辺りを見回すと、右手の小高くなったところに先ほど見えた主楼らしき建物があり、少し光が漏れていた。ぶらぶらとそちらの方へと向かってみると、それは切り立った小さな崖の上に張り出すように建っており、平地に平屋が普通のこの辺りには珍しい建物だった。光が漏れていたのはその窓のひとつからで、見上げるとその光の中に人影があった。
「誰か」
逆光で顔は見えないが聞き覚えのある声にそのまま近づいて行った。
「俺だけど」
相手が少し下を覗き込んで少年を確認した事が分かった。
「おまえか。眠れないのか?部屋はどうだ?」
「あんまり良すぎて眠れない」
笑い声までは聞こえなかったが、小さなくぐもった響きから少し笑われたようだった。
「そっちの調子はどうだ?寝てなくていいのか?」
「ああ、まあ動けるようにはなった。世話になったな、礼を言う」
小狼は何も考えずにさらに建物に近づいた。
近づいたので陰になっていた男の顔が背後の光で朧気に浮かび上がった。
表情までは見えないその顔を確かめるように眼を離さず、小狼は身軽に目の前の柱をよじ登って、とうとう男がもたれていた露台の柵に跨ったが、相手は特にそれを咎める様子も見せなかった。
「あの煙、何だったんだ?身体が痺れるのか?」
「そう…だな。動けなくなる、それになんというか子供にはあまり聞かせたくないものだが」
男はしかし小狼が連れ出された女達の姿を見たのを思い出した。
「内は見たのか?」
「あんたを引っ張り出す時にちょっとな」
「そう…か」
男が苦々しげに顔を歪めるのが見えた。
「まあ、見てしまったならしょうがないが、そういうものだと言うことだ」
小狼は半人前扱いには慣れっこだったが、このように子供として何かから庇われることには慣れていなかった。
一方男の方は、こちらに戻ってなんとか身体が動くようにはなったが、湯で流しても長々と蒸し風呂に座り込んでみてもあの香りが抜けないように思え、諦めて湯殿から出てきた身体にかけられた大きな布は織り糸の一本一本が肌を刺した。
そのうえ水気をぬぐうためそれを肌に押し当てた奚の手は布越しとは思えず、なんとかそれに耐えていたが、肌着を着せかけられるころには、前を合わせようとしたその手を思わず振りほどいて乱暴に自分で帯を結ぶと、何か気の染まぬ事をしでかしたかと膝をついたまま狼狽える娘を可哀想に感じる余裕もなく、湯殿を飛び出した。
その後夕食の世話をする別の奚の存在にも苛立ち、結局召使いは全て母屋から下がらせ一人きりで自室に篭もり、これでやっと落ち着くかと思えば、今度はあたりに染みこんだ自分の愛用の香が鼻について、とうとう長い間使われず少し黴くさいが人の気配の感じられないこの房を見つけて今夜の寝場所としたのだった。
「大丈夫か?」
小狼はむろんそんな事までは知らなかったが、どこか気になるその様子に、跨ったまま欄干をずるずる滑って近くで顔を覗き込んだ。日に焼けた少年とは違い色白な頬は今は風呂上がりのためか妙に血色が良かったが、健康的な赤みとはどこか違った。
「眠っているといつまでもあれがきれないようで……」
男はあれほど人を避けていたことも忘れ、そのまま足下の地面までの高さを楽しみながら足をぶらぶらさせて手すりに跨っていた小狼を見ていたが、なんとなくそちらに手を伸ばした。
そして下を覗き込んでいた小狼は男の指先が彼の寝間着の袖を掴んだのに眼を上げた。
そのままどちらの方が動いたのかわからなかった。ただ急なその身体の動きに外へ垂らした方の足から脱げた鞜が、庇に当たってからんと音を立て下に落ちて行ったが、どちらの耳にもそれは届かなかった。
小狼が咄嗟に思ったのは、またあの香の匂いに巻かれるということで、息を止めようとしたが、鼻に押し付けられた衣にあの匂いはなかった。
そして気付いた。なぜここへ来たのか、なぜここまでよじ登ってきたのか。先ほど見直したそれは結構な高さで、普通ならいくら身の軽い少年でも恐ろしくて登れない造りだった。
それでもなぜか彼の存在に気付いたとたん引き寄せられ、彼の側に近づけば近づくほどその力が増したようだった。
あのあと媚薬の香りのするこの男をずっと抱えていたことを思い出した。
あの香…たったあれだけしか吸っていなくても……それに気付く位には頭が働いているのだが。
しかしこうして今は湯浴みの香りしかせずとも、この胸に戻ってみれば、先程まで普通に振る舞っていたのが嘘のようで、もはや正常な感覚は失われていた。
自分に巻き付いたのは確かに若い男の腕。しかし抱え上げられ見上げればそこに見たのは彼のではなく自分の顔、しかも横たえられた身体こそは自分のものであるはずだが、なぜかあの一座の少女だった。
それを男の目を通して見下ろしているという感覚に混乱し、逃げなければと思いながらも、もどかしげに衣にかかる手が自分のものかどうかも定かでないとなれば、何をどう止めればいいのかもわからなかった。
それでも確かに一度は逃げようとしたものの、ぐいとまだ解いていない腰紐を掴んで引き戻され、そのため衣の下の意外と白い肌についた紅い細い跡を、そのあとざらりとしたもので辿ったのは誰だったのか。
目を閉じれば、絹のしゃりという快い響きが、着古されてこしのなくなった木綿と擦れ合い鈍い音に変わるのだけが耳に残り、これが確かに現実だと少年に分からせた。
黄海から来たちびなんかと言いたげなちょっと澄ました娘、小狼より年上だがそれでもまだ女とも言えない年頃のあの少女の垣間見た姿、赤と黄の衣が片方の肩にかかったまま少し赤みがかった髪と共に揺れていた、が自分の身体になっていた。そこに伸びる手にも耐えるしかなく、しかしそれはあの時彼女を掴んでいた剛そうな毛の生えた手ではなく、今感じるのはもっと優しい手。しかしそれはやはり逃げることは許さず容赦なくしっかり彼を捕まえていた。
入り口で立ち竦んだ彼に気付いた筈もないのに、やや仰向けにこちらを向いたあの顔はたしかに微笑んでいた。歪んだその微笑みと同じものが今の自分の口にも浮かんでいるのだろうか。
……すまない
混沌とした時間がどれほどか過ぎ、握り締めた拳と噛み締めた歯を少し緩めた頃にそんな声をかけられたように思った。
それにいくら香で感覚を失った身体にでも許せないと言ってやろうと思っても何も言えず、ただうしろから回されている手をはね除けてその気持を表そうとした。しかし触れた手はそのわびの言葉を裏切って今なお少年の痩せこけた小さな身体から離れる事ができずにいて、はね除けたつもりがそこにまた新たな刺激を与えることとなった。
そして初めて知ったその感覚に息をのみ堪らず反らした頭をひねると男の胸に寄せて擦り付けた頬で答えた。
…しょうがないや
おれより沢山吸ったんだから。
俺がふらふら出て来たんだから。 でも…ひどいぜ…
小狼: おい、おばさん。あれは何だ。
たま: (聞こえないふり)
小: おれ、♂だけど、そいでもって可哀想なみなしごのキャラなんだけど。
た: (そんなかわいげのあるキャラには見えないが)
あれは…何というかとにかく、ほら、女の子が出られなくて他にはいないし。
小: このサイトの連載って出るとろくな目に遭わないって噂は本当だったんだな。
た: え?
小: かわいそうにあのおっさん、落ち込んでたぜ。わたしはそちらの趣味はないのに、とか言いながら。
た: そ、それはお気の毒な…お詫びに行ってこよう。
小: 俺は気の毒じゃないのか。
た: 少年よ、何ごとも経験だ。