「入ってもいいか?」
小狼は戸口から首をつっこんで声をかけた。
きちんと整えられた立派ではあるが取っ付きの悪い他の部屋と違い、ここは居間と言うより書斎といった感もあり、紙一枚だらしなく置かれたものはなかったがそれでも他の部屋よりは寛いだものがあった。
仕事から帰宅した後、読みかけの書を手に持ったままぼんやりと座っていた男はそれを下ろすと肯いた。
入ったものの、少年は少し離れたところに立ったままもじもじしていたが、思い切って尋ねた。
「みんな何か罰を受けるんだろうか?」
「いや、案じることはない。罪を犯したのは他の者、おまえの仲間はそやつらの裁きに証人として残って貰っているだけだ」
それを聞いて小狼はほっとした。何も悪いことはしていないとは分かっていても、何かあれば彼らのせいにされるなど朱旌には毎度の事だった。
「ありがとう。邪魔したな」
それ以上話すこともないので、そのまま出て行きかけたが、意外にも引き留められた。
「
少し話しをしてゆかないか?」
「
いいよ」
ぶらっと卓を廻って椅子のひとつに崩れるように座り込んだ少年を、男は背筋の伸びた姿で座って見つめていた。それをこちらもじろじろと見ていたが、なんだか居心地が悪くなってきた。
「家でもそんなにしゃちほこばっていたら疲れないか?」
もぞもぞとそれでも多少はしゃっきりと座り直そうとしながら言った。
男は少し頭を傾げて聞いていたが、少し笑って答えた。
「まあ、慣れの問題だな。官はきちんと座るのも仕事のうちだから、学校時代から自然皆そういう座り方をするようにしている。先輩の官の話しによれば、朝議の間姿勢を保つのに嫌気が差したら辞め時だそうだ」
「ふーん、あんた偉いようだからやっぱ少学とか行ったのか?」
「行った、その後は大学へ行ったが」
少年の頭には少学出の役人といえば、どの地方へ行ってもお目にかかれないほどの相手で、直接彼らをこづき回すのはもっと下位の官であった。大学などあることも忘れていた。
「大学なんか出たら、王様にも会えるんだろうなあ」
「お会いしたことはあるが、私の名など覚えられたとは思えない」
静かに笑いながら、男は今日は何をしていたかとたずねてきた。
ちょっと仕事をさせてもらって後はごろごろしていただけだったけど、飯はうまいぜと言うとまた笑われた。
「
官になって長いのか?」
こんな相手に何を言って良いのかわからないままたずねた。
「
いや、まだ数年というところだ。新米だな」
「
新米だっていうけど、こんな立派なところに住んでいるじゃないか」
「これはここにいる間与えられた官邸だ。私のものではない」
「昨日の家もここほどじゃなかったな」
「あれは彼の自宅だ。ああいう官はほとんど移動がないからな」
「あんたはすぐ引っ越すのか?」
「ああ、いつになるかは解らないが。ただ適当に移動がないと、あのような事が起きやすいのでその方が良いのだが」
一時少年との会話で気が紛れたようだったが、また表情が暗くなった。
「
あの煙については何か分かったか?」
「瘍医の話では普通は命に関わるようなものではないそうだ。ただ他のものに較べて効き目が長く続き、常用すれば一回の量を増やさなくてはならない。昨日のあの者は何度も使っていたため相当強く焚いていたようだ。となれば量的にはいずれ命に関わったかもしれないし、それより前に一日中その影響から抜けられなくなっただろうという事だ」
穏やかな顔がその時だけは冷たくなり、いっそ早くそうなればよかったと思っているのかもしれなかった。
「おかげで初めての我々にはあれだけでも効き過ぎるほどに強かったようだ」
そしてちらりと小狼の方を見て皮肉っぽく言った。
「まあ、そのようなものなので、唯一何か良いこと言えば多少の量ならまた吸うことがあっても、おまえは逃げる余裕くらいはあるだろうとの事だ」
それを小狼は下唇を突き出していやそうに聞いていた。
「あんたこそ倒れるほど吸ったのにあれだけで済んでよかったな」
あの夜のことをあれだけでと言えるのかと、男は小狼が何か嫌みでも言おうとしているのではと探るように見たが、どうやら心からそう思って言っているらしい様子に、つい勘ぐった自分の方が、作法も知らず生意気な口のきき方をしていても、子供らしい妙な素直さを持ったこの子より余程不作法なのかもしれないと考えた。
「私は仙だからよほどの事がない限り命は助かる。それよりおまえの方がよほど危なかったかもしれん」
ふうんと小狼は聞いていた。
「あの後指揮を引き継がせた官も当然仙であったためあの程度なら大丈夫だったが、女達を見張らせた兵が残った香りでおかしくなって周りは困ったらしい」
媚薬にふらふらになった兵はいずれも思い切り醜態をさらしたのだった。翌日それを聞かされた彼は、家に直ぐ戻らず府第へ戻ったら、あるいは邸で召使いをそのままにしていたらと、ぞっとした。
「あんな香を使ったからあいつは捕まったのか?」
「いやそんな事はない。実は女たちは売られようとしていたのだ」
少年はぎょっとしたようだった。
「伎楼かどっかにか?」
せめて伎楼なら、それなりの管理もありいずれ辞める道もあるが、籍を持たぬ者を狙うという事はそうではないはず。おそらく一生日の当たる所へは戻れぬところに送られようとしていたに違いなく、その一生も短いに違いなかった。しかしそこまでこんな子供に告げることは出来ず、男は伎楼とでも思わせておくしかなかった。
あの時先に他の者を呼んでおいたのは、予てからあの官に不信を感じていたため、朱旌の件を口実に邸を捜索しようと思ったのだが、よもやあんなものが出てくるとは思わなかった。
「あいつは金もだがあの香が欲しくて女を集めていたようで、女を相手に渡す前にさっそく自分でも先に楽しんでいたところを今回捕まったのだ。こうなってみると先日来の朱旌のごたごたにもあれが絡んでいたのかもしれない」
何かあっても、それが官吏によるものなら、朱旌としては訴えたりもできなかっただろう、と少年はごたごたを起こした彼らにも責任がある、と昨日あれほど恨んだ別の座の同胞に同情した。
「もしそうならあの時もっと原因を調べておけば、今度の事も起きずに済んだのかもしれない」
男は充分手を尽くさなかったと責任を感じ悔やんでいる風であったが、続く言葉に少年はどきりとした。
「そして前もって事情が分かっていたら、今回はすぐに手を出さずにもう少し様子を見て元締めの相手を捕まえることが出来たのだが」
「つまりあのままおれの仲間を見殺しにしたかったって事か?」
「……それで今後たくさんの女が助かるならそうしたかもしれない」
頭が怒りで混乱した少年に優しさの消えた顔が答えた。しかしすぐに苦々しげに呟いた。
「しかし、私には出来なかっただろう。そしてそのためにまた同じ事が起こるかもしれないのだ」
「あんた、官には向かないんじゃないか?」
少年も先程までの怒りを忘れて思わず言い、それに男はつい声を上げて笑った。
しかし、その時先程から何か引っかかっていた事にやっと小狼は思い至った。
「あの時、俺も呼ばれたんだったな」
官は深く溜息をついた。
「忘れていればよいと思ったが」
「もしかして」
「ああ、そのようだ」
話す内容はともかくそれなりに和やかだった堂内に沈黙が広がった。
つまりこの男が滞在許可に厳しかったおかげであんな事になったと思っていたが、そんな彼が野営を見逃さず立ち寄ったおかげで、自分は助かったらしかった。
その後の事も考えれば、感謝すべきなのかどうかはふたりのどちらにも分からなかった。
「あの方は国から来られた方だからたしかに新米とはいえ我々とは格が違う」
男の部下である官のひとりと話しをする事があった。
男は帰りが遅く邸にも戻らない事もあり、その後の女たちの様子が心配でもなかなか訊けなかった。そこでちょうど男の代わりに邸まで書類を取りに来た男が意外と気さくなのを見て取ると、騎獣の世話をしてやり、その間に事件のその後の様子とついでにあいつは偉いのかと聞いてみたのだった。
彼は府第を抜け出せた機会にのんびり休憩を決めこんだようで、石の台に腰をかけて、手入れをされる騎獣を見ながら適当にしゃべってくれた。そして事件については殆ど何も知らなかったが、あの官についてはそんな風に教えてくれた。
「国から?」
「ああ国官さまだ。この郷の長の監督にやはり国から来ている刺史の補佐をされている。私も官だが州で雇われた州官だ」
この大きな郷の長である郷長を見張るような役と聞いて驚いたが、この州官の自嘲的な言い方と一方で同じ仕事をしていても彼を仲間とは認めないという排他的なものに、国官であるというだけで彼を取り巻いているどこか冷たい周りの空気を感じた。
どうやら官には、州や郷といったその土地の役所の官と、国から派遣された官があるらしい。国官は数は少ないが地方へ来ればうんと偉くなるらしい。
彼も数年ごとに勤務が代わると言っていたので、おそらくここに染まるつもりもないしその必要もないのだろうが、最初に会った時のように貧しい被災者の宿まで自分で見て回るということはおろそかにするつもりもないらしい。
「あんなところまで自分で行くものなのか?」
その後聞いてみると、
彼は少し照れたように答えた。
「普通はそんな事までしないらしく、後でさんざん迷惑だとほのめかされた。私のようなのが行くと周りが気を使うらしい」
おまけに必要以上にすれば、今後他の者も同じようにしなくてはならない前例をつくることになり、同僚の仕事と立場を苦しくするとまでは言わなかった。
「仕事だと思っていたから行ったのか?」
「私は国から官に命じられている。あれがこの国の民である限りそれが安寧に暮らしているか確かめて手を貸すのが仕事だが」
この国の民という言い方に、どこか力がこもっていた。
ああ、国官というのはどこの州だろうがどこの郡だろうがこの国にいる者すべてを見るのが仕事なんだ。じゃあどこへ行こうと同じだな。
だが彼が見守る対象に自分や仲間が入っていないというのはちょっと残念だった。
調べと裁きは数日で終わらなかった。
仲間に会えるかどうかも分からず、勝手に出て行ってもよいのか迷い小狼は結局その邸に留まっていた。
むろん最初の一日を過ぎると部屋に篭もって寝ている訳にもゆかず、彼としても退屈なので、雑用を引き受けて小銭を稼いだ。
それでも戻る部屋は奄の雑居房ではなく、最初の日に連れて行かれた小さな房のままだったし毎日たっぷりと食べさせてもらい、仕事の後は川や池ではなく毎日きれいな井戸の水で水浴びして過ごしていた。