いつもなら彼がまだ寝ているのに気付いた相手はまず蹴飛ばすか頭をひっぱたくかだった。しかしその朝小狼が目を覚ますと、傍らにいた相手はきちんと身支度を済ませ、ただ彼の様子を見に来ただけのようであった。
慌てて起き上がろうとしたものの、身体に感じたものに思わず一瞬身体を止めると、優しく肩に触れてまた横にと促された。
「起きなくともよい」
そしてそのまま戻す手で少年の口元に被さっていた髪を細い指で払ってやったが、横目でその指の動きを追い、昨夜その手が髪を掴んだ時の事を思い出してびくりと身を引いて避けた少年に慌てたように手を引っ込めた。
「大丈夫、もう…触れはせぬ」
するっとその手が両方とも袖口に仕舞われたのは、その言葉を証明するためなどではなく、官としての習慣なのだろう。
「今日はここで休め。昨日準備させた房へ戻ってもよいが、ここはもともと空いた部屋なので遠慮はいらぬ」
「みんなが待ってる」
「座の者には今日の取り調べで会うから伝えておこう。調べにはこれから数日はかかると思うし、そのころには女たちも元気になっているだろう。今戻ればおまえも取り調べに呼ばれるから今日はここに残れ」
そしてしばしためらっていたが尋ねた。
「もしや、初めて、であったか」
その言葉に口をへの字に曲げてこちらを睨んだ少年を不憫そうに見つめた。
「一応世間の話としては聞いてはいたし、おまえも女についてそれらしきことを言っておったので、まさかと思ったが」
「俺は訳ありで朱氏の宰領に期限付きで預けられたんで、本当の一座の者じゃない。簡単な芸の練習と下働きだけだった」
「そうか。決しておまえが朱旌だからというつもりはなかったが、こうなればいっそ噂どおりであればよかったのかもしれぬ。では昨夜はさぞ辛い思いをさせたかと。私にも思いがけない事で」
朱旌のガキ相手にこれほど気遣いをするくせに、言ってることとすることに違いがありすぎるぜ、と少年は睨むのをやめて頭をまた枕に落としながら溜息をついた。
「俺は自分で勝手に押しかけて来たんだ」
これも朱氏魂だろうか、こんなところでも人の思い通りにはされないと強がる少年に、男は窓の方を確かめながら苦笑した。
「しかしまともなら誰もここを登ろうなどとは思わないだろう。やはりあの香は恐ろしい品であった、それにしてもよく落ちなかったものだ」
それから顔を戻して言った。
「まあ、もう二度とあのような事は起きぬ。それにこれでおまえは私を二度も助けたことになるのだから、あとは安心してゆっくり身体を休めればよい」
そしてさらりと身を返して出て行った。
衣の裾が戸口に消えて行くのを見送ると少し寂しかった。
人の住まぬ黄海で宰領〈おやかた〉との旅がほとんどの朱氏暮らしに慣れた少年には、一座の集団での暮らしはそこに馴染めない理由のひとつだったが、久しぶりにこうして独りになってみるとほっとしたものの心細さを感じたのが意外だった。
そのあと寝床の中で、もそもそと動いて一番楽な姿勢をとろうとしたが、動くたびに襟元から慣れない残り香がした。
昨夜の男は愛用の香すら避けていたので、そこに残ったのは昨夜の記憶の中の男そのものからの香りだけだった。
―――どうしてもいやな相手の時はどうするの?
漏れ聞いた女たちの話を思い出した。
『やっぱりいいひとが相手だと想像するかなあ』
『でも眼をつぶっても、声が聞こえるし想像だけじゃ無理じゃない?』
『でも何度も何度も、良かった相手の香りを思い出すの。そしたら辛くないよ。』
朱旌が身を任せるのはそれを生業とする花子や伎楼の女とは違い、金銭を目的とするものではなく、いつもというものでもなかった。
それは多くの場合、さすらいの旅の途中に受けた庇護への礼や感謝の気持を表す手だてであり、先方から求められても応じるとは限らなかった。そこには彼らなりの理があった。
むろん今回のように甘い汁を吸おうとされたり、本人がそれで稼ごうとすることもない訳ではなく、またうまく立ち行かなくなった座などにはきれい事を言っている余裕などない場合もあった。
しかし籍を持たず伎楼に身を落とすなどと言う選択すら許されない黄朱にとって、社会に認められない身分だからこそ、それが最後の誇りを保つ手だてとなれば、余所で思われている以上に身は固かった。なにより下手な事をすれば他の座や仲間からの追放という彼らにとっては最も厳しい仕置きの可能性もあった。
思いもかけない成り行きでこんな事にはなったが、小狼にはこれからもこのような事をするつもりはなかった。
しかし目ざとい座長には隠しても無理だろうし、初めてでないとなれば今後は座長も遠慮なく自分を使うかもしれない。それは水くみと同じように座のひとりとしての勤めのひとつであり、そうなれば小狼にそれを断ることは難しい。
朱氏に戻ればそんな心配もなくなるが、残りあと僅かな座に残る間にも何があるか分からない不安定な日々である。
彼に出来ることは、あるかもしれないその時のために、衾の襟に鼻をすりつけて残った香りを確かめ覚えておく事くらいだった。
男には家族もいないようで、昨夜人払いされた広い邸には朝になると再びたくさんの召使いが立ち働いていたが、朝の仕事が一通り終わるとまた奥へ下がったのか人の気配は絶え静かだった。内環途からたった一筋奥まっただけとは思えない閑静な一帯にある邸には街からの物音も聞こえず、小狼の居るところからは一日小鳥の声が聞こえるだけだった。
むろん朱旌の子供の様子など、朝と夜に食事を運んで来た者以外見に来る者もなかった。なんとか臥所から這い出たものの昨夜の廂房へ戻ろうにも履いてきたはずの鞜がなぜか片方どうしても見つからなかったためもあり、今度は榻に寝そべって身体を休めるしかなかった。そして傷ついた身体を安全なところにいるうちに一刻も早く治して仲間のところへ戻ろうとする野生の獣の本能に従った。