少学で一緒になって以来、彼女の事はいまいましく思っていた。勉強でしばしば彼を負かし、しかもそれを平気で話題にするのだ。年下のくせに少しは遠慮というものを持てないないのかと、濃い花色の髪を書物の上に垂らして読みふける姿を見ては毎日腹を立てていた。

しかし怒っているのは柴望だけで、何でも愛想良く教えて手伝ってくれる彼女は皆に愛されており、よく考えれば訊いたり頼んだりしなかったのは彼だけだったかもしれなかった。そもそも柴望はむやみに腹など立てる質ではなく、よほどこの少女と相性が悪いのだろうと考えるしかなかった。

その後の大学でも彼女は柴望には目障りな存在だった。剣術ですら早く正確な太刀さばきで力に勝る彼の剣をたたき落とした。ただ弓術では一度も彼に勝てず、そのことをあっさりと認めて柴望の技量をほめたが、なぜかそれもまた彼には不満で、けなされる方がまだしも嬉しいことに気づいた。

そんなよく分からない気持ちを抱えている頃、若い新入生があった。まだ頬の紅い色白の少年で浩瀚という名前だけでも周囲の反発を呼んだが、なぜかこの少年を交えると娘とも肩肘張らずに話すことが出来た。
多少の年の差はあってもこの三人が集まると話が尽きることはなく、朝が安定せず混乱し荒廃した時代に育った若者にとって大切な夢である国のために働く将来やそこで求められる理想を熱く語り合った。
しかしその後の三人の道は分かれ、結局すぐに国官になったのは娘だけであった。

そして長い月日が経った。


女王赤子の即位にあたり改めて浩瀚は麦州侯に任じられた。
そこでほんの短い偶然の出会いがあったものの、その出会いが彼に与えたものにも気づかないまま早々に麦州へ立ち戻った。

間もなく国から新しい牧伯任命の知らせが届いた。

王宮を牛耳る黒幕や失道した王と戦い続けて来た麦州にとって恐れていた事が起きたのである。中央からの介入を避けるため長年賄を惜しげなく使い、彼らの妨げにならない者を任命させてきた。その甲斐あって任務に興味がなくただ居心地良く日々を過ごせばよいという高位だが政務に飽いたか無能な官が送られてきていた。

しかし先頃起きた偽王の乱で唯一偽王に逆らった麦州は、その後理不尽にも王に反逆の意志ありと睨まれることになり、その手始めとしてついに牧伯の突然の交代となったのである。今度はいかに手を尽くしてもその任命に手心を加えさせる余地はなく、浩瀚を追い落とそうという王宮側の決意は明らかであった。


それはすでに覚悟を決めていた浩瀚を、最後の段階へと押し出すきっかけでもあった。
すでに長い年月、次々と現れ、そして斃れる女王を見続けた彼としてはその傍らで密かに心で思い続けた事もあったが、今となってはただ王にこの国の状況を知り、良き王としての一歩踏み出して欲しかった。そしてそのために自分が捨て石となることに迷いはなかった。

新王は胎果の若い娘であり政治的には前の三人の女王よりさらに無力で、王宮の官吏に牛耳られて身動きとれないでいることは確かであった。このままでは最悪予王以上に短命な王となるかもしれず、残された時間を考えれば躊躇は出来なかった。
たった一度の女王との出会いではろくに言葉も交わさず、相手は彼が誰かも分からぬままかも。このまま死ねば、王は彼女のために立った麦州侯の顔も真意も知らぬままで終わるのであるが、もはやそれらはどうでも良いことであった。


いずれにせよその企てを進めるためには新しい牧伯の存在は問題だったが、なぜか誰が来るのかすらどうしても事前には探り出せず、不安を抱えたまま待ちかまえるしかなかった。


新しい牧伯はそのような最中に異例の事ではあるが事前の知らせもなく州城に到着して、州側の不安をさらにかき立てた。最早王宮はこの州には儀礼の手だてすら必要としないのか。

そして先触れの下官に続いて州城の広間に入ってきた新しい牧伯を見て柴望は驚き、さすがの浩瀚も驚いているのをちらりと見取った。牧伯の顔を知らぬ者がほとんどの居並ぶ州の重鎮達もこのふたりの様子から、最悪の状態を予想したようであった。

濃い花色の髪を結い上げ朱の絹の襦裙を着て立っているのは、嘗ての学友であった。すぐに仙になったので姿はあのころと変わらぬはずだが、その艶やかな面に旧友に再会した喜びは見えず、高位の官に相応しく堂々と礼をする姿は侮りがたかった。
彼女がここにいる理由も立場も分からず、意外な成り行きに驚きつつ久々の知己として迎えるべきなのか敵として警戒すればよいのか迷った。

柴望は彼女が王宮で着々と出世コースを辿っていたのは知っていた。
出仕で遅れをとった彼が追いつけないかと思ったほどに楽々とその地位を駆け上がっていた。
やがて腐敗した官の派閥に縛られる王宮より地方こそ民を相手の政が出来ると、浩瀚に請われて麦州に移ってからは、所用で王宮へ行くことがあってもその短い滞在中に多忙な彼女とはなかなか会えなかった。それでもたまに会うと、以前と変わらずはつらつと人生を謳歌して輝いていた。

しかしある時を境に突然姿を見かけなくなった。官籍に名は残っていたが主だった役職についた様子もなく、ただ消息が途絶え表舞台から消えた。この様な場合は何か不始末があったと考えられるが、そのような噂も聞かなかった。
気になりつつも地方からではそれ以上知るすべもなかった。さらにその後予王による混乱があり、彼らに彼女を気にする余裕もなく、あの時期そのまま音信不通になった女は珍しくなかったため、ふと思い出すことがあっても半ば諦めていたのである。

牧伯といえば地味ではあるが、官位としては最も高位の役職のひとつ。一度は出世の流れからはずれた者がいきなり、ましてこの時期ここにいるとなれば、敵方と与していると思わざるを得なかった。

そんな二人の驚きと猜疑を余所に、娘は淡々と任地到着の挨拶を述べ、王からの任官証書を傍らの官に手渡した。浩瀚は感情を見せることなくそれを受け取ると開いて確認し、鷹揚に歓迎の意を伝え、牧伯もその場にふさわしい態度でそれを受けた。

それ以降こちらの二人にとって彼女は身内の棘であった。自分達のすべてを賭けた戦いの準備の最中に、いつもその青い瞳を警戒せねばならなかったのである。
美しい目は以前の屈託のない明るさは浮かべておらず、浩瀚らの懸念も無理はなかった。しかしたいていの場合その目は、豪壮ではあるが華やぎには欠ける州城を、堯天を懐かしんでいるのか退屈そうに眺め渡しているだけで 、取り立ててこちらの様子を探っているようでもなかった。

そしてこちらの疑心暗鬼をあざ笑うように、特に事を荒立てる様子もなく、提出された州に都合のよい書類を黙って受け取り読んでいた。そしてごく普通に州の政について質問し、時々刺史と領内を見回っていた。そばには朝廷から連れてきた官が常に付き添い、麦州側の者とはつき合う事もなく毎日を静かに暮らしていた。
また柴望や浩瀚とも個人的な会話をすることもなく、その様子に大学などで一緒に学んだ他の者も皆当惑するばかりで何も言わなかった。

いわば敵の陣地でひとり胸を張り孤高を貫く姿は敵とはいえ、あるいは牧伯の宿命とはいえあっぱれな姿で、仕事のひとつと思い彼女の一挙一足を見張っていた柴望であったが、いつしか見ていない時も彼女の事を考えている自分に気づいた。

そして怒りながらいつも彼女を睨んでいた少学時代を思い出し、あれは恋だったのかと今になって気づいた。恋している相手に負ける悔しさ、相手にされない悔しさだったのかと。

あれから長い年月の間、誰が彼女の心を捕らえたのか、婚姻はしたのか、何も知らないのがいらだたしかった。

静かな対立の一方で、彼女がどのような報告を朝廷に送っているのか、そしてそれは誰のところへ送られているのかを調べ出そうと言う試みはことごとく失敗した。

ついに、浩瀚は柴望に言った。

「一緒に酒でも飲んではどうか」
「本気ですか」
「ああ」
「中身は同じくらいでも、こんな爺さんがあんな若い娘を酒に誘って、一緒に飲んで貰えると思いますか?浩瀚さまの方が適役と思いますが」
「私は年上は嫌いだ」

ぷっと柴望は吹き出した。この一見堅物で見目麗しい州侯を狙っている女がどれほどいるか。また年上かどうか彼が気にした事があるとも思えなかった。

とにかく再会の時、驚きもあり警戒しすぎて対応を誤ったことは確かで、今更酒を酌み交わして話が出来る雰囲気ではなかった。しかもその間にも時の流れは走り始めていた。一刻の猶予も油断も出来なかった。



そんなある日、娘が柴望のところへ来た。

「少しお願いが」
「なんでしょうか」
他人行儀な言い方しか出来ない事を悔やみながら答えた。

「弓の相手をお願いできないかしら。こちらへ来てから運動不足だし気晴らしもしたくなったのだけど、久しぶりなのでどうも調子が出ないの」
意外な頼み事に少し驚いたが断る理由もなく、それどころか願ってもいない展開と喜んで応じた。

一緒に射始めたが、たしかに久しぶりのようで、手を添えて姿勢を直してやると明るく笑って礼を言われた。手を添えている間、すぐ目の前の上気した笑顔や振り返って礼を言う青い眼が心を乱した。しかし今大事なのは自分の心ではなく麦州の事である。
さてどうしようかと思案していると、低い静かな声が聞こえた。

「聞いていない振りを」

ちらりと見ると、そう言う口は弓を引くための呼吸をしているだけに見えた。

「分かった」
こちらも矢をつがえながら声なき声で答えた。

「連れてきた官はほとんどが敵の側。私は見張られている」

息を吐くべきところで吸ったので、柴望の矢は的からはずれた。
それを見て愉快そうに笑う姿は、少学の日を思い出させた。あの頃彼女が決してこちらをあざ笑っていなかったことになぜあの時気づかなかったのかと、今になって気づいたのが悔しかった。

見た目は笑いながらも声はさらに別の事を語った。
「私が来なければ本当の敵が来た。時間を稼ぐ必要があると見たが」

柴望は答えられなかった。ここで答える事に麦州の運命がかかるかもしれない。

「浩瀚に聞け」
「では頼みが」
「なんだ」

弓を下ろしてこちらと向き、他からは勝負の出来を誉め合うように見えるよう楽しげに軽く言った。

「州侯殿のところへ夜這いの手引きをお願いしたい。まだ運動不足のようだし気晴らしも足りないので」
こちらに来てからすっと翳っていた紫がかった瞳が、嘗ていつも柴望を怒らせていたあの輝きを垣間見せた。

「ばかなことを言うな」
「こちらも年下は好みではないけど、貴方に断られて相手が他にいないのではしようがないでしょ」

その言葉の意味することにぎくりとした。
もはや話の漏れない安全な場所はないのか。

「分かった」
こちらの気持も考えずいたって気楽な様子の青い目を見つめながら、そう答えるしかなかった。