月渓がいたのは静かで人気のない山の窪地であったが、何の前触れもなく突然そのあたりの空気が歪み拗れた。
そしてまるで熱に晒されたかのように肌が苦痛を訴え、肺が空気を求めてあえいだ。
さらに…熱い、今度は本当に熱い空気が吹き付けられ、しかもその生臭さから今まさに何者かに喰われようとしているのだと月渓は気づいた。
しかし気づいてもそれで身体が動くわけでもなく、佩いている剣に手を伸ばすことも出来ず、立ち竦み続けるしかなかった。
そして動けぬ身体の中で思考だけが、やり残した事、失ったものを思い、脳内をめまぐるしく動いた。

その時ふと……あたりが静まったのに気付いた。
そしてあたりが暗いのはすでに妖魔に喰われてその腹に収まったからではなく、単に自分が目を固く閉じたためと分かり、恐る恐るその目を開いた。
しかし開いてみれば自分のすぐ前には濁った塊が立ち塞がっており、思わず飛び退いたほどにそれは禍々しかった。
その大きくいびつな球体の中央は黒く不透明で、中に何かがうごめいているのが見えた。外へ拡がるにつれその色は薄く霞んだが、そのまわりを無数の触手が取り囲み、退いた月渓のすぐそばまでその揺らぐ肢が迫っていた。

―――おまえは……王か?
中央でうごめくあたりから声が地を這って届いた。

「仮朝の王だ。私を喰うのか」

―――ああ。仮朝の王なら王に近いからうまそうだ
相手は月渓の僅かな希望も打ち消すようにあっさりと答えたが、そのわりにはなぜかすぐに飛びかかって来ようとはしなかった。

「生憎天意なき身で味は普通の人とかわらないはず」
こんな時にまで自嘲せずにはいられない自分がほとほと嫌になったが、相手は気にしないようだった。

―――王の味は知らぬが黄海で麒麟を喰ったことはある。使令の喰うひねた麒麟とは違い、若いからじつに美味かった。

月渓はその味を思い出した妖魔が舌なめずりするのを聞いたように思ったが、麒麟という言葉に自分の身の危うさも忘れて身震いした。
芳はすでに一度麒麟の卵果を失い、それゆえ彼はいつまで傾き続けるのか分からぬ国を率いているのである。
たとえ今度新たな卵果が無事孵っても、その麒麟が命を落とす可能性に限りがない事に衝撃を受けたのである。

―――天意がなくともおまえも美味いかも


そう言ってこちらに向かってゆらりと揺れた触手を避けながら咄嗟に嘆願した。
……まだ私は死ねない

「妖魔、喰うのをしばらく待ってもらえないか」

―――なぜ?

「皆が待ちわびている台輔を、また失う可能性があると聞けば死に切れない。王を無事お迎えしたあとでなら必ずこの身はくれてやる。どうか今しばらく待って欲しい」

―――しかし、おまえがここまで戻って来るとは思えない

妖魔の言う事ももっともで、月渓はやはりこれは喰われるしかないのかと再び残すものの大きさを考え、そしてひとりの娘の姿を思い浮かべた。
祥瓊殿、申し訳ない。主上の死を無駄にするかもしれぬ。

その間にも触手がゆっくりと月渓の頭上に伸ばされたが、もやはそれを避ける事もせずここまでかと観念し、再び月渓は目を閉じた。……と、髪に肩に触れていたおぞましい感触が止まり声がかかった。

―――これは誰だ

また恐る恐る片目を明けかけたが、はっと両目を見開いた。
「……公主」

目の前に前公主祥瓊の頭が浮かんでいた。幼い顔立ちに高慢な表情は嘗て見慣れたものであったが、胸から下は妖魔の中に溶け込んでいた。

―――公主というのか、これも殺したのか

「子供は殺さぬっ」

その怪しい姿に耐えられず叫んだ月渓の前で、幼い祥瓊は揺らいで消えてゆき、再びその蠢く闇から何か白いものが現れようとしていた。
それは先ほどの姿が成長したものであったが、群青の髪は艶を失いもつれ、日に焼けた肌は柔らかさを失い痩けた頬は老婆のようであった。そしてうつろな瞳と荒れて割れた唇は、彼を睨みつけて怒りを吐こうとしているかのようだった。

その姿と耐えきれぬ思いで対面しているうちに顔だけではなく全身が現れた。痩せこけてはいたが娘らしい胸の膨らみもあって、先ほどの子供姿と違う事は明らかであった。

「なんとっ」
月渓は慌ててそれから顔を背けた。

―――似ておらぬか?

「裸ではないか」

―――だが麒麟でも転変すれば裸だ

「転変?」

声は顔を背けたままの月渓のそばに近づき、乱れて横顔にかかる月渓の髪に触れた。

「私ほどになると、何でも出来る」

傲慢そうな言葉にもかかわらず先ほどまでとは違う柔らかな声に思わず振り向くと、目の前に記憶の中の祥瓊に瓜二つの娘がいた。あわててその背後を窺うと、あの黒い妖魔の姿がなかった。

「お前はあの妖魔か」
「ああ。待てというから待ってやる事にした」
娘はその姿と声に似合わぬ横柄なもの言いで思いがけない事を言った。
「喰うときに探さなくてもよいように一緒にいてやろう」
それもひどく恩ぎせがましいが、礼でも言えと言うのかと思った。
「必ず捜して喰われてやるから心配するな」
喰われるのも困るが、一緒になどというのもとんでもない事である。しかし相手は本気らしかった。

「退屈で黄海を出てみたが、ここは本当に何もないつまらぬ国でもっと退屈していた。だから人の中に入ってみるのも一興かと」
どうやらこの呆れた妖魔は月渓を餌にする前に暇つぶしの相手をさせようとしているらしかった。

「これからここはもっと何もかもなくなるはず、気に入らぬならさっさと黄海へ帰れ」
月渓は相手の首から下に目をやらぬように叫んだ。
「それにその姿はなんだ」
「お前の頭から借りた。気に入らないなら好みを言え。最初のは小さくて窮屈だったからやめてくれ」
「どんな姿でも中身が妖魔なら同じだ」
いくら吐き捨てるように言われても相手は動じなかった。
「そうか?」
そして自分の身体を珍しそうに見下ろしている妖魔を振り切れないと分かった月渓だったが、ふと気がつくと日が傾き始めていた。
とりあえずまだ生き延びる事になったのなら、一刻も早く帰って仕事をせねばとそちらも気になり焦った。

それにしても裸の、しかも前公主にそっくりな妖魔などどうすればいいのか。連れ帰る事も出来ないが、危険で人に預けることも出来ない。
月渓は溜息をつくと、上着を脱いで妖魔をしっかりとくるみこんだ。帯がもう一本あれば腕ごと縛り上げてやるのだがと思ったが、その考えを読んだかのように低い笑い声が聞こえた。

そうして少し離れたところに繋いだままの騎獣のところへ連れて行ったが、獣の本性で妖魔が分かるらしく、さすがの虞も低い声でうなり声をあげて後ずさった。
それをなんとかなだめ、妖魔に乗るようにと言うと不満そうであった。

「若い娘には手を添えて乗せていたぞ」

それに言い争うのもばかばかしく、ぐいと帯を掴んで荷物のように騎獣の上に放り上げるとその後に跨った。そして背後から首筋を食いちぎられるのではと不安げに振り返る虞の頭を撫でて安心させると飛びたたせた。