王宮に着くと、禁門の兵がいぶかしげに見慣れぬ王の連れを見た。
ほとんどが顔なじみでいつもなら親しく声を掛けるのだが、今日ばかりは何も言わず妖魔の腕を引きずって自室へと急いだ。
ちらりと見た手は顔の肌以上に荒れていたが、衣越しに掴んだ腕は柔らかく、乱暴に引きずられて来る身は意外なほど軽かった。
たしかに最後に見た祥瓊の姿にそっくりであったが、それが嬉しいはずもなく、誤解があってもいけないので王宮へ着くまでに変えさせようとしたが、動揺したためか何も思いつけず、結局髪と眼の色だけしか変えさせられなかった。
やっと私室に着くと、今日ばかりは王宮の奥深くに広い部屋を持つことをありがたく思ったが、とにかくこの妖魔を何とかしなくてはならず、気の進まないまま女官を呼んだ。
そんな月渓をよそに、妖魔は興味深そうに室内のあちこちを眺めていた。
やって来たのは年輩の女官で、礼をして顔を上げると、こちらもまた訝しげに妖魔の方を見たが、顔が合ったとたん、あっと声を上げた。
「公主……」
「どうして公主を知っている?おまえ、あのころは州城にいたではないか」
今、月渓の身近にいるのはすべて州城から連れてきた者なので、よもや祥瓊に似ているとすぐに気づかれるとは思わなかったので焦った。
「里家から連れ戻られた時お世話いたしました」
その言葉にしまった、と反省した。考えてみれば仙籍を離れた後の成長した祥瓊を見たのは州城の者ばかり。むしろ王宮の者は幼い公主の姿しか知らないのであった。あまりの出来事にそこまで頭が回らなかった月渓らしからぬ失態であった。
「これは、途中で拾った山客だ。公主は遠い国にいらっしゃるのは存じておろう」
そしてそんなでまかせに、山客ですか、と言って女官はじろじろと相手を見た。
その視線を受けても
妖魔は動じることもなく澄まして座っていたが、たしかに女官の記憶の中の祥瓊とは雰囲気が違う。よく見れば髪の色が違うし目の色も。
「だからこちらの事を何も知らぬが、世話を頼む」
さらにそう言われても、女官はまだ腑に落ちないまま胡散くさそうに妖魔を見ていたが、渋々妖魔を連れて出ていった。
これでなんとか片づいた、と月渓はとりあえずはほっとして仕事に取りかかったが、やがて夕餉の時間になった。
飯庁へ行くとなんとあの妖魔が座っていた。
「なんでお前がここにいる」
「知らぬ。ここは飯を食うところか」
「ああ、だが私はおまえの飯ではない」
「分かっておる」
「それからその言葉遣いを何とかしろ」
「ん?何かおかしいか?」
「仮にも若い娘だろう」
「ふむ」
そこへ食事が運ばれてきた。
妖魔はしばらく月渓が箸を使うのを眺めていたが、自分も箸をとるとぎこちない手であちこちの皿をつつき始めた。
「これは、何か。いや、何でございましょう、月渓様」
「青菜の煮たものだな。それからこちらは豆腐だ。あちらは……」
「私は麒麟ではない…のでございます、月渓様」
「ああ、そう…か」
そこで何か肉料理を追加するよう奚に言いつけた。
食べ物に注文を付ける、まして肉を追加で注文するなど滅多にないことに驚いた賄い方であったが、急いで肉を焼いてくれた。
ここでは贅沢品である肉も、妖魔には小さすぎたようだった。しかも味をつけて焼いてあるのがすこぶる気に入らないようであったが、箸を放り出して手でしぶしぶ食べていた。
これなら、きっと早々に黄海へ戻って腹一杯食べたくなるに違いない、と月渓はそれを見てほくそ笑んだが、口では十分なものを用意できないのを尤もらしく詫びた。
「天候が悪く実りが悪いし、四つ足のものはみんな妖魔に喰われてしまうので、肉どころか穀物すら不足しておるのだ。ここにいる限りは、その程度の肉も明日は出せないかもしれない」
しかし何と言われようと、妖魔は腹が減ってそれに返事をする気もなさそうだった。
月渓は元気のない妖魔を置き去りにして、また部屋に戻って仕事をしていたが、やがて夜も更けてさすがに疲れた。いやはやとんでもない一日であったと思いながら臥室へ行くと、妖魔が待っていた。
薄紅色の被衫は、髪の色によくあって美しかったが、そんな姿の妖魔がここにいる事自体とんでもない事であった。
「なぜ、ここにいる」
「また同じ質問か。仮王というのは馬鹿か」
「無礼な。それより、ここで何をしている」
「どこで寝るかと聞かれたので、そんな事は知らないが、いつもお前のそばにいるためにこの城に来たのだと言ったら、ここへ連れてこられた。
なんだか、みんな喜んでいたぞ」
月渓は頭を抱えた。
「ところで腹が減ってたまらぬ。先ほどの騶虞はどこにいるのか」
「あれは騎獣で餌ではない。ここに来るまでにはっきり言ったはずだ。この王宮内で狼藉をしてみろ、禁軍全部を差し向けてやるからな」
「しかし、飯を食わさぬとは言わなかった」
「この王宮で太った人間を見たか?いないだろう。人間が食べるにも事欠いているのだ。お前のような大食らいの妖魔などはとても養いきれない。もちろん町へ降りて喰うのも許さぬからな」
月渓はたとえ鼠一匹でもこの国のものを喰われてなるものかと、むっつりした相手に向かって言い立てた。
「ではどうしろと」
「ここにいたいなら、この国でおまえが喰っていいのは妖魔だけだ。そうさ、いくらでもいるから全部喰っていいぞ」
その気前のよい言葉にも妖魔は不満そうな顔をしただけだが、納得したというより腹が空きすぎてそれ以上言い争う気にもなれないようで、さっさと出かけようとした。
月渓の目の前で、祥瓊に似たその姿からはらりと紅色の衫が落ち、白い肌を見せたと思う間もなく揺れてゆがみ黒い影になった。そして一陣の風と共にそれは窓から滑り出て行った。
月渓はそれを見送ると牀榻の前の床に拡がった被衫に目をやり、しばらく見つめていたが、とりあえずそのままにしておくことにした。
「まあ、こんな事で皆に喜んでもらえるなら……」
そう呟きながら衾褥に潜り込むと、妖魔に喰われもせず、国もなんとか保っていることに満足することにして一日を終えた。