冬の旅 3

馬車でならほんの僅かな距離、しかし徒歩で荷を引く彼らには終わりなく続くかのような山道を経て座はまた別の廬にたどり着いたが、そこが限界だった。

本当ならもうひとつ手前の里で一息付けるはずだった。しかし互いに情報を寄せ合い十二の国の全ての道・街の状況に通じているはずの朱旌の旅に稀に起きる小さな綻びから、あてにしていたその里が近頃の出来事のため棄てられ無人となっていたのを知らなかったのだった。あの新しい座長は逃げる前にそれを出会った他の座から聞かされてはいたのだが、他の者にそれを伝える事すら怠っていたのだった。

殆どの者が歩く事も出来なくなり、老いた女ですら歩ける限り荷馬車を引いたがそれでもどうしようもなかった。せめて冬の間興行の出来る街へ行こうとしたが、もはやそこまでの旅はこの顔ぶれには無理だった。

小狼はしゃがみ込んですすり泣く老人を見下ろした。
「俺たちを置いて行くんだ」
そう言われても置いていってどうなるか、村人が助けてくれるはずもない。
すでに途中でひとりが夜中にそっと抜け出していた。そして残された朱い旌券が追うなと別れを告げていた。最近の厳しい生活に病がちの身体は急激に弱っており、すでにその者の寿命は尽きていたと誰も追わなかった。探せば危険な場所で野宿になるかもしれない上、残された側にも追う余裕がすでになかった。

僅かな休息のために足を停める時ついでに何かないかと探したが、街道沿いの木や草の実りはとうの昔に先に通った手に摘み取られており、少し奥まったところまで行けばあるかもと思ったが、あるかないかも分からないもののためにそれ以上留まることは出来なかった。
雨が降らないのはありがたかったが、そのため途中のか細い流れの水は澱み、路傍に見つけた泉の水は美味だったが重くなるので小さな水甕の分しか貯めることは出来なかった。
皆餓え、渇き、馬車の幌すらない野宿に疲れ切っていた。

「ここに当分置いてもらえるか、誰か訊いてこいよ」

小狼のしゃがれ声にも顔を見合わせるばかりで誰も動かなかった。
足下の老人は泣く力もなくなったようで、地面に上半身を伏せはいつくばったままになったが、屈み込んで耳を近づけるとまだ息はしていた。
天だの理だのと難しい事ばかりで意味も分からない言葉の羅列を教え込もうとして、口も開こうとしない小狼を小さな鞭で何度も叩いた短気な男だった。
そしてその背後に座り込みあるいは辛うじて立つのはいずれも汚れきって老いとやつれの目立つみすぼらしい集団だった。これでは宿を頼もうにも物乞いと間違われて追い払われるのがおちだろうと思った。

たぶん自分も同じかと汚れた爪を見ていた小狼は立ち上がると荷台によじ登った。衣箱である葛籠をひとつ引きずり出し、さらにあちこちかき回していたが別の小振りの箱を探し出すと立ち上がった。

「手伝ってくれ」
声をかけられた老女はその小さな方の箱を受け取ると、葛籠を担いだ少年の後に続いた。

道に沿って小さな沢があった。他と同じく冬の前で水量は少なかった。もう少し寒くなれば岸に近いあたりは氷が張るのかもしれない。
鞜を蹴飛ばし袴と袍を脱ぎ捨てた小狼はそこまで下りていったが、つま先を入れただけでその冷たさに体中が縮み上がり感覚を失った。しかしぐっと唇を噛み締め、構わずがばとその水の中に頭をつっこむと、震えの止まらない手で道中の汚れで固まった髪を乱暴に洗い流した。
澱んでいるように見えたそこにも流れがあったようで、集まって見下ろす座員の目に解された黒い髪が水面に拡がり沢を縁取る枯れかけた浮き草の向こうへ引かれるのが見えた。

髪を洗い終わった後も水面の上で顔を伏せたままの小狼に、化粧道具の入った箱の中身を取り出し終わった背後の老女は恐る恐る声をかけた。
やっと身を起こしてこちらを向いた顔も目も水の冷たさのためか赤かったが、渡された手巾で髪を拭きながら無言ですたすたと葛籠のところへ向かう少年に、取り囲んでいた大人達は慌てて道を明けて通した。



間もなく一帯の殆どの土地を持つ家の裏口に、小柄な姿が屋敷の主に案内を請うた。

「……むごい座長に捨てられて、老いた養父と養母はもう歩けず……」
小鳩のような髪は長旅のためかやや艶を失い、下を向いたままでよく見えない肌もくすんでいるようだったが、それでも粉(桃色)の襖袴の袖の陰で淑やかに涙ぐんで訴える小姐の可憐な姿に家公はいたく同情したようで、ひと冬の滞在を許した。






一座には住処として農地の隅の物置が与えられ、僅かだが食糧まで貰えることになった。その量は十分とは言えなかったが幸い食の細い年寄りばかりで節約すれば当座はなんとか一日二食食べる事が出来そうだった。

こうして落ち着き場所を得た彼等は、そこを拠点として冬を越すことになった。
寒さが厳しくなるまでは、楽器や衣装を背負って近隣の里まで出かけて興行をした。穫り入れ後の大きな祭りは済んだ後だったが、それでも冬至や新年にはあちこちで人の集まる機会もあって、そのおかげで多少の食物や燃料を買うことが出来た。

芸のない小狼は荷を運び、木槌を振るって野外の舞台の設営を手伝い、舞台が始まれば着替えを手伝った。幕間には客に飴や煙草を売り、そして箒を持っての掃除まで息をつく間もなかった。

しかし廬へ戻ればそこでは地主以外には彼らを雇う余裕のあるものはなく、その地主も農閑期のこの時期人手は余るほどだった。

そしてそこでの生活を支えたのは主に館での夜の仕事だった。
毎夜座員の誰かが館へ出かけ、行けば厨房の隅で余り物にありつけたので、僅かな食糧からその分減らさず済み、小狼などにはそれだけでもありがたかった。
小狼が出かける前には女のひとりが硬く薄い唇がふっくら見えるように丁寧にたっぷりと紅をさし、目元にも頬にも色を足した。
黄海で焼かれた肌からは少し日焼けの色が抜け始めたものの本来の肌色にはまだ戻っていなかったが、なめし革のようだった肌理はごしごしと毎日擦られていたおかげで多少細かく柔らかくなっており、化粧をして夜の灯りの下でならなんとか娘に見えなくもなかった。

一座は唱や踊り、ちょっとした雑伎などで食事の座興を務め、旅の話しや近頃の世相を聞かせた。相変わらず何も出来ない小狼は主の横に座って酌をするだけだったが、主の命で少し舞って見せたりもした。俄仕込みの舞台ではとても通用しないものだが、娯楽に乏しい田舎の夜になら、また他の座員の芸が年老いてはいてもいずれもそれなりのものだったので、ひとりくらいそれも可愛い小姐なら下手も愛嬌のうちと許され、家にもあたりにも農家の娘しかいないせいか、明るい色の衣装を着てくるくると廻ってみせるだけで小狼が一番喜ばれたのだった。
つい先日までなら酌なんかしろと言われれば、酒器で相手をぶん殴りかねなかった少年の仕草のぎこちなさも気の良い家公は初だと面白がり、酒がうまいと喜んだ。

雪の少ない南の土地で冬も往来が可能だったので、お互い暇の多いこの時期、客を迎えることもあった。はじめて来客のあった夜、夜更けまで座が長引いて覚えた踊りの少なさに間が持つのかと小狼は気をもんだが、そんな時間になれば何を踊るかなど誰も気にしていなかった。仲間の奏する哨吶や鼓の賑やかな音に励まされながら、もともと人一倍身体への接触を嫌う小狼は気を許せばすぐ身体にまわされる客の手をすり抜けながら、どいつもこいつも早く酔いつぶれちまえとばかりにせっせと酌をして回った。



客もないいつもの夜は他の座員は出番が終わると先に帰ったが、小狼だけは主が寝付くまで相手をしたので毎夜帰りは遅く、夜明け近くに戻ることもあったが、小屋に着くとどんなに遅くともその気配に必ず誰かが起きて、乏しい暖をとる灰に埋めた壺から浮き身もない汁物を注いでくれた。途中の寒さに凍りそうになった身体をそれに暖められてなんとか化粧を落とすと、酒席の匂いを残したまま身体を丸めて泥のように眠った。