銀葉 7

ある晩男は久しぶりに早くに帰ってきた上に小狼の房までやって来た。最初が最初だったためかあの後二人きりになる個室は避けているようだったので珍しいことであった。

小狼は寝そべって小さな明かりを頼り男に借りた書を読んでいた。
本など貰うか拾ったことしかなく、自宅に書棚があるのを珍しがった少年が字が読めると知って男が貸したのだった。
書物が好きというわけではないが、文字が見えるほどの灯りも初めてだったので、こうしているとひどく贅沢な暮らしをしているという気がした。


「仲間の女たちはだめだった」

椅子に彼らしくもなくどさっと座り込むと、いきなりのその言葉に起きあがりかけたまま固まった少年から視線を逸らした。

「……嘘だろう。だって大丈夫だって言ってたじゃないか」

小狼は突然の言葉に最初意味が分からなかったが、なんとか事情を飲み込むと問い直した。

「たぶん、香が強すぎたんだろう。それから座長と別室にいた女も皆だめだった」

「何で座長や他の者まで。あそこにはいなかったじゃないか」

つい声がかん高く尖った。

「あの後弱った女の世話をさせるために一緒にしていたし、取り調べもあったからな、その時に染み込んでいた香を吸ったのだろう」

「じゃあ残ったのは?」

「町中の門のところに残った者はむろん大丈夫なはず、そしておまえだ」

堂内の煙を吸いながらも自分はこの官の配慮のおかげですぐにたっぷりきれいな水を使って洗い流すことが出来、そしてその夜はふかふかした褥で……そんな自分が許せなかった。俺がこいつの事なんか構わずに仲間である彼女たちに付き添ってやればよかったんだ。
この男の様子が心配で付いて来たのも事実だったが、自分があそこにあのまま居たくなかったという事にやっと思い至った。しかしあの時の娘の姿は少年にはあまりにも酷すぎ、留まって顔を合わせるのが辛かったのだ。

「俺があそこに残れば、あいつらの世話をしてやれば、……他の者まで死ななかった」

ぽろぽろと涙が出た。
黄海で仲間を失い、旅の途中で妖魔に襲われた事もある。だが襲われる時は皆同じだ。それに引き換え今度は仲間が苦しんでいる間自分はこんなところでのうのうとしていた。

自分を責めている少年を官は黙って見ていた。

実のところ一座の死因はあの香ではないと思っていた。いくらなんでもこんなに日が経って今頃死ぬはずがないし、関わった者のうちで彼らだけが死ぬはずもない。たぶん今回の件が拡がって何か露見するとまずい事のある者の仕業に違いない。しかしまだそれに繋がる証拠は掴めていないしこうなったらそれも難しくなるだろう。証人には無理だが現場に居た唯一の生き残りとなった彼の身を守るためにもそれを彼に知らせる訳にはゆかなかった。

たとえ土砂崩れの場所でもいいから泊めてくれれば、と仲間を案じて訴えていたこの少年の表情が思い出されてならなかった。
民と黄朱の両方を守ったつもりが、それによってこのような結果となったという事実に彼自身うちひしがれていた。

最初に舎館の薄暗い路地で見た少女はよくは覚えていないが、まだまだ親といるような年頃でけばけばしい衣装が痛々しいほどだった。そしてその次見たのは朦朧とした頭と目を通しても怖気がたつほどおぞましい姿であった。たぶんあれへの嫌悪感のおかげで、帰宅後なんとか耐え人を遠ざけることが出来たのだろう。

仲間を救えなかったばかりか最期に見たのがあのような姿で、この少年がどれほど傷ついているかと不憫だった。
黙って手を伸ばすと唇を噛み締め下を向いたままの少年を抱き寄せ、色が白くなるほど握り締めた両の手をその手で包んでやった。
少年は身体を強張らせたままだったが、やがてその胸に顔を埋めたままぐずぐずと鼻をすすり涙で顔がぐちゃぐちゃになった。

「き、着ているものを汚しちまう」

そう言いながら慌てて手をつっぱって離れようとする少年を引き戻してまた袖で包んだ。

「よい、気にすることはない」
再び顔を埋めて泣き続ける少年の頭の上に顎を載せてその頭を撫でてやった。

「そんなに仲間が好きだったのか?」

「好きな筈なんてないだろう。新入りだったからいじめられたしからかわれたし、小さい時からの芸人じゃないから何やっても下手で叱られてばっか。おまけに用事をいっぱい言いつけられて」

それでもあの座長は、宰領〈おやかた〉が頼んだくらいだから一応話しは分かる人だったしまともだったと思う。女達だって、からかいながらも着るものを縫ってくれたり菓子をくれたりした。
なにより社会に居場所のない黄朱にとって仲間だけが世界であり、その繋がりはかけがえのないものだった。まして小狼のように身内のない者にとってはどんな集まりであろうと入ったその日から彼らが家族なのだ。

ぐじゅぐじゅと鼻をすすりながらとりとめなく呟くそんな言葉を官は聞いていた。

朱旌はやっかいな社会の余計者と思い、手際よく邪魔にならないようにさばくのが官としての彼らへの正しい扱い方と思っていたが、その彼らのひとりひとりにも自分たちと同じ心があり、家族への愛情もあると初めて知った。

やがて止まらない涙にもどかしくなったのか少年は顔を上げると、自分の上にある頭に続く目の前のすんなりとした喉元に顔を寄せた。真っ白な襟元に顔を埋めてみたが、驚いた顔がこちらを見下ろし何か言いかけたその首にも両腕を回してしがみつき、顔を擦り付けた。
しゃにむにしがみつきながら、小狼は包む香に甘えていた。あの時房から流れ出たむっとするような香や一座の女が使う甘ったるい香でもない、控えめで涼やかな香にあの朝臥所に残されたのと同じ香りが混じっていた。贅沢な香を焚きしめた絹の衣、一生彼には縁のないその感触が何より親しく感じられ、それを握り締め頬を擦り寄せればいとわしい他の記憶から彼を守ってくれそうだった。

驚きから醒めてどうしたものかと、しかし夢中でしがみつく小さな身体を無理矢理引き剥がすことをその哀れさから躊躇っていた手は、諦めたように力を抜いて再び彼を包み、薄い衣の上を軽く叩いた。