銀葉 3

目的の邸には騎獣ではひと飛びで、小狼にはあまりに短すぎる飛翔だった。
そして着くなりきびきびと降り立った官から手綱を預かると、すぐに騎獣の細い首筋と背を腰にぶら下げたままだった手巾で優しくぬぐってやった。一座に来てからは荷役用の力はあるが無骨で鈍い一生地を這うしか出来ないのばかりの世話をしてきたので、こんな騎獣に触れるのは久しぶりで楽しかった。それは以前宰領〈おやかた〉が捕らえた時、いつかこんなのを自分のものに出来たらどんなに良いだろうと思った種類だった。

「こいつは速いし、頭も悪くない。毛並みも綺麗で見てくれもいいから、街の小金持ちや官吏には人気がある。ただ重い物は運べないし、何より神経質でな、戦の場にはむかん。しかしいい値で売れるぞ」

懐かしい宰領〈おやかた〉の言葉を思い出しながら、中でくるくる渦を巻く優しげな眼を見つめてさらに手で撫でていたが、その側で人気のない家に呼びかけていた官の声にやっと奥から人が出てきた。
官が名乗ったとたん慌てて跪く家人の様子から、どうやらこの若い官はその身軽さとは裏腹にやはりかなりの地位らしい。

「お迎えが遅れまして、あいすみません。家公がお戻りでみな奥の方で忙しくしておりまして」

官はくどくどと続く言い訳を遮って一座の女の集められたところに案内させたが、薄暗い物置で飼い葉や飼料にもたれて粗末な碗を抱えて夕餉らしきものを食べていた中には、あの娘ともうふたりばかりがいなかった。小狼にそれを告げられた若い官は家人を問いつめすぐにさらに奥へと向かい、小狼も騎獣をそこの柱に繋ぐと慌てて後に続いた。

奥へ行けばそれ以上案内される必要もなく、院子越しに微かな楽の音が聞こえ、堂屋の扉の前に立てば中では楽器を奏でるだけではなく歌も歌っているようだったが、少年がまだ聴いたことのない気怠い曲で、演奏は途切れがちで歌声は歌というより溜息のように弱々しいかと思えば突然けたたましい嬌声となって楽の音を遮っていた。
官はそれを耳にすると舌打ちしてそちらに向かったが、付いて行きかけた小狼は朱氏の本能で足をとめた。

一方官の方は苛立たしげにばんと扉を開けて入ったが、とたんに中に立ちこめていた濃い香に巻かれ、怒鳴ろうと開いた口から思い切りそれを吸い込みむせた。それでも何か言おうとしばらく足掻いていたが思うようにならず、結局力尽きてそのままふらりとそこに倒れ込んだ。
小狼は扉に邪魔されて彼の様子が見えなかったが、たしかに何か言いかけていたはずの言葉が途切れたままなのが気にかかった。そこで近寄って開いたままの戸口から覗き込んだものの流れ出る香の匂いにすぐに袖で口を被い、煙を防ぐには余りに薄っぺらなその袖の隙間から見た目の前の様子に立ち竦んだ。しかし後退りしようとした時、その足もとの動けぬ身体に気付き慌てて片腕で抱き起こそうとした。

「おい、大丈夫か?」
「あ……、ああ」

言いながらもごほごほとむせる様子に、小狼は急いで香を吸わないようにまた息を止め両腕を使い長身の官を必死でずるずると外へ引きずり出した。

「どうしたんだ?大丈夫か?」

先程までの気合いの入った姿とは一転したその身体を中庭に面した段に座らせ、自分にもたれかかる重さに耐えながら、頬をぺしぺしと叩いてなんとか意識を取り戻させようとした。
開いたままの扉からは、まだあの楽の音と言葉を成さない声が香の煙と共に流れ出てきたが、小狼は先ほど房を出る前にもう一度官の身体越しに見てしまった中の様子を思い出さないように、せめて背後の扉を見まいとぎゅっと眼を閉じた。それでも男を支えているため塞ぐことの出来ない耳に聞こえるものが辛かった。

そこへ騒がしい足音と共に一団の兵が到着した。

煙に気をつけろとの注意は官の様子を見れば不要で、兵の到着を教えようとまた少年に頬を叩かれ肩を揺すられ、それでなんとか意識を保っている官はむせるのに耐えて指示を出すと、兵は堂内になだれ込んだ。

「女は悪くないんだ。乱暴にしないでやってくれ」

背後から叫ぶ小狼の声は重い兵の足音に消されたが、香のためかさしたる抵抗もなく皆引き出された。

庭に集められた女達の姿は少年の目にはまた辛いもので、はだけた衣の前を整える者もないままに、先程まできれいに掃き清められていた砂の上にだらしなく座り込み、何が可笑しいのか突然笑い声をたてたりした。
小狼は彼に支えられて辛うじて座っている官の重みに、置き去りにして逃げ出すわけにも行かず、堪らなくなって官の脇に頭を押し込むようにして顔を背けたが、そこにはあの香の香りが一層濃く籠もり、その中で見た嬌態がまた脳裏に浮かんだ。
官も女の様子を哀れと思ったのか、すぐに下がらせ世話を命じた。そして残されたこの家の主である部下を睨みつけたが、相手は朦朧として締まりのない顔でへらへら笑うだけ、またこちらもみすぼらしい少年に身体を支えられながらむせて声も出ないでいる有様では取り調べはとても無理と、城内の牢に連行を命じるしかなかった。

一同がそれぞれのところへ散り、あたりに残されたのは邸の者だけで、主を捕らえられてはこの後どうしていいのかとあたりをうろうろするばかりであった。
兵を連れて来た副官も何か指示を受けてどこかへ行ってしまい、あの官のそばにいるのはまた小狼だけになってしまった。いつの間にか今度はゆらゆらと身体を揺すり始めた男に、支えているのかしがみついているのかわからない格好で、一緒に座り込んでいたが、男の衣からはなおもあの香が漂い続けて、少年を悪夢に引き戻そうとしているようであった。

やがて戻ってきた副官に後を任せると、まだまともに歩けない官は騎獣を中庭まで連れて来させた。小狼は手伝ってなんとか彼を騎獣に乗せたもののすぐにも落ちそうな危なっかしい様子に目が離せず、見かねて飛びかけた騎獣によじ登った。官はそのいきなり後からしがみついてきた少年を気にした様子もなくそのまま飛び立たせた。

「おい、家はどこだ?」

翔んだもののその手綱を持つ手の頼りなさに不安を感じて、後から回した手を添えるとあっさりと任された。

「……ああ、騎獣に任せておけばよい」

そう言うとなんとか気を張っていたのが仕事が終わり、手綱も手放した事で一気に緩んだのか、ゆらゆらと辛うじて座っているだけになり小狼をあわてさせた。幸い騎獣は彼の言った通り勝手に飛び続け、やがて広い邸に付くとすぐに男が現れて主人の姿に驚いたが、人を呼び集めてふらつく身体をを支えて皆で連れて行った。
騎獣もさっさと奄と共に厩に行ってしまい。気が付けばひとり残された小狼はやっと通りかかった者に仲間の待つ門への行き方を尋ねる事が出来たが、街の北側にあるここからでは南の門はかなり遠いと分かり、途方にくれた。しかしいつまでもここにいてもしょうがないので出かけようとしたところへ、先ほどの家人が現れて呼び止めた。

「家公さまから今夜はこちらへ泊まってよいとの仰せだ」

いったい主はどこでこんな小汚い小僧を拾ってきたのかと、胡散臭そうにじろじろと見られたが、小狼の方ではその言葉であの官がまた少しは意識を取り戻したらしいと分かって安心した。
どうせ仲間は今夜は自分が帰ってくるとは思っていないはずだし、何より今帰ればあの事を仲間に告げなくてはならなくなる。そこで泊めて貰うことにした。

「厩でいいよ」
「いや、言いつかった故そういうわけにも」

やや不満そうな言い方であったが、通された廂房を見ればそれも無理はなかった。むろん邸の中では簡素な方なのだろうが、ひとり分の臥室のついた房間で小さな窓にはなんと玻璃まで入っていた。
また着ていたものを中に持ち込まず、早く煙の毒を洗い流すようにとの言付けもあったので、襤褸を脱ぎ捨てると井戸端でたっぷり水を使うという贅沢を存分に楽しみ言われたとおりしっかりと髪まで洗った。

房に戻ると誰かの古着らしいが被衫が簡単な夕食と一緒に置かれてあり、着ていた半袴はどこかへ持ち去られていたが、それよりこの古寝間着の方がよほどものは良さそうなので気にしないことにした。
しかし彼にはご馳走なはずの夕食にもあまり食欲が起きず、明朝早く起きて仲間のところへ戻ろうと、早々に寝ることにした。
厚みのある褥は誘うようでいそいそと転がり込んだが、柔らかな夜具が慣れないため肌に合わないのか落ち着かず、ひとしきりごろごろと転がってみたもののどうにも眠れずとうとう起き上がった。

小さな窓越しに外を見れば少し離れた建物が見え、それに誘い出されるようにふらりと外へ出た。

S: おい、おばさん
T: (むっ)おねえさまとお呼び。
S: やっぱ朱旌ってやばいじゃないか。
T: でも正義の味方がちゃんと助けに来たでしょ。(うっとり)
S: ああ、あのおっさんか、だけど遅すぎたぜ。
T: おっさん…せめてオジサンと。呼び方と言えばお名前は気に入った?ここじゃ(倉庫番が怠惰のため)名前は滅多につけて貰えないのよ。
S: 蓬莱のアニメに同じ名前が出てくるから手抜きのパクリだって、オジサンが言っていたよ。
T: (余計なことを)あ、あれはね、これを書き終わった後で始まったので知らなかった…
S: じゃあ変えればいいじゃん
T: (そう簡単に名前が思いつけないからうちのサイトは名無しのキャラばかりなんだって)ほらあのオジサン(オジサンになってしまった)もまだ名前書いてないし、きっとぼうやが羨ましくてひがんでいるんだよ、ね、ね。
S: ……