1    青

かたり

筬が軽い音を弾ませると、杼が待かねたようにしゅるっと、乾いた音をたてて絹糸の上を滑った。
しかし杼の描いた滑らかな曲線をまっすぐに正そうと再び筬がその後を追った。

そしてしっくりと緯糸がすでに織られた布の端に収まると、また小さな一段が重ねられ、その静かな繰り返しに浸るうちに時がゆっくりと過ぎていった。

かたり


日中は立ち働く使用人で家中がざわめくが、朝早いこの時間は朝餉の支度の者が竈の周りで立ち働くだけで、広い家の奥にあるこのあたりはまだひっそりと静まっていた。
しかし静かだったのも束の間、明かりとりの窓越しにあちこちから人の声や動きが聞こえてきた。

せっかく手元が明るくなったのにと残念ではあったが、彼女の手を必要としているところは多いはずで、まずは朝餉の出来具合を見てやらなければならない。おまけにあの寝坊な妹が両親に気付かれる前に身支度を済ますよう起こしに行かなくては。昨夜もどこかへこっそり抜け出したらしく、いったいどこで誰と何をしているのか、こう毎晩ではそろそろ聞き糾さなくてはと最近絶えることのない姉としての気苦労をさすがに持てあました。

心ではそう思いつつも、手は軽やかに緯糸を送り出しそれを止められなかった。今朝はいつになく動きが滑らかにいつまでも続き、そうなれば出来上りも満足のゆくもので、ここで中断するのはなんとしても残念であった。

彼女の織ったものは店に並べる売り物ではなかった。
機織りなんか織り子にさせればいいと妹は言い、こんな糸埃の舞い立つところに座り込んで何が楽しいと笑った。反物を綺麗な商品の積み上がった店先で売るのも楽しいし、それを自分で着るのはもっと楽しい。でも織るなんて。

そう言われても自分の織ったものを身に付けた妹が出かける艶やかな姿を見れば、僅かな時間を惜しんで目をこすりながら織った苦労も忘れた。

着飾った姉妹が店を抜けて通りへ出れば、堯天の目抜きのこの通りでもその華やかさはひときわで、あちこちの店先から声がかかり、すれ違う知り合いの誰彼からひっきりなしに受ける挨拶の対応に忙しかった。かけられた声とそれらを振り返る周囲の羨望の眼差しの多くは妹に向けてで、返す挨拶もほとんど妹が引き受けていた。美しさなら遜色なかったが、妹の愛嬌と明るい華やかさはともすれば姉を陰に追いやった。それでも側でそれを見て、ひとりでいれば味わうことのない華やぎの中に一時いるだけで嬉しかった。

娘はふと壁際の棚に仕舞われた小さな青い布を思い出した。

それを思っただけでひとりの男の姿が目に浮かび、つい唇に笑みがこぼれ寒い部屋にいたため冷えて色を失いかけていた頬に赤みが差した。
先日訪ねてきた父の知人の息子というその若い男、その時のいつにない彼女の様子を見た両親がそっと頷き合い、その後彼との縁談話を進めてくれていた。あの時は話もろくに出来なかったが、視線を感じてちらりと見上げ密かに見交わしたその僅かな間を思い返しただけでも今でも心が舞い立つほどに嬉しくて、彼が帰ったその後すぐ手が動いてこの小さな帯を織り始めた。

織る手を止めるのを惜しんでいたのも忘れて、そちらに吸い寄せられるように機から立ち上がると、棚を開いて中からそれを取りだした。そして掌に載せ、もう一方の手で慈しむように撫で頬を擦り寄せて手触りを楽しんだ……これをあの人と結ぶことが出来たら。

それに気を取られていた娘は、いつもの朝のざわめきとは違う気配が邸を包んでいる事にも気が付かず、その帯を持つ手に影が差したことで初めて入り口に誰かがいるのを感じ振り向いた。

小さな戸口を塞ぐように立ったのは、長身の若い男であった。
他人がこんなところにまで訪れるのも今までにないことであったが、何より彼女を驚かせたのはその肩に流れる金の髪であった。

青年は断りもせずずいと入ってくると、じっと彼女を見つめた。
彼にしてみればただ見たつもりでも、その身長の差で見下ろされた小柄な彼女にはそれだけでも思わず身を引いたほどに威圧的であった。
しかも青年の唇は薄い微笑みを浮かべたようにも見えたが、紫の目はなぜか怒りにも似たものをたたえ、その瞳が娘が恐れながらも目を離せないほどに美しかっただけに一層彼女を怯ませた。そのためさらに後退りする彼女を見た青年の唇からは僅かな微笑みも消えて口角が少し歪んだようであった。

……………

いきなり跪いたその若者の発する言葉はどうしても彼女の脳裏には残らず、ただ手に持った青い帯が糸くずの中に滑り落ちるのだけを感じた。

――拾わなくては、これは私のやっと見つけた幸せへの帯なのだから。

そう想いながらも身体が固まって屈むことも出来ず、やっとのことで金の髪から眼を背けてその背後の戸口に集まり口々に何か言い合う見知った顔を茫然と見つめるしかなかった。そしてまだ身支度も終えていない妹が駆け込んでそこに加わり、大きく目を見開いてこちらを見たのに気づくと何か言わなくてはと焦った。

――そんな格好で出てきてはだめ。だから早く起きなさい、いつもそう言っているでしょ。

そして気付いた。明日からは誰がこの妹を起こしてやるの?

2   黒

陽子の初勅も済んだ今、浩瀚のすべき事は当然山積みで自分のことに構う余裕などなかったが、それでも思いがけない展開に身支度などという些細ではあるが避けることの出来ない問題を抱えることになった。
まとまった財といえる物は乱の準備に使い果たし、逃亡生活の後でいわば着の身着のまま。死を覚悟で出頭する時のために取り置いていた一着で王宮に赴き、その後は王宮の官邸に残っていた僅かなもので凌いでいたが、いずれにせよ冢宰ともなれば王宮での衣も特別となる。こうなれば靖共から借りるかと笑ってみせたものの、早急になんとかせねばならなかった。

政務の難題に加えてそんな心配までかかえて冢宰府で早速仕事にかかっていた浩瀚の元へ外から文が届けられた。本当なら取り次ぎもされず追い払われるはずのそれは、紹介者としての名前に気付いた侍官のお陰で無事浩瀚の元へと届けられた。
しかし読んだもののなにやら訝しいその内容に浩瀚は首を傾げたが、町へ下りる所用もあり一応寄ってみることにした。

訪れたのは堯天の大通りに面したとある大店であった。しかしあたりの賑わいのなかで扉を閉ざしひっそりとしていた。書面で告げられていたとおりそれに構わず案内を請うと、奥から見かけは浩瀚より少し年上らしき男が何人もの店の者を引き連れて急いで出て来ると、この店を任されている者だと名乗り、丁重に祝いの言葉を述べて訪問に感謝の挨拶をした。

「紹介者の名に覚えがあり来たのだが、いったい何の用か」
「はい、沙参さまよりご注文を戴き、お待ちしておりました」

言われた内容以上に、そこに聞き慣れぬ音を耳にして浩瀚は少し驚いた。

「今、沙参と申したか?」

実際にその名で彼女を呼ぶ者に浩瀚は初めて出会ったのだった。

「はい」

それがごく当たり前のようにそう言っただけで男は傍らにいる年配の男に肯くと、店の番頭らしきその男は手を打ちそれを受けて店の者がすぐ丁重に一枚の衣を捧げた。

「これは」
「はい、冢宰がお召しになるものでございます」

それはたしかに冢宰にのみ許された色であった。あっけにとられてそれを見る浩瀚の周りに、どんどんと衣が運ばれてきた。手にとってみたそれらはいずれも見事なものばかりであった。

「沙参さまより、侯がお越しになってもたぶんこちらでは準備をする暇もなく持ってくることも適わないはずとうかがっておりましたので、日常の物も思いつく限り全てご用意させて頂きました」

どこから聞きつけたのか妻であった者の名を使って彼の新しい地位に目ざとく賄でもするつもりかと身構えていた浩瀚であったが、その思いもかけぬ話しに禁色の衣を手にとったまま、くつくつと笑い出した。
あの女、最後の最後まで本当に食えない女だった。

学生時代、笑い転げる彼女の横でとんでもない贈り物をされてむっつりと膨れっ面の柴望をいつも気の毒に思いつつ自分も笑っていたが、その矛先が最後は自分の方に向いたのかと、浩瀚の驚く顔を楽しみにこれらを注文した彼女を想像した。

夫の身支度を代わって整えるなど、こんな事をしたらまるで甲斐甲斐しい世話女房のようではないか。そう言われれば冗談じゃないと臍を曲げただろうと思ったが、用意されたものは夫の準備ではなく冢宰の準備であった。
あれだけ自分が冢宰になると言いながら、こうしてそんな事など考えたこともない彼の準備をしていた。
主上と私をこれほどよく分かっているなら、おまえが必要なはずの今、なぜここにいないのか。

ふと訊ねた。

「彼女は自分にはこの色は注文しなかったのか?」

相手は躊躇っていたが答えた。

「はい、一枚だけ。冢宰にならなければ死装束にすると」

「死装束……」

「そしてあの世で予王の冢宰となってお仕えすると」

その衣がどうなったかは分からなかったが、彼女が予王に仕えるのにそんな衣は不要であったろう。
そしてふと気付いた。

「予王は民を苦しめたと思われているはずだが恨んではいないのか?」

男はふっと笑った。

「ここは先代の主上のご実家でございます」

「え?」

「沙参様は、今の王の代になってからも何度かお越しになって、当家の主をお慰めになっていました」

二人の娘を亡くした父親を見舞っていたのか。

「女主人は先の混乱のなかで亡くなり、主もつい先日亡くなりました。主は娘を亡くしてよりずっと寝たきりで、私は頼まれてその代りをこちらで勤めておりましたが今は店の後かたづけをしているところでございます」

身なりの良いその姿はたしかに単なる雇われ人には見えなかった。たぶん親戚か何かなのだろう。

「店のあるうちに、気にかかっていた最後のお客様にこれをお渡しできてほっとしております。王宮に出入りはしておりませんが、いずれの品も決して恥ずかしい思いはさせないつもりでございます」

「娘が王になっても王宮に出入りの商いはなかったのか?」

商人らしい愛想の良い顔に苦々しげなものが走った。ちらりと再び傍らの番頭に視線を移すと、年配の男はそれに気づき遠慮がちに語った。

「台輔がお迎えにいらした時、この店で一番のものをお召し戴き皆で歓びお見送り致しました。しかしすぐにそれは送り返されてまいりました。王には相応しくないと、そして今後は実家といえど出入りはならぬと」

周りの店の者達も、あの時の事を思い出すのか皆唇を噛み締めていた。

「主夫婦は毎日その戻ってきた衣装を衣紋に掛け、それを眺めてお嬢様を案じておりました」

年老いた男の声は沈んでいた。

「優しいお嬢様でした。いつも店のものを気遣い、裏で主を手伝っていらっしゃいました。それがなぜ。恨むなどとんでもございません。きっとさぞおつらい思いをされたと、この店の者なら皆分かっております」

見回せば周りの店の者は沈痛な表情になり、中には彼の衣をかかげたままあるいは畳み直しながらついと横を向いて涙ぐむ者もいた。その中で主を務める男も商人らしい繕った顔を忘れたように沈んでいたが、また気を取り直したように顔を上げて笑顔を見せた。

「最後にお越しの時、沙参さまがおっしゃっていました。女王のためになる男を連れてくる。そのために麦州へ行くと。今の主上を決して予王のような寂しい王にはさせないと。
その後これらを揃えるようご注文を頂き、そのことでその方をお連れになる日も近いと私どもにも分かりました。そして今日やっとこうして」

自分の言った言葉に自分でうなづくその様子に、言葉には出し切れない思いが見えた。豊かで幸せであったはずのこの一家は娘が王になったために、いずれも救いのない最期を迎えた。それを身近に見ていた者も辛かったのだろう。

「もうこの国には寂しさから道を失う王は決していらっしゃらないと信じてよろしいのですね」

しかしそれにしてもしっかりと浩瀚を見つめた視線は一介の商人が冢宰を見るには強すぎる視線だった。訝しく思いながらもそれを受けて浩瀚ははっきりと肯き、それをやや強張った表情で見ていた男はほっと頬を緩めた。

用意されたのはいずれもすぐにも必要な物ばかりであり、こうなれば今日のうちにも王宮へ運ぼうと、店の中はすでに総出でその準備にかかろうとしていた。そして人目を引かぬように彼だけが店の外まで浩瀚の見送りに出てきた。

別れの挨拶をするまえに男はふと呟やいた。

「これで私もやっとごく普通の生活に戻れそうです」
「妻子はおありか?」
「いえ、ずっと独り身でございます」
「未だであったか。これからはこの国には何より人が必要になる。あなたなら子を里木に願えるよい夫婦になれるであろう」

そんな事を今までも州侯として何度もひとには言い続けていたが、自分も里木に帯を持つ者となった今は少し違う思いが加わったような気がした。
それに男は少し何か思うように応えた。

「里木でございますか。嘗て私と結ぶために帯を織った娘がおりましたが、もう二度とそんな事はないと諦めておりました。しかしそうおしゃるなら、新しい主上の治世を信じてもう一度夢を持ってみようかと」

その言葉に浩瀚はもしやと思ったが、たとえそうでも今更たずねてどうにかなることでもなく忘れようとしている者には酷なことだろうと何も言わなかった。


そして王宮の方角に去った浩瀚の姿が見えなくなった後も、男はいつまでも見送っていた。あの朝、ここからの旅立ちを見送ることも適わなかったあの人に重ねて。

3   琥珀

堯天の目抜きにあるその店は代の絶えた後、所帯をもったばかりというからどちらかの連れ子らしい赤ん坊のいる夫婦が引き継いだ。
それから数年経ち、その広い中庭の一隅には大人の目にはその価値が解り難いがらくたが散らばった小さな草むらがあり、手入れの行き届いた家に相応しいとは思えないそこは幼い少年の領地だった。
今も彼はそこに座り込んで、ただひとりの家来である一匹の猫を相手に正しいおやつの食べ方の説明をすると、おもむろに小さな万頭を割って半分与えた。

「いいかい、ちゃんと手を使って食べるんだよ」

猫はその行儀作法に納得しかねるのか万頭の中身が気になるのかしばらくそれをふんふんと鼻先で嗅いでいたが、万頭はいいが行儀作法は気に入らないと判断したようで、そのままぱくりと飲み込んだ。

少年はそれにがっかりしたようだったが、実は毎日同じ事を繰り返しているので、もしかしたら猫の方が正しいのかもしれないと、手に持った残りをおもいきり大きな口をあけて押し込んだ。

「………」

猫にやっぱりこれは食べにくいと文句を言おうとしていると、背後に人の気配を感じた。

振り向くと見知らぬ男が立っていた。身に付けているものが地味だがよい品なのをその環境から子供ながらに見分けたが、なにより男は他の客や家人からは感じたことにないものを発しており、そのためよほどちゃんとお行儀良くしないとこの男の目では猫並に思われるのだろうなと感じた。

「………」

男を眼にしての緊張もあってうまく呑み込めず、万頭はさらに口の中でどんどん大きくなっているようで、何も言えない上にだんだん苦しくなって来た。 人の前で吐いたりしてはいけないと、必死で呑み込もうとしているのを男は少し眉を顰めて見ていた。

「口から出してはどうか」

もっともな意見であったが、すでに少年はその判断の是非が解るような状態ではなくなっていた。
その見た目からは意外なほどのすばやい動きで男は進み出ると少年を抱え上げていきなり天地を逆さまにつり下げた。

一瞬もがいて抵抗した少年の口からぽとりと万頭が落ちると、口からの食べ物の出し入れにはあまりこだわらない猫が近寄り再びぱくりとそれを食べると、突然現れた見知らぬ人間を避けてさっさとどこかへ行ってしまった。

地面に下ろされてまだ目の回ったまま座り込んでいる少年が、それでも再び息をしているのを確かめると男は言った。

「大丈夫なようだな」

「は、はい」

そしてちらりと見上げると年に似合わぬ丁寧さで礼を言った。

「ありがとうございました」

それに無言で肯くとそのまま少年を見つめた。
相手が居心地が悪くなりもそもそするのも構わず鋭い目がじっと少年を見つめ続けた。長年人を観察し判断する力で生き残ってきた男であったがこのような年頃の少年を見ることは少なかった。

「あの、お店のお客様ですか?」

「おまえと話しに来たのだが」

明るい琥珀色の瞳が、不思議そうに彼より色の濃い同じ色あいの眼を見つめた。

その視線を受けながら、男は何を話せばよいのか困っている自分に気付いた。こんな子供に挨拶以上に声などかけることもなかった。
さて何を話そうか。
自分が同じ年頃に何を思っていたかなどもう覚えていない、少なくとも猫に万頭を分けてやるような余裕はなかったはずだが。

では今自分の関心のある事でこの子に話せるような事となると。

「私は主上のおそばで働いておる……主上は女王でいらっしゃるのは存じておるか?」

小さな子供に王の話というのはお伽噺に等しかった。
いきなり始まった珍しい話しに少年はすぐに引き込まれて、見知らぬ相手への警戒も薄れがちでついそろそろとにじり寄った。

「女王は身をやつされて、そう、おまえが街で見る少年のようなお姿になって皆の様子を見て回られる。私達が幸せかどうかをその眼でご覧になるために……」

少年は訊ねた。
「ここにも来られますか?」

それにはさあ、とだけ言われた。