その歌を、西風頌と呼ぶのだと景麒は言った。

風の丘を越えて西方へ去っていった人々に、いつの日か再会することを約束する歌なのだと。
 

風の丘を越えて 前編

いつもより長引いた朝議を終えると、短い秋の陽はすでに傾きかけていた。


外殿の控えの間で今日の議題を確認した後、内殿に向かおうとした陽子を、後ろから呼び止めたのは景麒の声だった。

堂扉の前で振り返った主の方へ、下官から書状を受け取りながら景麒が歩み寄って来る。

「――瑛州府から月例報告が上がって参りました。改めて確認の後、内殿に届けさせます。お目通しの上、問題がなければ御璽を頂きたいのですが」

「ああ……」

陽子は少し困ったように言い淀み、それから思い切って顔を上げる。

「午後は、尭天に降りてみようと思っているんだ。……久しぶりに」

いつもなら、ここで深いため息に続き、説教とも諫言ともつかない言葉が返ってくるはずだった。だが今日はそのどちらでもなく、景麒はしばらく何かを考えるように黙っていた。

「――明日では、いけませんか」

静かな声で訊かれて、陽子は首を傾げた。

「かまわないけど。……でも、どうして」

「わたしもご一緒いたします」

思いがけない言葉に、陽子は目を瞠る。

それ以上は何も言わず、景麒は庭院の向こうに目をやった。

何かを見ているというよりも、遠くの音に耳を澄ませるような表情だと思い、陽子もそちらを振り返る。

けれど聞こえてくるのは、秋の涼しさを含んだ風に色づいた葉が落ちる、音とも呼べないかすかな気配でしかなかった。

◆ ◆ ◆

翌日、いつものように朝議を終えた後、陽子は景麒を伴って街に降りた。

どこか落ち着かない気分だった。

長い布で髪を覆った景麒は、いつもの黒い袍の代わりに、袖も丈も短い旗袍、それに細い袴を身につけていた。街中で見かける少し裕福な庶民の身なりと一緒だと、それをちらりと横目で見ながら陽子は思う。

陽子がこの国の王として立ってから、すでに数年が経つ。政務の合い間を縫っては時折街に降り、自分の目で市井の様子を確かめるように努めていたが、景麒が一緒に来るのはこれが初めてだった。




雉門から南に尭天を貫く広途を下り、少し西に入ったところに、低い木塀で仕切られた広い敷地があった。小さな門の向こうは、無数の露店が集まる庶民の市場になっている。

中を少し見て来るから、と陽子が言うと、景麒は軽く頷いた。――では、門外でお待ちしています。

景麒をそこに残したまま、陽子は門をくぐって市場に入った。

真っ直ぐに伸びた路の両脇には、天幕を張っただけの露店が立ち並んでいる。入り口に近い方に野菜や肉などの生鮮品、少し奥には米や穀物といった乾物を扱う店が、ひしめき合うように軒先を並べていた。

ここへ来ると、どんなものがどれほどの値段で売られているのか、民の生活が一目で分かる。先日王宮で受け取った報告の通り、今年の収穫も満足のいくものだったらしく、夏に来たときよりも米の値段は下がっているようだった。

朝の賑わいを過ぎた市場は人出も落ち着き、店の前に並べられた品々を覗き込みながら、陽子は辺りをくまなく歩いて回った。――ここでは、見るものすべてが生きた教材だ。

敷地の端まで歩き終えると、すでに一刻ほどが過ぎていた。急ぎ足で門まで戻った陽子を、景麒は同じ場所で待っていた。

どんな格好をしていても、その姿には、周囲の雑踏とは場違いなくらい透明な気配が漂っていて、陽子は思わず笑いを堪えた。――市場の中へ入らなかったのは正解だった。これでは目立って仕方がない。

「待たせて悪かった。……これからどこへ?」

わざわざついて来たのだから、何か見たいものがあるのだろう。そう訊ねた陽子に、景麒は頷いて城壁を振り返った。

「――では、街外れまでおいで頂きたいのですが」


◆ ◆ ◆


そこは、尭天の中心から北西に数里ほど離れた、寂しい草地だった。

なだらかな丘陵には一面の薄が光り、辺りには民家も人影もない。

景麒に促されるまま、陽子は訝しく思いながらもその後に続いて丘の斜面を登っていく。こういうときに説明を省く、この麒麟の癖にはもう慣れていた。

以前にも来たことがあるのか、意外に急な道を辿る景麒の足取りは、どこか慣れたもののようにも見えた。

丘の上には数本の這松が、暮れかけた空に向かって奇妙にねじれた枝を生やしていた。やや遅れてそこに着いた陽子は、眼下に広がる光景に目をやって、軽く息を呑む。

墓地だった。

削れたようにせり出した丘の下には、小さく土を盛り上げただけの簡素な墓が百近くも並んでいる。一見して庶民のものと分かる、飾り気のない墓標だった。その向こうには、遠く尭天の城壁が、夕陽を受けて輝いているのが見える。

「……景麒」

驚いたように顔を上げた陽子に、景麒は頷いて草原の向こうに目をやる。

「――もうすぐ参ります」

その視線を追って振り返ると、墓地へと続く一本の細い道を、白い影のようなものが近づいてくるのが見えた。


それは葬列のようだった。白装束に身を包んだ人々が、担ぎ棒に吊るした棺を囲むように、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

卵果を模した棺は、独特の丸い形をしていた。こちらの世界では、人は卵果から生まれ、再び卵果となって土に還る。

こんなところから葬儀を覗き見るのは、失礼に当たるのではないか。振り返ろうとした陽子の肩を、後ろから景麒の手が軽く抑える。――どうか、このままで。

穏やかな確信の籠る手だった。


晩秋の空気には薄すぎるような衣を通して、その手が肩を温めるのを感じながら、陽子は松の木蔭に身を隠すようにして埋葬を見守った。

棺の上に土を掛けていく人々の後ろに、白い布を頭に巻いた女の群れがあった。それが泣き女と呼ばれる女たちであることは、陽子も知っていた。

その中から遠目にも年配と分かるひとりの女が進み出て、土を盛られた真新しい墓の前に立つ。足摺りするような独特の身振りで悲しみを表した後、女は頭を垂れ、低い声で歌い始めた。

最初はしめやかに、呪文のような短い旋律を二回ほど繰り返した後、その声は不意に何の前触れもなく膨れ上がった。鳥が大きく翼を広げたかのような、突然の変化だった。

全身に鳥肌が立つのを陽子は感じた。景麒の手が、それを支えるように肩を包む。

決して美しいと形容できるような響きではない。吹き抜ける風のように割れた、素朴で単調な節回しだった。――けれど、それは何と忘れ難い声だったことだろう。

悲しみに身体を揺らしながら、女は歌っていた。死者への呼びかけとも啜り泣きともつかない女たちの声がひとつ、ふたつとそれに重なってゆく。


広がっていく夕闇の中、それは影絵のように美しい、胸の痛む光景だった。後ろに立つ景麒が、祈るように頭を垂れるのが分かった。

風に乗って流れてくる挽歌を聞きながら、陽子もまた深々と頭を垂れる。

後編へ続く

warehouse keeper TAMA
the warehouse12