書卓の上に山と積まれた書類の束。それを見るともなしにぱらぱらと繰り、浩瀚は思案する顔で呟いた。
「さて‥‥どうしたものか」
その様子を目にした下官は、思わず己の目と耳を疑った。あの伶俐で如才無い冢宰が、政務の書類を溜め込むことなど有り得ない。ましてその対処に苦慮して思い悩むなど。
だが、それは下官の誤解である。浩瀚が見ていたのは政務の書類ではない。それは、この夏に即位十年を迎える慶国女王に礼典での盛装を願う嘆願書と、天官長を筆頭に数多書き連ねられた官吏女官らの署名であった。そしてその主旨は、女王本人に直接訴えるものではなく、冢宰に女王の説得を依頼する意図で書かれたものであることは明白だった。
「即位が夏でなければ、あるいは主上も多少は妥協してくだされたかも知れぬがな‥‥‥」
「暑いから嫌だ」
夏でなければ、との浩瀚の仮定を裏付けるように、陽子の返答は簡潔だった。
「真夏に盛装なんかして正殿の壇上に押し込められたら、私は死ぬ」
真面目な顔でそう言う女王は、浩瀚が冢宰として金波宮に来て以来ずっとそうであったように官服を着ている。だがそれは、同じ官服の浩瀚に比べるといかにも軽装に見えた。重ねが少ないのはもちろん、その生地自体が薄い。今はまだ初夏と言うのに、陽子のそれは真夏の装いであった。そして夏になれば、目を覆いたくなるような恰好をして女官を嘆かせ、浩瀚を悩ませるのだった。
「主上が暑さを苦手となさっておられるのは承知しておりますが‥‥‥」
「言っておくが、私は特に暑さに弱いと言う訳ではないぞ。そんな恰好で汗ひとつかかないお前たちの方が変なんだ」
クーラーも無ければ扇風機も無く、半袖もミニスカートも許されない世界で、夏は陽子にとって地獄の季節であった。今しているような恰好でも夏には暑くて溜まらないのに、幾重にも衣を重ねてぎゅうぎゅうに締め付けられる盛装をするなど、断固拒否する。
「それになんで、今年に限って女装させようとするんだ」
顔をしかめる陽子に、浩瀚は苦笑する。女装と言う言葉はそもそも男が女の装いをするのを現わす言葉であるから、この場合は適当ではない。むしろ、日頃の陽子の恰好をこそ男装と呼んで忌憚すべきであるが、今さらそれを言っても始まらない。
「十年の節目の礼典でございますからね。本来あるべき御姿で臨んでいただきたいとの諸官の思いも判らぬではありませんが」
「十年だろうと二十年だろうと関係無いじゃないか。まだまだ慶は安寧には遠い。私が無駄に着飾っている場合じゃないだろう」
「必ずしも無駄と言う訳ではありませんよ。王の威信を示すことは、朝の安定ひいては国の繁栄を示唆するもので、民に立派な王を戴いていると言う思いを認識させる意味で有効です」
「着飾って壇上でふんぞり返っていれば立派な王か?」
「もちろん、内実が伴ってこその威信でございますが‥‥‥そのような建て前よりも、ひとつ主上にも解りやすい理由を申し上げましょうか」
浩瀚の声音にどこか面白がるような気配を感じて、陽子は訝る。
「解りやすい理由?」
「このところ以前にも増して艶やかに麗しくなられた貴女さまを、それに相応しい装いで飾りたいと言う、単純な希望でございます」
「‥‥‥は?」
ぽかんとした陽子に、浩瀚は意味ありげな視線を向ける。
「主上は御自身でよくお解りのはず。今ここにいらっしゃる貴女さまは、昨年までの少年とも見紛うような無垢で稚い蕾ではなく‥‥‥既に女性として花開いた存在であると言うことを。お若くして神籍に入られた主上はそれ以上ご成長なさることは決してありませんが、それでもお身体に変化があれば、それは隠しようもなく匂うものでございます」
浩瀚の言っていることの意味を理解して、陽子は羞恥に頬を染めた。狼狽えたように自身の顔を両手で包み、困惑の視線で浩瀚を見る。
「‥‥え?‥‥ええ?‥‥何?判るの?‥‥もしかして‥‥バレてるの?」
陽子は、今年に入って『恋人』を得た。正確には、以前から密かに想いを交わしてきた相手と結ばれた。だが、それを悟られるような素振りは見せてないつもりでいたのだが。
「少なくとも、お側付きの者はすぐに気付いたでしょう。それ以外の者でも、多少聡い者なら勘付くでしょうね。相手が誰かまでは見抜けずとも、咲き誇る花の意味に思い至るのはそう難しくはないかと」
さらりと言う浩瀚を陽子はちらと睨んだ。『相手』とは、他ならぬ目の前のこの男なのだ。
「‥‥‥そんなに、判りやすいかなぁ?私」
陽子は頭を抱えるようにして書卓に突っ伏す。恥じ入るばかりでなく落ち込んでいるふうの陽子を宥めるように、浩瀚は柔らかく言う。
「聡い者なら‥‥と言う程度ですよ。多くは、ただ主上の花のようなお美しさに目を奪われているだけでしょう」
「‥‥そんなに‥‥変わるものか?」
「ええ。眩いばかりのお美しさです。いっそ他の者の目に触れぬよう、隠してしまいたいほどに」
「‥‥‥ばか」
顔を伏せたまま呟く陽子に判らぬように表情だけで笑い、浩瀚は口調を改める。
「ですが、物は考えようでございましょう。この度の嘆願は、盛装をと言うよりも麗しき女王に相応の装いをと言う点に重きがあるように推察します。ですから、主上が『女装』に耐えてくださるのなら、なるべく暑苦しくない過ごしやすい衣装を整えるよう、取り計らいましょう」
浩瀚の提案に、陽子はしばし考えて、不服そうな顔をしながらも小さく頷いた。
「‥‥‥分った。本当に暑苦しくない恰好でいいのなら、女装も我慢しよう」
陽子の言を受け礼を述べ拝礼した浩瀚に、陽子は「ただし」と付け加えた。
「もうひとつ条件がある。これは皆の嘆願を入れて意に添わぬ恰好をする私への、ささやかな褒美だと考えてもらいたい」
そう前置いて告げられた条件に、浩瀚は複雑な顔をしながらも頷いた。
「畏まりました。無事に礼典を終えられましたら、主上の御希望に添えるよう手配いたします」
「約束だぞ」
「はい。必ず」
慶はまだまだ貧しいのだから、一度しか着ないような礼典の衣装を新たに作るような贅沢は許さない。女王の断固とした主張により、礼典の衣装は装身具も含め全て、御庫にある物で賄うことになった。幸い慶は女王の続いた国、御庫の中には多くの衣装が残されている。
嬉々として女王の衣装を選ぶ女官たち。御試着を、と差し出されるきらびやかな衣装の数々に「ものには限度があるからな?」と釘を刺した陽子の心情を知ってか知らずか、最終的に整えられた衣装は、実に女性的で艶かしいものだった。
衫のような下着は省いて、胸から下を覆う長裙を直接素肌に纏う。これに美しい刺繍の施された裳や帯を着ける。それだけでは肩や腕が露出することになるので、その上に引き摺るほど長い上衣を重ねた。しかし、この上衣は繊細で優美な透かし織りの入った非常に薄い絹地でできており、近くで見ればその下の衣の色や肌がうっすらと透けているのが判る。襟で覆われないむき出しの首元を飾る連珠は、ごく小さな真珠と紅玉を花のように編んで連ねたもの。複雑な形に結い上げられた深紅の髪には、やはり小さな真珠を連ねた鎖が編み込まれている。重い歩揺を嫌がる女王の為に用意された髪飾りは生花。大輪の牡丹を軸に鮮やかな花々が見事に計算された比率で女王を活き活きと彩っている。薄く化粧を施された女王の顔は、その気性を現わして凛と気高く精彩に富んでいて、健康的に力強い光輝を放ち、艶かしい衣装に身を包み匂うような色香を帯びてはいても、淫猥を感じさせる妖しさは無い。それは、まさに女神のごとき高貴な美しさ。
礼典当日、その女神のごとき女王を前に、型通りの礼装を一部の隙も無くぴっしりと着込んだ浩瀚は、言葉も無い様子でただ息を呑んで固まった。
陽子は僅かに頬を染め、浩瀚の顔を直視できずに憮然とした顔を背ける。
「‥‥‥笑いたければ笑え」
自分には女らしい綺麗な装いなど似合わない、と信じている陽子は、浩瀚の反応を否定的なものと捉えて自棄のように呟いた。すると、ふっと浩瀚が微かな笑い声を洩らして、それをねめつける。
「お前、本当に笑ったな?」
「―――失礼を。あまりの神々しきお美しさに、私のよく知る貴女さまとも思えず気を呑まれておりましたが、主上らしいおかわいらしい発言でやはり確かに貴女さまだと感じて、つい嬉しく思ってしまいました」
浩瀚は、顔をしかめる陽子の手をすいと取り、細く美しい指の先の綺麗に色を乗せられた爪に口付けを落とす。
「‥‥なっ‥‥!」
反射的に引かれようとした手を優しく握ってとどめ、嫣然と微笑んで陽子を見た。
「壇上に戴いて皆に披露されるのが惜しいほどにございます。いっそこのまま攫って、二度と余人の目に触れぬよう、私の腕の中で美しい花を散らしてしまいたく思います」
顔を赤くして返す言葉も無い陽子に追い打ちを掛けるように、浩瀚は、陽子の羽織った薄い上衣の合わせを片手でさらりと払い、片方の肩を露出させる。
「それは適わぬ望みですので‥‥‥せめて‥‥‥」
「浩瀚‥‥‥!」
身を引く陽子を逃がさず、その腕の付け根に口唇を寄せる。ちり、と走る小さな刺激。
「‥‥‥だめっ‥‥」
陽子が咎めた時には、既に浩瀚は目的を果していた。陽子の肩に咲いた小さな紅い花を満足げに見て宣う。
「私からもひとつ、御身を飾る花を献上いたします」
「‥‥‥こんな飾りは意味が無いじゃないか」
人に見せる訳にもいかないものを。陽子の憮然とした呟きに、浩瀚はさらりと返す。
「人知れずとも匂う色香が増して、いっそうお美しくあられます」
「浩瀚!」
思わず声を荒げた陽子だったが、浩瀚のどこか自嘲するような複雑な笑みに、それ以上の言葉は出なかった。
「お許しください。こうでもしなければ、私は皆の前でこの方は私のものだと叫んでしまいそうにございます」
陽子は深く息を吐く。
「‥‥‥だったら、こんな恰好は許さずに、いつものように男の恰好で済むように口添えしてくれれば良かったのに」
皮肉げに言う陽子に、浩瀚は笑う。
「主上の出された『条件』が、私にとっても殊の外魅惑的でありましたので、それを適える為にも諸官の機嫌をとっておきたかったものですから」
「約束は守れそうか?」
「はい。既に手回しは充分に」
「では、それを楽しみに、窮屈な礼典での責務を全うしてこよう」
陽子は上衣の衿を整えて表情を改める。屹然とした女王の顔になると颯爽と歩み出す。
そして浩瀚もまた、甘い気配を欠片も残さず瞬時に伶俐な冢宰の顔になって、至高の女神に付き従った。
赤楽十年夏。慶東国国主景王中嶋陽子の即位十年を祝う礼典は恙無く執り行われた。壇上に凛として立つ気高く美しい女王の光輝と同様に、この女王のこの先の御代もまた、燦然と輝かしくあることだろうと思われた。