こちらに来てまもなく、夕餉を終えた家公に立ち上がりながら頷かれたのは小狼だった。そのあまりに自然な仕草にしばらくその意味が分からぬまま手に酒器を持って座り込んでいたが、脇から肘でつつかれふらりと立ち上がった。座にはあの出来損ないの旦の片割れが残っていてその場にも居合わせ、彼はちらと小狼を見やると片づけていた二胡を下ろし膝をついたまま主に擦り寄ったが、そちらは振り向きもされなかった。
やむを得ず彼は前を通った小狼の手首を引き寄せて耳元で何ごとかを囁いたが、小狼は掴まれた手にも気付かないようだった。
そしてほろ酔い加減の足取りで、先ほど仲間が演じた唄の一節を口ずさみながらゆっくり歩く主のあとを、横目で逃げ出す隙はないかと見回しながら付いて行ったが、食事の堂から欄間のある渡り廊下を抜ければすぐに臥所だった。
「いくつになった」
組み物の美しい黒く塗られた臥牀に悠然と潜り込みながらそう問われても、娘の姿の自分がどのように見えるのかは見当もつかなかった。やむを得ず正直にそのまま答えると、少し見直したようだったが、ふむと言っただけで脱ぎ捨てた衣の方に顎をしゃくられ、震える手で拾って機械的に畳むと、臥牀の傍らに座るように言われた。
そしてそのまま彼が寝付くまでとりとめない話しに耳を傾けそれに相槌を打ったりして過ごした。
それはそれから毎夜続いた長い冬の夜の始まりだった。
聞かされたのは、その日の夕餉の味や朱旌が語り聞かせた市井の噂話への少々辛口の意見など寝付きの悪い酔客の繰り言のようではあったが、商人の農民への掛け金の取り立てのあこぎさを語るうち、なぜかどこか大きな街の府第らしきところの話になり、そうかと思えば朱旌も行かないような辺鄙な地の困難な開墾の話になったりもした。掛け売りなどしてもらえず、痩せこけた土地すら与えられない黄朱の少年にはそんな縁のない話も多かったが、その中にこんな寒村の寝物語で聞かされるとは思いもしないほどの経験と知識の断片を垣間見せることがあった。
いったいどういう暮らしをしてきた人なのだろうと思ったが、書などと無縁で限られた世界しか知らない小狼が、自分の置かれた状況への不安を忘れて思わず熱のこもった相槌を打つこともあったほどで、そしてそんな時主の方も微睡みかけていたのがふと目覚め、何を話していたか思い出そうとしてまたとろとろと続きを話し始めたりもした。
しかし一方で憑かれたように話しかけたままぷつりと声が途切れる事があり、小狼が帷の陰からそっと覗き込んだその横顔には宵に見せる気の良い田舎の旦那といういつもの姿には見られない陰があった。
臥室の小さく灯された明かりは、磨き込まれた石の床から冷えが這い昇るのに耐えながら座っている小狼の歪んだ影を壁に描き、水をと言われて身を屈めれば袖口から下がる長い水袖が薄く透けて衾の上にまだらな影を落とした。
そして、ある夜、またあの口に出せない何かで家公は言葉を止め、房内に沈黙が落ちた。
相手の気配を息を潜めて探り、身じろぎする事も許されずその次の動きを待つのは小狼の以前の生活での身に付いた技だった。時を忘れるほど長くなることがあっても、それは黄海では敏捷さと同じく朱氏にとって大切な武器であり防具だった。
おそらく朱旌ならこの沈黙に耐えきれず媚びを含んだ声でもかけるところであろうが、彼は沈黙を守った。
「今宵は冷える。寒かろう」
やがて目を閉じたままそう言われ、言葉と共に僅かに引き寄せられた衾の襞とそれを軽く掴んだままの大きな手ををしばらく見つめた後、揃えていた膝がかくかくするばかりで力が入らないのをなんとか伸ばすと厚い帷の外に立った。
「女じゃないけど」
何日もこんな時のために考えた言い逃れや言い訳は吹き飛んでの可憐な姿に似合わぬ物言いにも驚きもせずくつくつと笑った相手に小狼はぽかんとした。
「知ってたのか」
「なんでもよいのだ」
俺は男どころか人でもないのか。
「花鈿をとるのを忘れずな」
動かない気配にまた声がかかった。
「呼んだ意味を知らぬとは思えぬが」
年の割に頭が回りすぎかわいげがないと言われてきた小狼がそれでも何も言えなかった。
なんとか臥牀の縁まで近づいたが、脚を上げようとしても強張った膝が曲がらず辛うじてかかとが浮いただけだった。爪先立った形になった足は、やはりぎくしゃくとしか動かないその上半身の重心に耐えきれず、腕はそれを支える力を持たなかった。
ぱさり
男は突然つんのめったかと思うと自分の褥の上に突っ伏したままぴくりともしない小旦を呆れたように見下ろした。
三彩の釉薬のように鮮やかな青と黄の衣に倒れた時に少し崩れた黒い髪が重なり、見ればいつの間に抜いたのか言われたとおりに花鈿が握り締められ手から突き出していた。
首をもたげてしばらく見ていたが固まったままで動かないその姿に、その中で小さく震える飾りに免じて諦めることにした。男は枕に頭を埋めるとまたいつものように独り言の世界に浸り、褥の襞の中からもごもごという声とそれに合わせてぴくぴく揺れる歩揺がそれに応じた。
男は自分の事はほとんど語らなかったが、それでも彼が仙籍を返しここに隠居したとは分かり、以前は妻子もあったようだった。しかし彼らがどうなったのかは何も言わなかった。ここで見かけた家族と呼べるのは、父親らしい年配の男とやはり親戚という奥向きの采配をしている女だけだった。
すでに彼の心の時はいつからか止まっており、仙籍を返納した今、肉体だけが再び老いに向かって動き始めていた。
こうして小狼は夜ごと、酔いの中で呟きながら眠りに落ちつつある男の傍らで、窓越しに闇に雪がちらつくのを見つめて、その眠りが深まるのを息をこらして待った。
夜になれば与えられた小屋の薄い壁越しに寒気が入り込み、朝起きれば小屋の前に置かれた水桶には薄く氷が張っていた。雪深い地方でないのがせめてもの救いだった。
なんとか餓えもせずその土地で年を越したが、その冬、何度か朝になってもひとり起きてこないことがあった。
見に行けば安らかに二度と目覚めぬ眠りに落ちていた。いずれも年老いて、あるいは病弱で長らえないと分かっていた者だったが、屋根のあるところで仲間の中で逝くというのは朱旌なら幸せな最期と言えた。
弔いはひっそりと行われた。浮民は里の閑地に葬ることになっていたが、ここの地形のため許されたのは里の外れの山の中だった。亡骸は山あいのその閑地に仲間の手で運ばれたが、冬の山までついて来れない者もありいっそう寂しい弔いだった。
肩を寄せ合うように小さな小屋で暖をとって過ごす仲間がまた減り、ひとりが亡くなれば、それに親しい者ほどまた老いた。
朝は小狼を起こさないよう周りはそっと起き、米が少なく顔の映りそうな朝餉は一番たくさん残しておかれた。無言のそんな思いやりも小狼には負担だった。
また眠っている小狼のもつれた髪の上を皺だらけの手がそっと往き来して、小さく呟かれることもあった。
「こんな若いこれからの子が、しかも本当の仲間でもないのに、年寄りに死に場所を与えるためだけにこんなところにいるなんて、あたしたちの生き方に反するよ。許しとくれ」
それを聞こえてはいても寝たふりをしてやり過ごした。
以前のようにまだ寝ているのかと蹴飛ばして欲しかった。
誰も、誰も、俺に触れるな。