風の丘を越えて 後編

風が少し強くなってきたようだった。

草原の向こうに沈みかけた夕陽の中を、葬儀を終えた人々が帰って行く。

風に解かれてしまった布を取って、吹き散らされる金髪を手で払っていた景麒は、やがて旗袍の襟元に手をやって袷紐を解いた。

後ろ手に持ったその紐で長い髪を無造作に束ねると、彼は脱いだ旗袍を陽子にさし出す。――これを。ここは風が冷たい。

いつもは身体を覆うほどに長い金髪が見えなくなり、白い短衣だけになった景麒の姿は、初めて出逢う他人のように、陽子の目には映った。

――わたしは、おまえのことなど何も知らないのかもしれない。

そんなふうに感じるのは初めてだった。寂しさとも哀しさともつかない曖昧な感情を扱いかねて、陽子はぽつりと訊ねる。

「髪を……切ったりはしないの」

「――短い鬣では、転変したときに困るでしょう」

そう答えた景麒は、微笑というにはあまりにかすかな表情を浮かべて陽子を見た。それは聞き慣れたいつもの口調だったのに、暮れていく空の下、不思議な心細さがあった。

どうして自分をここへ連れて来たのか。そう訊こうとして長い間ためらった後、陽子の口から出たのは、やはり微妙に方向を変えた問いかけだった。

「景麒は……今日ここで、葬儀があると知っていたんだね」

「雲海の上にいても、地上の出来事がわかることはあります」

わたしは麒麟ですから。

景麒は静かに答えた。――聞きたくないものまで、聞こえてしまうときがある。主上が思われるほど、世俗に疎いわけではありません。

「ですがわたしにできるのは、それに耳を傾けることだけです。……以前は、そうしたことがよくありました」

「以前?」

「例えば王を……」

少しためらった後、景麒は続けた。

「――王を探しに、市井へ降りたようなときには」

ああ、と陽子もうつむく。――この麒麟は、かつて十数年も王を待っていたのだ。そして自ら蓬山を降り、生国へ赴いて、主となる人を探し求めた。

嘆きに満ちた荒野を越え、民の苦痛を目にしながら日々を過ごしたことが、彼にもあったのだ。――昼間自分が目にした、生き生きとした光景につらなる人々の過去を。

けれど、景麒の口からそれを聞くのは今日が初めてだった。

「あの頃は、人が死ぬことなど日常茶飯事だった。毎日のように、どの街でも、あらゆる種類の葬儀を見ることができました。……ですが、丁重に葬ってもらえる者はむしろ幸せです。そのうち民は死者を弔う余裕すらなくなり、屍は穴の中に筵を重ねて放置されるようになった。昨日までは家族の死を悼んでいた者が、翌日には冷たくなってその穴に横たわっている。――そういう時代が、この国にもありました」

あまりに静かな、淡々とした口調だった。

そんなところで、と陽子は声を詰まらせる。

「身体に障っただろうに。おまえは……麒麟なのに」

「――死は穢れではありません」

景麒は穏やかに答え、陽子を振り返った。

「もしそうなら、始まりである生もまた穢れということになってしまう。――悲しいことには違いない。けれど、死そのものは日没と同じように自然の一部です。どんな形でもたらされるにしろ、それ自体が穢れということはありません」

かつてこちらに流されたばかりの頃、陽子を里木の許に誘い、人がどうやって生まれてくるのか教えてくれたのは楽俊だった。

そして今は景麒が丘の上に立ち、人の生涯が終わる時のことを語っている。

「あれは、わたしの原風景です。――初めて蓬山からこの国に降りたときにも、同じものを目にし、同じものを聞いた」

夕暮れの風の中で翻る金色の髪が、並んで立つ陽子の肩先に触れる。

「ああした光景をご覧頂きたいとは、これまで考えてはおりませんでした。……ですが今なら、主上の傍で同じものを見ても、安心してこう考えることが出来る」

景麒は彼独特の、静かに完結した口調で言った。


「――少なくとも主上の葬儀を、わたしがこの目で見なくてはならない日は、決して来ないのだと」

◆ ◆ ◆

結局、受け取った旗袍に手を通すことはなかった。

それを抱えたまま丘の斜面を降りようとする陽子に、景麒が手をさし出す。重ねたその手が冷たいのは、自分が袍を取り上げてしまったせいなのだと陽子は思った。

――これくらいなら、自分で降りられる。そう言おうとしたが、手を支えてくれる景麒の足取りは、陽子のものよりもずっと確かだった。

あの歌は何と言うの、と陽子は小さく訊ねる。だが答えはなかった。

きっと彼には聞こえなかったのだろう。――それとも、葬儀の歌に名前などないのかも知れない。

節くれだった松の根が絡まり合う斜面を、注意深く下っていた陽子の足が平地に着いたのを見届けて、景麒は手を離す。

そのまま歩き出すかと思われた彼は、陽子の目を覗き込むようにして、途切れていた問いかけに答えた。

「――西風頌と云います」

深い紫色の瞳を、陽子は何も言わずに見返す。

胸に広がっていく、ゆるやかな安堵があった。――この声なら、よく知っている。

「こちらで再びお逢いして、玄英宮にお連れ頂くまで、わたしは主上のお名前を知りませんでした」

どんな歌よりもその声が、心の底へ届くような気がした。

もう見知らぬ人のようではなくなった半身を見上げながら、陽子は続く言葉を待つ。――今日ここまで来たのは、多分それを聞く為でもあったのだと思いながら。

「初めてそれをお聞きしたとき、光のような名だと――光はやはり東から来たのだと、そう思いました。太陽の昇る東方が生の象徴なら、慶から見て蒿里のある西方に、死者の魂は向かう。――ですからあの歌は、西風頌と呼ばれます」



冷たくなっていく風の中で、ある対象に向かって心が引き寄せられるという感覚を、その夕方、陽子は初めて意識した。

傍にいることには慣れていた相手の中に、今まで知らなかったものを見出した、驚きに近い感覚がそこにはあった。だがその後に残る淡い感情を何と呼べばいいのか、そのときの陽子には分からなかった。

葬列が戻っていったのと同じ、細い一筋の道を並んで歩き出しながら、陽子は手に持った旗袍を景麒にさし出す。――大分冷えてきたから。

一度受け取った袍を広げると、景麒はそれを陽子の肩にかけた。

このまま歩いて尭天に戻れば、王宮に帰り着くのは夜になってしまうだろう。

けれど二人のうちのどちらも、急ごうとは言い出さないままだった。



風の中で聞いた歌声とともに、その夕暮れの記憶は、以後長く陽子の中に残った。たとえその後、一度も口に出すことはなかったとしても。

あのとき生まれた感情を何と呼ぶべきなのか、陽子が理解するようになるまでは――そしてそれを自分に認めることができるようになるまでは、まだ幾度とない秋を必要とする、晩秋の静かな夕暮れだった。

warehouse keeper TAMA
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