず、小さな弓を渡すこの手をすり抜けて行ってしまうのだろうかと思いつつ。
小さい子供の練習用の弓は軽く引きも弱い。それでもまっすぐに引くのは幼い手にはやはり大変らしく、全身に力を込めて引いている。無理に引くより形を大事にと注意しながら、その懸命に食いしばる横顔を見ているうち、柴望はいつか青い瞳の思い出に浸っていった。